横関英一『江戸の坂 東京の坂』の読書メモは、本稿で28回目です。<坂研究>のマネごとですが、今日の「切通坂」には<編注>をいっぱいつけました。やっと、“研究”めいた内容になったかもしれません。
「秀樹杉松坂めぐり」の写真共々、お読みください。 / Atelier秀樹
東京には、江戸の昔から、切通坂(きりどおしざか)と呼ぶ坂が多い。今、六つばかりの切通がある。小山のようなところを切り通して道路を造った場合、これを切通という。
切通しはだいたい、山を切り通して道路を造るので、その道路は坂道になるのが普通で、平地のまま真っ直ぐに山を横断、縦断することは少ない。道路の左右の高さが一定しているので、そのできた坂は上り坂となり、山を下る方には下り坂ができる。
山や丘が広大な場合は、一方の方から上るだけなので、坂の途中から下に変化することはない。要するに、道路の左右が切り崩して崖になっていれば、その道路は切通である。そして、その道路が坂みちになっていれば、その坂みちを切通坂というのである。
江戸時代には、初めてできた坂を新坂といい、その新坂が名前のある二つの坂の中間にできた場合、これを中坂と呼ぶのが常であった。だから、切通坂ができた場合、これも坂としては新坂であり、その位置が坂と坂の中間ならば、中坂と呼んでも良いはずである。そのことは切通坂の場合にも言えるのであるが、江戸っ子はやはり新坂と中坂と切通坂は、はっきりと区別して、名前をつけていたようである。しかし切通しも、いかに左右が崖になっている道路でも、その道路が傾斜していない以上は、切通とはいっても切通坂とはいわなかったということができる。
江戸から東京の切通坂は、さの六つである。
1 本郷湯島 切通坂
文京区湯島三、四丁目の坂で、東のほう上野広小路から西へ本郷三丁目に向かって上って行く春日通りの坂で、ちょうど湯島天神北裏の坂である。
<編注>
この坂を含む「第19回秀樹杉松坂めぐり」(2018.1.1)で撮影した数枚の写真は、再生に失敗しましたので、ここに掲載できません。
2 芝 切通坂(永井坂、榎坂)
港区芝公園三丁目の坂で、芝学園から正則高校前へ下る坂である。
坂学会「坂のプロフィール」では、「坂名:永井坂、別名:榎坂、切通坂」となっています。
↑ 第116回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.21 写真:Atelier秀樹)
3 番町 切通坂(帯坂)
↑ 第89回秀樹杉松坂めぐり(2018.10.7 写真:Atelier秀樹)
帯坂という別名がある。千代田区五番町と九段南四丁目の境、市ヶ谷駅前榊病院東脇の坂である。帯坂というのは、「番町皿屋敷」で名高いお菊の幽霊が、帯を引きずって、この坂みちを駆け下りたという伝説によるものである。
<編注>
横関氏は坂名:切通坂、別名:帯坂としているが、現在の坂学会情報では、坂名:帯坂、別名:切通坂となっています。
4 麻布一本松 切通坂(狸坂)
↑ 第1回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.21 写真:Atelier秀樹)
港区西麻布二、三丁目の境、一本松のところから西に下る坂で、たぬき坂、またはまみ坂ともいう。『東京地理沿革誌』には、「黒闇坂の南、一本松町との界にある坂を貍坂(まみざか)といふ」とある。
<編注>
①下線を施した名称がおかしいので調べたら、西麻布は元麻布の、黒闇坂は暗闇坂の誤植だとわかりました。
②横関氏の著書では、切り通し坂を「たぬき坂、またはまみ坂ともいう」とありますが、坂学会坂情報では坂名:狸坂(たぬきざか)、別名:旭坂、まみ坂、となっています。
5 高輪 切通坂
芝区(現港区)高輪二丁目、伊皿子坂の頂上から左右に分かれて、左に下って高輪四丁目に下る方を汐見坂と呼び、右のほう泉岳寺前に下るものを切通坂といった。
<編注>
①これもおかしいので調べたら、高輪四丁目ではなく、三田四丁目が正しいことがわかりました。伊皿子坂の頂上(今の伊皿子交差点)の左右は二本榎通ですが、汐見坂も切り通し坂もありません。坂学会、日本坂道学会の坂情報にも載っていません。二本榎通りの拡大整備に伴って、両坂は消滅したのかもしれないのですが、横関氏の原著に「今はなし」とは書かれていません。
②巻末の坂名集録、索引には「切通坂[高輪]」と出ているだけで、住所の記載はありません。
③前2項から察するに、横関氏が書いている「塩見坂」「切通坂」は、存在は確認できないのです。二つの坂名がはっきりと書かれているのに不思議です。横関氏が三田四丁目を高輪四丁目と誤記したために、正しい場所に関係者がたどり着けなかった可能性もある。今度折を見て、現場(伊皿子交差点)に行ってみようかな?坂研究の素材として......。
④如上の次第につき、本ブログでは「高輪1丁目/2丁目の切通坂は、その存在を確認できない」とします。
6 山王 切通坂(てまり坂)
↑ 第112回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.9 写真:Atelier秀樹)
千代田区永田町二丁目日枝神社の大鳥居の左を行き、神社の丘を南から西側へ回って行く切通の坂みちををいう。
<編注>
坂学会情報では、坂名:切り通し坂、別名:てまり坂となっています。
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切通坂というのは、江戸時代においては、財政上大変費用のかかったものであるから、よほどの価値のあるところ以外には、滅多に作られたことはなかった。本郷湯島の切通坂や、芝の切通坂などは、結果的にはたいへん便利で有利なものになった。泉岳寺の前の切通は、三代将軍家光の御鷹狩りのための必要から、しかも将軍自らのお声がかりであるから、やむを得ないことであった。
市ヶ谷見附と一本松のところの切通坂は、全くの必要から造られたものであり、最後の山王の切通坂のごときは、これによって山王様に遊山客、参拝客が増えてきて、いろいろの設備や娯楽を作ったので、これを喜んだのは、江戸市民ばかりでなく、神社そのものばかりでは、もちろんなかったのである。特に芝の切通坂は、その後、両国橋畔の賑わい以上のものであったということである。
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『秀樹杉松』103巻2785号 2019-1-23/hideki-sansho.hatenablog.com #425