今回は「ごみ坂」と「鉄砲坂」です。
さて、「坂研究まねごと」シリーズは、この22回で終了します。最終回は、質量ともに満載でしょう。本号には、“まねごと”のつもりで、<編注>を多く掲載しました。さらに、千代田区三番町と、駿河台の「ごみ坂」と、港区南麻布の「鉄砲坂」の3ヶ所にについて、“私見”も書き加えています。修行中の身でありながら、思い切ったことも書きました。また、坂めぐりの時の写真もいっぱい載せました。どうぞお読みください。 / Atelier秀樹
芥坂(ごみざか)と鉄砲坂とは、特別に関連はないが、共に坂路の崖下の特徴をつかんで施設され、活用されているところが似ている。芥坂は、その崖下に芥捨て場ができていた。鉄砲坂は、崖下に特別な施設をした幕府の鉄砲練習所があった。坂を利用した施設といえば、これら二つのもの以外にはなかったようである。(略)
<ごみ坂>
江戸時代には芥坂と呼ばれた坂が各所にあった。坂の脇が崖になっていて、ゴミを捨てるのにもってこいの場所であった。いつの間にか、此処が近所の芥捨て場になってしまう。それで、芥坂と呼ばれるようになった。(略)
ごみ坂は、芥坂、埃坂、塵坂などと書かれた。
<東京のごみ坂>
現在東京に、ごみ坂という名をを持った坂は、次の7箇所残っている。
(1)ごみ坂
文京区湯島三丁目、妻恋坂の途中から北へ上る坂。立爪坂(たてつめざか)ともいう。<編注>坂学会sakagakkai.org「坂のプロフィール」では、坂名:立爪坂(別名:芥坂)となっています。


↑ 立爪坂(芥坂)第19回秀樹杉松坂めぐり(2018.1.1 / 写真:Atelier秀樹)
(2)ごみ坂
新宿区築土明神裏手の坂。(現、築土八幡町)
<編注>坂学会「坂のプロフィール」では、坂名:芥坂(ごみざか)、別名:埃坂(ごみざか)となっています。


芥坂(埃坂)第87回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.3 / 写真:Atelier秀樹)
(3)ごみ坂
千代田区麹町三番町。(現、三番町と一番町の境)
甲賀坂、ハキダメ坂、五味坂とも書く。


↑ 五味坂(ごみ坂・埃坂)第10回秀樹杉松坂めぐり(201.12.8 / 写真:Atelier秀樹)
古い『麹町区史』は次のように書いている。「ごみ坂は一に甲賀坂と称し、本の名は光感寺坂であり、町の南、五番町から二番町に上る長さ1町弱の坂である。その由来は詳らかではないが、光感寺が本名とすれば、甲賀は光感の転訛らしく、ごみは埃にあらずして五二の転訛でなかろうか」。五番町から二番町へ上る坂だから五二坂と訛ったのだというのだが、江戸っ子は、そのような名前のつけ方はしなかったと思う。それはどうかと思う。どうも「五二坂」説はいただけない。
<編注>
①坂学会「坂のプロフィール」は、以下のように、千代田区設置の坂標識を紹介している。
「『麹町区史』には,「由来は詳らかではないが,光感寺が元とすれば,甲賀は光感の転化らしく,ごみは坡(編集注:埃?)ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり,坂の辺りは「五番町」で,坂を登ると上二番町なので,二つの街を結ぶ坂として「五二(ごに)坂」と名前がつき,「五味坂」に変わったのではないかということです。」
②つまり、古い『麹町区史』の「五二坂」説に横関氏は「いただけない」と疑問を呈し、千代田区標識は「五二坂が五味坂に変わったのではないか」としています。
③なお、坂学会、日本坂道学会ともに、坂名五味坂(別名ごみ坂、埃坂etc.)としています。
(4)ごみ坂
港区麻布桜田町(現、西麻布3丁目)。紺屋坂ともいう。
<編注>坂学会「坂のプロフィール」では、坂名芥坂、別名紺屋坂(こんやざか、こうやざか)となってますが、日本坂道学会tokyosaka.sakura.ne.jpでは 坂名紺屋坂(別名:ごみ坂)
↑ 芥坂( 紺屋坂)第8回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.1 / 写真:Atelier秀樹)
(5)ごみ坂
台東区浅草山谷町。今は無い。
(6)ごみ坂
千代田区神田駿河台四丁目。埃坂、紅梅坂、光威寺坂、光威坂とも書く。
<編注1>
他の文献では「光威寺」は「光感寺」です。「光感寺」が訛って「甲賀」になったのではないか、とされています。誤植?それとも?
<編注2>
此処のごみ坂は、複雑な事情が絡み合っているようです。幽霊坂と紅梅坂との密接な関係です。千代田区設置の標識には次のようにあります。(坂学会「坂のプロフィール」より)
①幽霊坂
もとは「紅梅坂」と続いていたが、大正13年の整地の際、本郷通りができたため二つに分かれた形となった。『東京名所図会』に「紅梅坂は往時樹林が鬱蒼にして、昼尚凄粛たりしをもって、俗に幽霊坂と唱えたりも、今は改めて「紅梅坂」と称す」と書かれている。古くは埃坂、光感寺坂とも呼ばれていたが、一般には「幽霊坂」の名で通っている。


↑ 幽霊坂(甲賀坂)第92回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.14 / 写真:Atelier秀樹)
②紅梅坂(別名:幽霊坂、光感寺坂)
この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町と呼んでいたのでこの名がつきました。淡路町とつながっていましたが、大正13年の区画整理の際、本郷通りができたために、二つに分かれた形になりました。


↑ 紅梅坂(幽霊坂)第19回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.14 / 写真:Atelier秀樹)
◉私見によれば、幽霊坂と紅梅坂は元々は「幽霊坂」という一つの坂であったが、本郷通りに中断されて二つの坂になったのではないか。幽霊坂が「古くは埃坂、光感寺坂と呼ばれていたが、一般には幽霊坂の名で通っている」との記述と、“紅梅坂の別名が幽霊坂、光感寺坂”との記述、からみて、幽霊坂=紅梅坂ではないか。幽霊坂は今も幽霊坂ですが、分断された坂は、(どこの幽霊坂もそうであるように)、幽霊坂を返上して「紅梅坂」に改称したとも考えられるのです。
(7)ごみ坂
暗闇坂、長延寺坂とも呼ぶ。<編注>坂学会「坂のプロフィール」では、坂名芥坂、別名暗闇坂、闇坂(くらやみざか)。


↑ 芥坂(暗闇坂)第88回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.5 / 写真:Atelier秀樹)
<鉄砲坂>
次に鉄砲坂であるが、鉄砲の練習のために、坂の崖下を削って射的場にしたことは、なかなか頭の良い利用法であったと思う。下町とか繁華街を避けて、山手の人通りの少ない絶好の場所を選んでいる。その頃はそんなところを、鉄砲稽古場、的場、角場、大筒角場などといった。
鉄砲練習場は必ずしも坂のそばとは限らないが、今日なお鉄砲坂という名を持った坂は、次の五ヶ所である。
(1)鉄砲坂
文京区関口三丁目とめじろ台三丁目の境の坂。この鉄砲坂だけが、昔の施設の概要を残しているおり、今日でも射撃場の形がはっきりと残っている。


↑ 鉄砲坂 第95回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.19 / 写真:Atelier秀樹)
(2)鉄砲坂
新宿区若葉二、三丁目の境。稲荷坂ともいう。
<編注>坂学会の扱いは、「坂名:鉄砲坂(別名:稲荷坂)」です。
↑ 鉄砲坂(稲荷坂) 第9回秀樹杉松坂めぐり(2017.12.7 / 写真:Atelier秀樹)
(3)鉄砲坂
港区南麻布五丁目(現南麻布5丁目と西麻布3丁目の境)、北条坂ともいう。


↑ 北条坂(鉄砲坂) 第1回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.21 / 写真:Atelier秀樹)
<編注>
坂学会の扱いは、坂名:鉄砲坂、別名欄に(北条坂の一部)。「北条坂」の坂下部に「鉄砲坂」の別名がある、と書かれています。
標識欄には、
→「鉄砲坂」と書かれた標識はなく,「北条坂」の標識が建っている。港区が設置した案内板(地図)には、「北条坂」と「鉄砲坂」とが並んで書かれている。
◉私が坂めぐりに行った時も、標識は「北条坂」だけでした。このケースも、基本的には一本の繋がった坂であり、その意味では鉄砲坂=北条坂ではないか。坂下だけを「鉄砲坂」とよんだとしても、一本で繋がった坂であったことは間違いないのではないか。「北条坂」の坂下部に幕府の鉄砲練習場があったので、そこの坂を「鉄砲坂」と呼んだのではないか。
(4)鉄砲坂
港区赤坂、豊川稲荷の脇(現、元赤坂1丁目)、「九郎九坂」のことであろ。火消し屋敷の前の坂が九郎九坂であり、ここに鉄砲練習場があったのであろう。
<編注>坂学会の扱い…坂名九郎九坂(くろぐざか)、別名鉄砲坂(鉄砲練習場があったから)
↑ 九郎九坂 (鉄砲坂) 第6回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.28 / 写真:Atelier秀樹)
(5)鉄砲坂(清水坂)
品川区御殿山辺、今は無い坂。清水坂ともいう。昔、坂のふもとの辺に清水井の名水があって、別名ができたのである。
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『秀樹杉松』102巻2776号 2019-1-10/hideki-sansho.hatenablog.com #416