秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

<坂研究>まねごと(29)江戸城の坂二つ ~『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)を読む~

 

 今日は皇居東御苑にある坂を取り上げます。都内に住んでいるので、皇居東御苑は何回か行ってますが、坂のことは無関心でした。坂めぐりを大々的に展開しましたが、地図に坂名が載っていなかったし、第一、皇居内に名前のついた坂があろうとは思いませんでした。昨年の暮れに「坂学会」に入会し、横関英一さんの『江戸の坂 東京の坂』の存在を知って、早速購入したら、本書の中の江戸城の坂二つを読み、それではと、昨年12月11日に「第118回秀樹杉松坂めぐり」として行ってきました。/ Atelier秀樹

 

 坂学会情報によって、汐見坂梅林坂のほかに、狐坂があることも知りましたが、警備上の理由で一般の人は立ち入り禁止でした。お願いして、坂の入り口の写真を一枚撮影しました。梅林坂と汐見坂は公開されているので、ちゃんと写真を撮ってきました。ブログ『秀樹杉松坂めぐり』 113回(2018.12.11)に公開済みですが、本稿に再録しました。

 

 江戸城内の坂は、今までは、地誌や絵図の上だけで知っていたのであるが、今日では、江戸城の旧本丸、二の丸のところが、一つに区画され、皇居東御苑という名に呼ばれて、一般の人々に公開されることになった。それは昭和43年10月1日からであった。その坂の一つは汐見坂であり、もう一つは梅林坂である。

 

汐見坂

f:id:hideki-sansho:20190124153616j:plain

f:id:hideki-sansho:20190124153513j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124153603j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124153529j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124153546j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124153634j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124153651j:plain

     ↑ 第118回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.11  写真 : Atelier秀樹 )

 

 汐見坂は、旧江戸城二の丸から本丸へ上る坂で、今日でいうと、白鳥堀の北脇を西へ、投下楽堂うらの楽部庁舎前へ出る坂である。この坂の上からは、今日では海を見ることはできない。しかし昔は、いまの日比谷方向に海が見えたはずである。古い昔は、いまの日比谷公園の辺から銀座方面まで、一面の海であったのだから、海はすぐ眼の前に見えたはずである。 

 寛政年間の太田道灌の歌に、誰でも知っている次の歌がある。

 → 我庵は松原つづき海近く富士の高嶺を軒端にぞ見る

 これは道灌が居城(のちの本丸)から見たときの実景であったと思う。その頃は、ここから日比谷の海すぐ近くに見えたのである。それが、今から290年も前には、既にこの坂からは海が見えなかったという記録が残っている。(『紫の一本』)

 天和2年頃は、もうこの汐見坂上からは海は見えなかったようである。徳川家康が江戸入国後、慶長8年(1603)に、天下の大名たちに、その所領石高の千石ごとに、人夫一人の割合で出させ、神田山(駿河台)の土を運んで、日比谷付近から今の銀座方面を埋め立てさせたのである。そうして町づくりを完成させたのであるから、少なくとも、塩見坂ができてから慶長8年に至るまでは、海が見えたということになる。(略)

 

梅林坂

f:id:hideki-sansho:20190124154246j:plain

f:id:hideki-sansho:20190124154300j:plain

f:id:hideki-sansho:20190124154315j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124154331j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124154349j:plain
f:id:hideki-sansho:20190124154406j:plain

        第118回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.11  写真 : Atelier秀樹 )

 

 次に梅林坂であるが、これは今の一ツ橋御門を入って、平川門を過ぎたあたりに、元天神社があったので、ここから北へ天神堀と左右の梅林の間を、今の書陵部庁舎前へ上るやや長い坂をいう。

 文明10年(1478)6月太田道灌がこの地に菅原道眞をまつった時、梅の木数百株を植えたので、その時から、坂を梅林坂と呼んだのかもしれないということも考えられる。 

 『紫の一本』には、梅林坂について、次のようなことが書いている。

 →「梅林坂。御城の内にあり、此所に昔、天神の社有、是は太田道灌武州入間郡河越三吉野の天神を勧請せらる。(略)文明年中に、河越より江戸平川へ道灌勧請し、平川の天神と崇め申、坂に並木の梅を植えられしより、此坂を梅林坂と云。権現様江戸御入部の節、平川より貝塚へ天神の社を移され、今は天神と云。松平伊豆信綱を天神の再誕といひしは、その祭神に勝れてさとく、理速やかなるに、河越を所知して屋敷平川口にあり、家の紋五本骨の扇なれば、尤なるつもり也」

 

 右二つの坂は、江戸の坂としては、寛永以前にできた最も古い坂であったと考えて差し支えないと思う。

……………………………

<編注>

狐坂

 横関英一氏の『江戸の坂 東京の坂』には載ってませんが、坂学会情報で知ったので、「汐見坂」「梅林坂」歩きの日に、訪ねました。立ち入り禁止となっているので、入り口手前の写真を撮ってきました。警備門の向こう側から西桔橋(にしはねばし)までが「狐坂」。

f:id:hideki-sansho:20190124155352j:plain

      第118回秀樹杉松坂めぐり(2018.12.11  写真 : Atelier秀樹 )

 

 皇居東御苑内の天守閣跡西側より西桔橋まで。平川門守衛所に東御苑の案内図があり,天守閣跡の西側に「狐坂」の表示がある。

 西桔橋(にしはねばし)は東御苑から皇居に通じる橋で,江戸時代は跳ね上げ式の橋で,有事にはこの橋を跳ね上げて江戸城本丸を防備したという。現在は普通の小さな橋である。警備上の理由で,狐坂には一般の人は入れない

                    (坂学会「坂のプロフィール」より) 

………………………………………………

『秀樹杉松』103巻2786号 2019-1-24/hideki-sansho.hatenablog.com #426