<坂研究>まねごと~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~(25)車坂と車返しの坂
横関英一氏の名著『江戸の坂 東京の坂』の読書メモ、
今日は「車坂と車返しの坂」です。短いですが、興味深い内容です。「秀樹杉松坂めぐり」の写真も添えました。お読みください。 / Atelier秀樹
車坂という名の坂は、江戸と上方その他の地方では、その意味が違うようである。江戸の車坂は、この坂に限って、車が通っても良い、ということになっているようだが、上方とその他の地方の車坂は、車が通れない、または車が通ってはいけない坂というようである。
<江戸の「車坂」>
江戸の坂については、『江戸鹿子』(えどかのこ)に、「車坂、東叡山より下谷へ下る坂なり、車を通ずる坂なればかくいふにや」とある。
もう一つ、池上本門寺にも車坂がある。本門寺の高台へ上る坂みちは、朗師坂、表坂、大坊坂、紅葉坂、裏坂(これが車坂である)などあるが、その中で、車坂すなわち裏坂が、唯一の車を通すみちであった。
だから車坂は、江戸では大概車を通すことができる坂みち、車が通ってもよい坂みちを、車坂と言っているようである
<上方の車坂>
ところが上方の車坂は、車返しの坂と同じで、この坂から上は道が険しいので、車は通れないを意味している。すなわち、車返しの坂なのである。山は上へ上るほど険しくなるから、当然ここから車は返さねばならない。
京都の車坂がある『拾遺都名所図会』に、「車坂、上加茂より乾の方十四五町にあり。此坂を車坂といふは、むかし惟喬親王小野に閑居し給ふとき、此処まで乗車し給ひ、これより険路なるゆゑ、車を此処に乗り捨て給ひしとぞ。ゆえに此名ありといふ」。(もう一の例は省略します)
とにかく、江戸においては、車の通ることを許容しているのが車坂で、上方の車坂はみな車拒止の車坂で、上方の車坂と車返し坂とは、いずれも車拒止を意味している坂である。………………………………………………………
<編注>
『江戸の坂 東京の坂』巻末の「江戸東京坂名集録および索引」では、上野駅の「車坂」は一つだけで、「台東区、国電上野駅、公園口のところから南へ下る坂」とあるが、坂学会「坂プロフィール」には、以下のように二つの「車坂」が載っている。
①車坂(南) 別名:椿坂
台東区上野7丁目と上野公園の間。JR上野駅の公園口改札の前から南に下り,山下口付近まで。今の上野駅構内には上野寛永寺の下寺が並び,北から「信濃坂」「屏風坂」「車坂」とあった。前の2坂は明治13年ころまでは実在したが,その後の線路数の増設に伴って崖際が削られて消滅した。
車坂は二ヶ所にわかれた段坂で今の文化会館付近から駅舎の方に向かって斜めに崖地をくだっていたがそれも消滅したが,崖を削って台地と駅との間に坂道を残した。これが今の車坂で,江戸期の車坂とは形も位置も変化したものである。(「東京の坂風情」より)
②車坂(北)
台東区上野7丁目。JR上野駅の北東。両大師橋の東側の上り勾配。
明治初期まで上野寛永寺の山から東に下りる坂(屏風坂・信濃坂・車坂)があったが,JRの上野駅と線路が建設されたため,いずれも消滅した。現在の坂名は 旧地名“車坂町”によるのだろう。
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「秀樹杉松坂めぐり」で歩いた時の写真を掲載します。
上野駅の坂
車坂
↑ 第25回秀樹杉松坂めぐり(2018.1.30. 写真: Atelier秀樹)
<池上本門寺の坂>
此経難持坂(しきょうなんじさか)(表坂・石坂)
↑ 第34回秀樹杉松坂めぐり(2018.3.15. 写真: Atelier秀樹)
朗師坂
↑ 第34回秀樹杉松坂めぐり(2018.3.15. 写真: Atelier秀樹)
大坊坂
↑ 第34回秀樹杉松坂めぐり(2018.3.15. 写真: Atelier秀樹)
↑ 第34回秀樹杉松坂めぐり(2018.3.15. 写真: Atelier秀樹)
車坂(裏坂)
↑ 第34回秀樹杉松坂めぐり(2018.3.15. 写真: Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』103巻2782号 2019-1-20/hideki-sansho.hatenablog.com #422