秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

大野幸則『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史―歌いつづけた65年間』を読む

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 本ブログ「秀樹杉松」の前号「ともしび春の大うたごえ喫茶」で、この本を写真入りで紹介しました。その動機は、①著者が「ともしび」の店長、常務取締役、代表取締役を歴任した大野幸則氏であること、②本書の出版(6月3日)を見ずに、4月に永眠されたこと、③春の大うたごえ喫茶(5月21日)当日の会場で、先行発売された、からでした。


上下巻の2冊で596ページに及ぶ大作、しかも密度の濃い内容で、感動のうちに読み終わりました。1回目は通読、2回目はこのブログ執筆を前提に、精読しました。ともしび喫茶音楽文化集団ともしびの詳しい歴史を知りました。何しろ私は、音楽文化集団のことは全く知らなかったのです。

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何をどう書けばよいのか、正直、執筆開始までは時間がかかりました。しかし結局は、短い文章に止めることを決断し、今やっとパソコンに向かっています。よろしかったら、お目通しください。そして、大野さんの遺筆となった本書をお読みいただければ、嬉しく思います。/Atelier秀樹

 

1)歌声喫茶の誕生(1954年)

新宿の「ともしび」で歌の司会者(清水正美さんたち)のお話にも時々出てくるので、聞いてはいましたが、本書の冒頭に次のように書かれています。(上巻p.005)

 

歌声喫茶開店秘話

歌声喫茶の誕生には、歌声喫茶らしいエピソードがあります。東京新宿は歌舞伎町、西武新宿線西武新宿駅の駅前の食堂で、店内に流れていたロシア民謡にお客さんが声を合わせて歌い始め「これだ」とひらめいた柴田伸氏(西武新宿駅前「灯」のオーナー)。1954年12月に、アコーター(アコーディオン奏者)、リーダー(司会者)を店に入れ、歌詞を書いて壁に貼って歌い始めたのが、歌声喫茶「灯」の始まりとなりました。

青柳常夫さん(ヤギさん)は、藤原歌劇団や東京コラリアーズで音楽活動をしていましたが、「やってみないか」という誘いで、歌い手兼司会者の第一号に。(略)

 

「そうだ、店の名前を考えよう」。歌といえば校歌しか歌えなかった柴田君の頭に、灯のメロディーが浮かんだ。ともしび!そうだ灯がいい!こうして、日本で最初のうたごえ喫茶”灯”が誕生した。歌声喫茶灯の壁を最初に飾ったのは、ロシア民謡の“カチューシャ”でった。(p.007)

 

「灯」「どん底」「カチューシャ」。歌声喫茶の元祖はどこだ!

歌声喫茶の元祖はどこか?だ!の元祖争いがあった?

この頃は歌声喫茶」というネーミングはなかった。当時「灯」は「美声と音痴の店 灯」と言っていた。どん底は単に酒場。いつの間にか誰からともなく、マスコミなどが「歌声喫茶」と呼ぶようになった。(p.012)

 

歌声喫茶とうたごえ運動

歌声喫茶」か「うたごえ喫茶」か。当時関鑑子さん主宰の「うたごえ運動」と区別する意味でも「歌声」と漢字表記した。歌声喫茶とうたごえ運動は、時代の息吹を一つにした文化の違った表現と言ってよい。

ロシア民謡ソビエト歌曲がこの時代の一つの文化をリードした。うたごえ運動は「うたごえは平和の力」と掲げる運動を展開し、「がんばろう」や「原爆を許すまじ」などの曲を生み出した。歌声喫茶はさらに叙情的な「北上夜曲」や「忘れな草をあなたに」などを生み出していく。

闘いの歌が人々を励まし、明日を生きる勇気を生み出しともに歌い合うことで人間的な感動を共有する―-歌声喫茶はいつしかそんな場所へと育っていった。

 

コマ裏「灯」始まる (1958年、歌舞伎町に二軒の「灯」)

西武新宿駅前「灯」店舗ではお客さんに対応しきれなくなり、1958年に一時閉店して大規模な新しい店とすることになった。新装開店まで数ヶ月かかるので、新宿コマ劇場の隣にあった麻雀屋を改装して、歌声喫茶として開店することになった。その後コマ裏「灯」、コマ横「灯」と呼ばれる。当時の司会はヤギさん(青柳常夫)一人で一日8ステージをこなしていた。

 

西武新宿駅前「灯」の新装開店(1959年7月)

2階席もあり300~400人は入れる、ステージホール並みで、ピアノ、ドラムス、ベースギターを基本とする生バンドの演奏。新装開店当時、バンドはコマ裏「灯」と西武新宿駅前「灯」掛け持ちで、司会のヤギさんがは新店に戻らなかった一時コマ裏で仮営業的にやっていたメンバーは、そのままコマ裏にも残ってやっていくことになった。

西武新宿駅前「灯」は、レコード会社などにしっかりつながった生き方を展開、歌声喫茶の中でそれぞれ特徴が浮き彫りになってきた。

 

2)歌声喫茶の爆発的広がり(1959年頃)

新宿】=「灯」(西武新宿駅前)「灯」(コマ劇場裏)どん底「カチューシャ」(東店)(西店)、【渋谷「牧場」「カチューシャ」、【池袋「山小屋」「やま」「アルプス」、【巣鴨白十字、【高円寺「ボルガ」、【蒲田「赤トンボ」

 

3)歌声喫茶の相次ぐ閉店

歌声喫茶のブームに陰りが見えはじめ、閉店する歌声喫茶が相次いだ。最初の一大事!コマ裏「灯」(新宿)にて労働組合結成(1962年)

なぜともしびが、歌声喫茶として生き残ったかは、1962年から始まる一大事に立ち向かった先輩たちの行動や考えにある。そのことによって、他の歌声喫茶と違った道をともしびが歩むことになった。

1962年(S32)2月、一人のウエイトレスが解雇されたことに憤激したコマ裏「灯」の従業員たちは、労働組合を結成、解雇を撤回するよう求めて立ち上がった。経営者は「店を閉鎖し、全員解雇する」と通告、労働組合の反対で、通告を撤回。

 

<註> 

この調子だと長くなるので、ここで打ち止めとします。本稿は私の読書メモは単なるパイロットで、あくまで大野幸則『「うたごえ喫茶ともしび」の歴史』が主眼ですので、ぜひ現物をお読みください。

ただし、今でも「新宿ともしび」で司会者などに携わっているメンバー、についての、同書の記事の一端のみ紹介します。ご覧ください。

 

歌声喫茶の第三世代】

1070年代という時期に、若い力を吸収し、うたごえ喫茶の第三世代が形作られ、新たな盛り上がりを作り出した。第一世代:ヤギさん(青柳常夫)、越膳正明、第二世代:日高孝、金城広子、伊藤晴夫ら、ともしびでは、中西明大野幸則団塊の世代)・・・

 <註>故大野幸則氏は前社長で本書の著者

 

【1972~73年ごろの亀戸店】

73年には金指修平が参加

 

【1980年代初めに入社した専従団員メンバー】

清水正(81年4月)、小川邦美子(82年1月)、吉田正勝(82年2月)、行貝ひろみ(83年4月)、斉藤隆(83年7月)

斎藤隆氏は、店長・社長

 

【1981のともしび各店の体制】

新宿店長:中西明、亀戸店長:吉田正勝、吉祥寺店副店長:小川邦美子

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『秀樹杉松』107巻2863号 2019.5.26 hideki-sansho.hatenablog.com #503