私が今テキストにしている横関英一氏の名著は、ちくま学芸文庫版で、正式の書名は『江戸の坂 東京の坂(全)』です。つまり、『江戸の坂 東京の坂』と『続 江戸の坂 東京の坂』の、いわば正編(初編)と続編が一緒に収容されています。
初編の「あとがき」は昭和44年10月に、続の「あとがき」は昭和50年5月に書かれています。今から半世紀前に書かれたものなので、地名・町名・坂名・坂の状態などは、当然然るべき変化をきたしているわけです。しかし、こうした歴史的な状況変化は当然のことであり、横関氏の研究・著述内容の素晴らしさには全く影響しません。
<坂研究まねごと>はおかげさまで、本項で(20)となりました。横関氏とその文献の紹介を兼ねて、私のいわば“坂学入門”のメモを公開しているわけですが、横路氏の著書の内容に添えて、『秀樹杉松坂めぐり』の写真を改めて公開しています。文章だけよりは、少しでも読みやすいかと考えたからです。
坂めぐりの写真がこういう形で役に立つとは、思ってもみませんでしたが、ある意味、坂めぐりのレビューにもなっています。巡り歩いた876坂の中から、特定の写真を探すのは決して「楽」ではありませんが、さりとて全く「苦」にもなりません。いやむしろ、新しい「楽しみ」が増えたことを喜んでいます。 / Atelier秀樹
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(本題に入ります)
江戸には、かつて禿坂(かむろざか)と呼ぶ坂が六つばかりあった。その中で、二つは大名屋敷の庭園内の坂であったが、坂の付近には、きまって古池や川などのある、寂しいところの坂であった。
一体、この禿(かむろ)というのは何であろうか。昔遊郭で、遊女のそばにいて、その見習いをする十二、三歳の女の子を禿といった。髪を「おかっぱ」にしていたので禿と呼んだのである。「おかっぱ」は河童のような髪型のことで、頭の脳天のところを丸く剃り、周囲の髪を短く揃えて切った女の子の髪の形を言った。琉球(沖縄)では河童のことを、ガワッパと言ったり、カマロー、カムロー、カムラーマなどと言った。とにかく禿は河童のことである。
河童が大入道になったり、可愛い女の子の姿になったり、いろいろの化け物になって、人にいたずらをしたので、その化けた場所が坂なら、その坂は禿坂と言った。橋なら禿橋、屋敷なら禿屋敷、路上ならば禿横町とか禿小路、禿新道、小高いところなら禿山、禿塚などと呼んだ。
<禿坂>
禿坂は、次の七つである。
(1) 吹上坂(別名:禿坂)
↑ 第21回秀樹杉松坂めぐり(2018.1.4 / 写真 Atelier秀樹)
文京区久堅町、石川山善仁寺前を東北方へ下る坂、極楽水のそばで、吹上坂ともいう。坂下は、昔の谷端川が流れていた(以上原著)。/ 文京区小石川4丁目極楽水の宗慶寺と善仁寺の間を南へ春日通りの茗台中学の方へ登る坂。禿坂とも(以上現代)。
(2) 禿坂(別名・蜘蛛切坂)
↑ 第82回秀樹杉松坂めぐり(2018.9.23 / 写真 Atelier秀樹)
新宿区富久町、もと刑務所のあった辺、四谷番衆町から自証院(こぶ寺)前へ下る坂(以上原著)。/ 新宿区富久町の坂、都立小石川工業高(現、総合芸術高)前から西方東京医科大学前へ上る坂(以上現代)
(3) 堀田坂(別名:御太刀坂、禿坂)
↑ 第7回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.29 / 写真 Atelier秀樹)
港区麻布町と笄(こうがい)町と渋谷区宮比町との境、日赤病院の東北角のところの坂。堀田坂、御太刀坂などの別名がある(以上原著)/ 渋谷区広尾4丁目、日赤病院の東北街囲の坂。坂下は西麻布4丁目。御太刀坂、禿坂ともいう。今の日赤病院のあるところは、昔、堀田備中守の屋敷であった(以上現代)。
(4) 禿坂
↑ 第17回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.19 / 写真 Atelier秀樹)
品川区西五反田4丁目9番の天台宗行元寺前辺から、第四日野小学校前を、北方目黒川の方へ下る坂。
(5) 禿坂
昔、新吉原に近く、田町の袖摺稲荷の付近から、吉原土手へ上る坂であった。今の山谷堀橋のあるところが、昔の禿坂のあった跡であろう。吉原土手が崩された時に消えてしまった坂の一つ。今は無い坂。
(6) 禿坂
もと安藤対馬守大塚下屋敷(約6万坪)庭内の坂。今の大塚2丁目(旧大塚兵器庫のあったところ)。今は無い坂。
(7)禿坂
溜池、松平筑前守(黒田氏)中屋敷庭園内の坂。今の港区赤坂2丁目。今は無い坂。
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『秀樹杉松』102巻2774号 2019-1-8/hideki-sansho.hatenablog.com #414