秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

「かわいそうだから動物を食べない」vs「動物が可哀そうだとどうしてわかるか。こっちが可哀そうだと思うだけである。豚などが死というような高等な観念を持っていない」〜宮沢賢治の童話「ビジテリアン大祭」を読みました。深刻な問題をめぐる真剣な甲論乙駁が、面白おかしく展開されます。だが、「うまいものを食べさせ熱湯にでも叩き込んでしまえば、豚は大悦び、くるっと毛まで剥けてしまう。われわれはこの方法で、沢山の豚を悦ばせている」には驚きました〜

 

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宮沢賢治新編 銀河鉄道の夜(新潮文庫)収録(p.311~369)の

「ビジテリアン大祭」を、興味深く読みました。「童話」なそうですが、「小説」ともいえる、サイコウにオモシロクてタメになる作品です。一読の価値がありますね!

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蛍草=露草=月草

葉室麟原作『蛍草』のドラマ(清原果那主演)が、7月26日からNHKBSプレミアムで始まりました。毎週金曜夜の全7回。私は原作を読み、今年1月19日、本ブログに投稿しました。よろしかったらお読みください。

蛍草』(葉室麟)は名作ですので、今注目の若手女優・清原果那主演のテレビドラマは、必見だと思います!

 

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宮沢賢治「ビジテリアン大祭」の書き出しはこうなっています。

→「私は昨年9月8日、ニューファウンドランド島の小さな山村、ヒルティで行われた、ビジテリアン大祭に、日本の信者一同を代表して列席してまいりました。」

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 私はこの文章につられて、賢治がこの大祭に出席したのはいつ頃のことか気になり、本書の「年譜」を調べましたがどこにも記載がありません。「おかしい」とよく考えたら、「なんだ、これは小説ではないか」と気がついたのです。賢治がこの小説を書いた年は「年譜」にも出てないが、大正10年代(1920年代)と思われるので、約1世紀前ということになります。

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 本書巻末の「収録作品について」(天沢退二郎氏の解説)には、こう書かれています。

→「難しい語も構わず使って、大人たちが長大な議論また議論をくりひろげる、「童話」と呼ぶにはあまりに破天荒な作品と見えようが、それは通念や「常識」に照らしてのことで、本篇の興趣はまさしく童話のそれであり、賢治童話の精髄である。

 

→それはとにかく、これらの論者たちの実に大まじめな、これでもかこれでもかとつき進む主張の展開が、たくまざるユーモアと音楽的なリズム・テンポを伴っており、それが丁々発止とやり合う様は、まるで愉快なゲームに立ち会っている思いをさそうからだ。

 

賢治が菜食主義の側に立った根拠がよく納得できるしかけになっている。これは私たちを菜食主義へと折伏しようという押し付けがましいものではないが、ここに盛られた思想が20世紀の人間文明に警鐘を鳴らし、21世紀への示唆を含むものであることは確かであろう。」

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 この天沢氏の解説には、全面的な共感を覚えます。わたし自身は、菜食主義・肉食主義のいずれでもなく、女房が作ってくれた食事をありがたく食している平凡人です。だが、この小説(童話のようですが)を読んで、楽しく愉快になり、大いなる勉強にもなりました。おかげで、「ボーとしてんじゃないよ!」と誰かに叱られないで済みそうです。

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 さて、本書の書き出しは次のように始まります。

 →「全体、私たちビジテリアンというのは、ご存知の方も多いでしょうが、実は動物質のものを食べないという考えのものの団結でありまして、日本では菜食主義者と訳しますが、主義者というよりは、も少し意味の強いことが多いのであります。菜食信者と訳したら、或いは少し強すぎるかもしれないが、主義者というよりは、よく実際に適っていると思います。

 

 →もっともその中にもいろいろな派がありますが、まあその精神について大く分けますと、同情派予防派との二つになります。

 

 →同情派と云いますのは、私たちもその方でありますが、ちょうど仏教の中でのように、あらゆる動物はみな生命を惜しむこと、我々と少しも変わりはない、それを一人が生きるために、ほかの動物の命を奪って食べる、それも1日に一つどころではなく百や千のこともある、これを何とも思わないでいるのは全く我々の考えが足らないので、よくよく食べられる方になって考えてみるととてもかあいそうでそんなことはできないと云う思想なのであります。

 

 →予防派の方は少し違うのでありまして、病気予防のために、なるべく動物質を食べないというのであります。則ち、肉類や乳汁を、あんまりたくさん食べると、リュウマチスや通風や、悪性の腫瘍や、いろいろいけない結果が起こるから、その病気のいやなもの、又その病気の傾向のあるものは、この団結の中に入るのです。それですからこの派の人たちはバターやチーズも豆からこしらえたり、また菜食病院というものを建てたり、いろいろなことをしています。

 

 →また一方これをその実行の方法から分類しますと、三つになります。

 第一に、動物質のものは全く食べてはいけないと、則ち獣や魚やすべの肉類はもちろん、ミルクや、またそれからこしらえたチーズやバター、お菓子の中でも鶏卵の入ったカステーラなど、一切いけないという考えの人たち、日本ならばまあ、ちょっと鰹のだしの入ったものもいけないという考えのであります。(略)。

 

 →第二のは、チーズやバターやミルク、それから卵ならば、まあそのものの命をとるわけではないから、さし支えない、また大してからだに毒になるまいというので、割合穏健な考えであります。

 

 →第三は私たちもこの中でありますが、いくら物の命を取らない、自分ばかりさっぱりしているといったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない、結局はほかの動物がかあいそうだから食べないのだ、(略)もしたくさんの命のために、どうしても一つの命が入用な時は、仕方ないから泣きながらでも食べていい、(略)普段はもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりにかかわって、大切の精神を忘れてはいけないと斯ういうのであります。」

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 さてこれから本書の内容部分です。

ビジテリアン大祭」には賛成・推進派ばかりでなく、異教徒や異派も出席していますが、(ビジテリアン反対の)シカゴ畜産組合名のビラが会場に持ち込まれています。これには、なぜ菜食主義に反対かが書かれています。逆に読めば、ビジテリアンの考えもよくわかるように、宮沢賢治さんは書いてます。

とても面白い作品です。紙幅の制約もあり、本項では、ビジテリアンに対する批判・反対派の主張のみを紹介します。(反対理由の中に、実は賛成派の主張が出てくるので)

 

偏狭非文明的なるビジテリアンを排す

 →マルサス人口論の要領は、今日定性的には誰も疑うものがない。その要領は人類の居住すべき世界の土地は一定である、又その食料品は等差級数的に増加するだけである、然るに人口は等比級数的に多くなる。すなわち人類の食料はだんだん不足になる。人類の食料といえば動物、植物、鉱物の三種を出でない。そのうち鉱物では水と食塩とだけである。残りは植物と動物とが約半々を占める。

 

 →ところが、ここにごく偏狭な陰気な考えの人間の一群があって、動物はかわいそうだから食べてはならんといい、世界中にこれを強いようとする。これがビジテリアンである。この主張は、人類の食物の半分を奪おうと企てるものである。換言すれば、この主張者たちは、世界人類の半分、すなわち10億人を飢餓によって殺そうと計画するものではないか。

 

 →今日いずれの国の法律を以ってしても、殺人罪は一番重く罰せられる。間接ではあるけれども、ビジテリアンたちもまたこの罪を免れない。(略)この事実は、ビジテリアンたちの主張が、畢竟自家撞着に終わることを示す。すなわちビジテリアンは動物を愛するが故に動物を食べないのであろう。何が故にその為に食物を得ないで死亡する、10億の人類を見殺しにするのであるか。人類もまた動物ではないか

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偏狭非科学的なるビジテリアンを排せ

 →ビジテリアンの主張は全然誤謬である。今この陰気な非学術的思想を動物心理学的に批判してみよう。

 →ビジテリアンたちは動物が可哀そうだから食べないという。動物が可哀そうだということがどうしてわかるか。ただこっちが可哀そうだと思うだけである。全体などが死というような高等な観念を持っているものではない。あれはただ腹が空った、かぶらの茎、噛みつく、うまい、厭きた、ねむり、起きる、鼻がつまる、ぐうと鳴らす、腹がへった、麦糠、たべる、うまい、つかれた、ねむる、という具合に一つずつの小さな現在が続いて居るだけである。

 

 →殺す前にキーキー叫ぶのは、それは引っ張られたり、叩かれたりするからだ。その証拠には、殺すつもりでなしに、何か鶏卵の30も少し遠くの方でご馳走するつもりで、豚の足に綱をつけて、引っ張ってみるがいい、やっぱり豚はキーキーと云う。

 

 →こんな訳だから、本当に豚を可哀そうと思うなら、そっと怒らせないように、うまいものを食べさせておいて、にわかに熱湯にでも叩き込んでしまうがいい、豚は大悦びだ、くるっと毛まで剥けてしまう。われわれの組合では、この方法によって、沢山の豚を悦ばせている。ビジテリアンたちは、それを知らない。自分が死ぬのがいやだから、ほかの動物もみんなそうだろうと思うのだ。あんまり子供らしい考えである」

<注>掲載した写真は全てAtelier秀樹撮影ですが、この豚の写真に限りwikipediaさんからお借りしました。ありがとうございます。

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偏狭非科学的なるビジテリアンを排せ

 →ビジテリアンの主張は全然誤謬である。今これを生物分類学的に簡単に批判してみよう。ビジテリアンたちは、動物が可哀そうだという、一体どこまでは動物でどこからが植物であるか、牛やアミーバーは動物だから可哀そう、バクテリヤは植物だから大丈夫だというのであるか。バクテリヤを植物だ、アミーバーを動物だとするのは、ただ研究の便宜上、勝手に名をつけたものである。

 

 →動物には意識があって食うのは気の毒だが、植物にはないから差し支えないというのか。なるほど植物には意識がないようにも見える。けれどもないかどうかわからない、あるようだと思ってみるとまた実にあるようである。

 

 →元来生物界は、一つの連続である、動物に考えがあれば、植物にもきっとそれがある。ビジテリアン諸君、植物を食べることをやめ給え諸君は餓死する。また世界中にもそれを宣伝したまえ、20億人がみんな死ぬ。大変さっぱりして諸君のご希望に叶うだろう。そして、その後で動物や植物が、お互い同士食ったり食われたりしていたら、ちょうどいいではないか。」

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偏狭非科学的なるビジテリアンを排せ

 →ビジテリアンの主張は全然誤謬である。今これを比較解剖学の立場からごく通俗的に説明しよう。人類は動物学上混食に適するようにできている。歯の形状から見てもわかる。草食獣にある臼歯もあれば肉食類の犬歯もある

 

 混食をしているのが人類には一番自然である。そう出来ているのだから仕方ない。それをどうこう言うのは恩恵深き自然に対して正しく叛旗をひるがえすものである。よしたまえ、ビジテリアン諸君、あんまり陰気なおまけに子供くさい考えは」

 

「ビジテリアン諸氏に寄す

 →諸君がどう頑張って、馬鈴薯とキャベジ、メリケン粉ぐらいを食っていようと、海岸ではあんまりたくさん魚がとれて困る。折角死んでも、それを食べてくれる人もなし、可哀そうに、魚はみんなシャベルで釜に投げ込まれ、煮えるとすくわれて、締木にかけて圧搾される。釜に残った油の分は魚油です。(略)締木にかけた方は魚粕です。(略)その魚粕を使うとキャベジでも麦でも随分よく獲れます。おまけにキャベジ一つこしらえるには、100匹からの青虫を除らなければならないのです。(略)」

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 ⑥異教徒席から背の高い太ったフロックの人が出て、こう述べました

 →「私はビジテリアン諸氏の主張に対して、2ヶ条の疑問がある。 

 第一植物性食品の消化率が動物性食品に比して著しく小さいこと。尤も動物性食品には含水炭素がほとんどないからこれは当然植物から採らねばならばい。しかしながらもし蛋白質と脂肪とについて考えるならば何と言っても植物性のものは消化が悪い。単に分析表を見て牛肉と落花生と栄養価が同じだといって牛肉の代わりにそっくり豆を食べるというわけにはいかない。

 

→人によっては植物性蛋白をほとんど消化しないじゃないかと思われることもあるのだ。ビジテリアン諸氏はこれらのことは充分ご承知であろうが、なおこれを以って多くの病弱者や老衰者並びに嬰児にまで及ぼそうとするのはどう言うものであろうか。

 

 →第二は、植物性食品はどう考えても動物性食品より美味しくない。これは何としても否定することができない。元来食事はただ栄養をとるためのものではなくまた一種の享楽である。享楽というよりは欠くべからざる精神爽快剤である。

 

 労働に疲れ種々の患難に包まれて意気消沈した時には、あるいは小さなな歌謡を口吟む、談笑する、音楽を聴く、観劇や小遠足にも出ることが大へん効果あるように、食事もまた一の心身回復剤である。この快楽を菜食ならば著しく減ずると思う。ことに愉快に食べたものならば実際消化もいいのだ。これをビジテリアン諸氏はどうお考えであるか伺いたい。」

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 ◎論難反駁の中では以下のような珍問・珍答も見られる。

 

 ○「本当に動物が可哀想なら、植物を食べたり殺ろしたりするのも廃したまえ。動物と植物を殺すのを止めるために、まず水と食塩だけ呑み給え。水はごくいい湧き水に限る、それも新鮮なところに限る。少し置いたんじゃもうバクテリアが入るからね。

 

 ○空気は高山や森のだけ吸い給え、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山の中へ行って、いい空気といい水と岩塩でも食べながらこのビジテリアン大祭をやるようにし給え。ここの空気は吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ」

 

 ○「ただいまのご論旨は大変面白いので、私も早速空気を吸うのをやめたいと思いましたが、その前に一寸一言ご返事をしたいと存じます。どうぞその間空気を吸うことをお許し下さい。」

 

 ○「農業の方では害虫の学問があって、薬をかけたり焼いたり潰したりして虫を殺すことを考えている。甘藍(キャベジ)を一つ食べるとそのために青虫を100匹も殺すことになる。まるで諸君の考えと反対のことばかり行われているのです。いかがです。

 

 ○「な、な、な何がゆえに、君たちはど、ど、動物を食わないと言いながら、ひ、ひ、ひ、羊の毛のシャッポをかぶるか」その人は興奮のためにガタガタ震えてそれからやけに水を飲みました。・・・。

 

◎改宗者の発言もある。

 ○「はじめ私は混食主義のキリスト信者としてこの式場に臨んだのでありましたが、今や神は私に敬虔なるビジテリアンの信者たることを命じたまいました。・・・」

 

 ○「悔い改めます。許してください。私どももみんなビジテリアンになります。」と声を揃えて言ったのです。

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 以上は「ビジテリアン大祭」のほんの一コマで、しかも、批判者の言い分を前面に構成しました。もちろん、批判・反対論に対する賛成・推進論が具体的に展開されました。

 両者の論争は、作品解説者の天沢退二郎が書かれているように、「たくまざるユーモアと音楽的なリズム・テンポを伴っており、それが丁々発止とやり合う様は、まるで愉快なゲームに立ち会っている思い」です。本項では、詳細は割愛します。

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写真撮影:Atelier秀樹。ただしの写真に限りwikipediaさんから拝借しました。

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『秀樹杉松』109巻2904号 2019.7.28/ hideki-sansho.hatenablog.com #544