[モダンガール]吉屋信子、中條(宮本)百合子、林芙美子の帝国図書館 ~ 中島京子『夢見る帝国図書館』を読み、感動しました (8)【最終回】 ~
中島京子『夢見る帝国図書館』の読書メモを、7回にわたってお届けしましたが、ブログ投稿は8回目の今回で終了します。(本書はまだまだ続きますが、全部書くと20回ぐらいに達するでしょう。)
大正から昭和の初め頃、モダンガールと呼ばれる女たちが出現した。長い髪を切り、短髪にして、洋服を着て都市を闊歩した。そんな時代を生きた三人の著名女性作家が、上野の図書館の思い出をそれぞれに書き残している。一葉の時代から二世代も下の女の子たちが、樋口夏子と同じ向学心を抱えて通ってくるのを、
帝国図書館は、まばゆいものを見る思いで見守っただろうか。
夏菊
<吉屋信子>
いつのことだか、でも、「図書館のこと」という文章の載った本、『処女読本』が出版されたのが、昭和11年のことですから、それよりも前だったのは、確かなことです。吉屋信子が日光小学校の代用教員をやめて、文学を志して上京したのは大正4年ですし、その翌年にもう、『花物語』の連載が始まるのですから、もしかしたら、そのころだったのではないかしら。
いちばん初めに行ったのは日比谷の図書館だったそうです。婦人の室が静かでいい気持ちで、そこでずいぶんきれいな美しい22、3の人に出逢ったのだそうです。その人が室にいない時、本当にがっかりしてしまう…….。綺麗な人ったら、本を読むときだけ、海老茶びろうどのサックから、縁なし眼鏡を出してかけるのです。……まあ、信子さんどんなに好きになっちゃったでしょう。ぼうとしてその美しい若奥さんのような人を見つめていたのです。
がっかりだったのは、上野の図書館です。上野へはひと夏、紅葉全集を読み通す計画で通うつもりで、お弁当持参で甲斐甲斐しく行ったはよいものの、一日か二日で、すっかり嫌になって通うのをよしてしまったそうです。
なぜかって、まあ行くといきなり、こう重苦しい地下室みたいな出入り口で薄暗くって小使みたいな人まで官僚的でいばっているようで、本の目録を見るのも大変だし、本を受け取るところがまるで裁判所の判事や検事でも控えているような高いところで、こちらはお裁きを受ける人民みたいで……
婦人の室は古くてがたがたしていて、がらんとだだっ広くて落ち着きがなく、卓子なんかお化け屋敷から持ってきたようなもので……なんだかとても全ての感触がラフで陰惨でした。、、、。
まあ、なんという、日比谷図書館との違いでしょうか。日比谷=美しい若奥さん vs 上野=年齢とった女の人、ぐうぐう。、、、――信子さん、もうすっかり我が世が寂しくなって……しょんぼり館を出たそうです。ほこりっぽい夏の夕方、力なく竹の台を歩いて泣き顔していたそうです。
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ユリ マンボ (レッドカサブランカとも) / ユリ.net による
<中條百合子>
吉屋信子より3歳年下なのに、1年先に文壇デビューした天才少女がいた。中條百合子(ちゅうじょうゆりこ)、のちの宮本百合子である。百合子は図書館デビューも、じつは信子より早かった。彼女が上野の帝国図書館に初めて行ったのは、東京女子師範学校附属高等女学校(現お茶の水女子大学附属中学・高等学校)3年の頃、大正2年ごろと思われる。
元禄袖の着物に紫紺の袴、靴をはいた少女が、教室の退屈から逃れてこの高机の前に立ち、手を高くのばして借出用紙をさし出した。「あなたはまだ16になっていないんでしょう?」 黒い毛ジュスの事務服を着た図書館司書が、高いところからたずねた。百合子は早生まれの3年生だったから、15にもなっていなかった、返事に困って黙っていると、「ここは16からなんですよ」と黒い上っぱりのその男性は言った。・・その朝暮本ばかりを対手にしている人間の、表情の固定した、おとなしい強情さの感じられる男性司書は、14歳の百合子に本を貸し出したのだった。
その日から百合子はせっせと上野の図書館に通う。信子のお気に入りは、日比谷図書館だったが、優等生の百合子は「婦人の室」がどうのこうの言わないで、一心不乱に書物に向かう。上野の図書館は「役人風」だなと思っても、本読むところなのだから、まあ、仕方がないと受け入れている。
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ヒマワリ(向日葵)/ニチリンソウ(日輪草)/ヒグルマ(日車)/ヒマワリソウ(日回り草)
<林芙美子>
林芙美子が上野の図書館に通い詰めたのは、地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ!と怒鳴っていたのとほぼ同じころである。長谷川時雨の主宰する『女人芸術』に「放浪記」を一年連載してやめたころ、芙美子は図書館を放浪し始めた。昭和4年ごろと思われる。ひょっとして新館が建っていたか、あるいはまだ旧館のみのころだったか、両方にまたがった時期だったか、いずれにしても、そんな頃のことだ。
私は男にとても甘い女です。とかなんとか言いながら、芙美子は毎日熱心に上野の図書館に通い、乱読暴読を究め、それは芙美子にとってとてつもなく愉しい日々だった。、、、読書への情熱は本物で、帝国図書館通いは1年ほど続いた。貧乏した芙美子は、そのころ若い女性が就くことのできるあらゆる職業に就き、それでも生活は困難で、しばししば自分の蔵書を売らねばならなかった。本を売るたび、「瞬間瞬間の私」になったような気にがする芙美子であった。・・・。
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(写真=Atelier秀樹)
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<ブログ投稿を終えるに際して>
日本における図書館は、明治5年の「書籍館」しょじゃくかん に始まり、帝国図書館に発展しますが、関係者の熱い情熱に支えられた不断の努力の積み重ねがあったればこそでした。
そして、多くの利用者(生徒・学生・研究者、文人、作家、一般市民)に支えられ、期待されて育ってきたのが図書館の歴史でした。
特筆すべきは、度重なる戦争・戦費に災いされて、我が国の図書館は、いつの時代にも非常な困難に直面したことでしょう。
その間にあって、書籍館の創設と発展に苦労した永井久一郎(永井荷風の父)、そして帝国図書館建設と拡張に尽力した
初代帝国図書館長・田中稲城、に代表される、図書館関係者の奮励努力に頭がさがる思いです。
これまでの8回で、本書のハイライトは伝えられたかと思います、この辺で擱筆することにしました。
私は図書館の専門家ではありませんが、本が大好きで、図書館には少なからぬ関心を持っている人間です。改めて、いい勉強になりました。
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『秀樹杉松』108巻2894号 2019.7.5 / hideki-sansho.hatenablog.com #534