秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』を読む。 ~「戦国時代史の禁断の扉を開く画期的一冊」(表紙カバー)。「光秀単独犯行はありえない」(第一章見出し) 。「光秀も組み込まれた信長謀殺計画」(第1章第12節の見出し)。「近衛前久は、各方面と連絡を取り、『信長謀殺計画』を練り始めた」(本文p.36」。「改ざんと隠蔽とごまかしが、朝廷を守るために必死で行われ続けていた」(p.56)

f:id:hideki-sansho:20200205152434j:plain 安部龍太郎 著『信長の革命と光秀の正義  真説 本能寺』幻冬社 2020.1.30)

 

久しく遠ざかっていた大河ドラマ。今年の麒麟がくるをみています。2月2日の朝刊広告を見て、安部龍太郎著『信長の革命と光秀の正義  真説 本能寺』を買いました。全6章からなる新書版の280ページ建ですので、あっという間に読んでしまいました。要所は再読しました。/ Atelier秀樹

 

f:id:hideki-sansho:20200205153243j:plain表紙カバー帯

 

f:id:hideki-sansho:20200205153315j:plain表紙カバー(裏)

  

f:id:hideki-sansho:20200205161818j:plain 著者:安部龍太郎(表紙カバー)

  

本書の書名は「信長の革命と光秀の正義」ですが、副書名の「真説 本能寺」の通り、光秀が信長を討った「本能寺の変」が主題です。表紙カバーの「戦国時代史の禁断の扉を開く画期的一冊」は、まさにその通りです。そこで、ブログ「秀樹杉松」で取り上げることにしました。

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さて私は子供の頃は、「織田信長は偉い。それを滅ぼした明智光秀はけしからん」と教わり、実際そう思っていました。大人になってからは、「信長があんまりいじめるので、光秀も我慢できなかっただろう。だが、主人を殺したのはやはり間違い」の域を出ませんでした。その後、歴史書や小説を読み、光秀の背後に将軍・朝廷の影があったようだと、ボヤッと感じるようにはなりました。

 

だが何となく歯切れが悪く、スッキリしない思いでした。今回、安部龍太郎『信長の革命と光秀の正義 真説 本能寺』(1月30日刊 幻冬舎新書)を読んで、雲や霧が晴れ、陽光がさしてきた感じ。「やはりそうだったのか」という共感・納得。それが何であるかは、本稿をお読みいただければ、ご納得いただけるかと思います。

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冒頭に本書の表紙・帯の写真を掲げます。このキャッチコピーは、私の感想と一致します。ご覧ください。

 

「戦国時代史の禁断の扉を開く画期的一冊」(表紙)

「光秀を突き動かした大義と使命」「そして秀吉の罠」(帯)

歴史小説に挑んで30年 新資料をもとに書き下ろした「本能寺の変」最先端の解釈」(帯)。

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本書は以下の6章からなっています。

1)光秀単独犯行はありえない  2)謎だらけの明智光秀  3)革命家信長の光と闇 4)戦国時代はグローバル社会だった 5)戦乱の日本を覆うキリシタンネットワーク 6) 「本能寺の変」前と後

 

本項では「第一章 光秀単独犯行はありえない」を取り上げます。つまり「本能寺の変」は明智光秀一人による犯行ではない、という内容です。思い切った見出しですね!

第一章は23節で構成されています。節の見出しに従い、23項目にわたる読書メモです。なるたけ原文に即す形でまとめました。やや膨大ですが、それだけの、目を見張る・衝撃的な内容ですので、是非お読みください。

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1)「是非におよばず」の意味するところ(本書p.12)

本能寺の襲撃が光秀の反逆だと知った信長が「是非におよばず」と言い捨てたと伝わっている。「しかたがない」という意味の言葉を、どう取るべきでしょう。

家臣一人の裏切りだけで、信長ほどの男が「しかたがない」ということはないと思う。光秀の背後にある、大きな力を悟っていたからではないか。

 

朝廷、幕府…それはいわば「信長包囲網」と言ってもいい、大きな力の集合体でした。その中心にいたのは、前日行われた茶会の正客、近衛前久(このえさきひさ)前久は、信長と同じくらいの能力を持ち、同じくらいのスケールで天下国家を考えていた人物

 

 

2)近衛前久の構想力と胆力(p.14)

 五摂家筆頭の近衛家の長男。朝廷と足利幕府復興のため、のちに上杉謙信となる長尾景虎と血判誓紙を交わした。景虎は上杉家の家督を継ぎ、関東管領職に就任し、以降上杉姓を名乗る。景虎関東管領職にして関東を治めさせ、東国の大軍を率いて上洛足利幕府の再興を図る作戦

 

 

3)若き日の秀吉、家康も頼ったフィクサー(p.17)

若き日の徳川家康が、前久を頼っている。お陰で家康は徳川を名乗れるようになり、源氏の一門という資格を得て三河守に任官された。秀吉も前久の世話で関白に上り詰めた。

申し分のにない家柄である上、文武にも長けた前久の力は公家の中でも抜きん出ていた。当時、前久の言うことには、朝廷の誰も反対できなかっただろう

 

 

4)  信長上洛、前久は石山本願寺に潜伏(p.18)

永禄八年(1565)十三代将軍義輝は、松永久道や三好三人衆の謀反で討たれた。義輝は越前に逃れた。将軍不在。前久は三好三人衆が推す足利義栄十四代将軍として乗り切ろとしたが、7ヶ月後、信長が足利義昭を奉じて上洛、義昭を十五代将軍とした。

 

義昭は前久を裏切り者とみなし、前久の立場が危うくなり、関白在職のまま石山本願寺に身を寄せた。やがて前久は関白職を罷免され、石山本願寺に潜伏して、再起を期すことに。

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5)「内裏も公方も気にするに及ばぬ」(p.20)

イエズス会から派遣された宣教師に、信長「内裏も公方も気にするに及ばぬ。すべてのものは余の支配下にあり、余の命に従っておればよい」。世は下克上の時代。だが、天皇を中心とした官位体制は健在であり、この言葉は大胆というほかない。

 

 

6)織田軍挟み撃ちの黒幕とは(p.22)

姉川の戦い(1570)で浅井・朝倉軍に大勝。将軍義昭を総大将とした負けるはずのない戦いで、石山本願寺が突如反旗を翻し、一向一揆の軍勢が信長軍に襲いかかった。浅井、朝倉軍3万も坂本の織田軍を攻めた。信長を危機に陥れた、この作戦の黒幕は、石山本願寺に潜伏していた近衛前久

 

 

7)比叡山焼き討ちから義昭追放へ(p.24)

信長はいったん岐阜に引き上げて陣容を立て直すと、再び近江に侵攻、勅命も誓書も反故にして、浅井、朝倉の身方となった比叡山延暦寺を焼き討ちにした。これが信長の残虐なイメージを決定づけた「比叡山焼き討ち」。

 

 

8) 前久と信長結びつけた光秀(p.27)

天正3年(1575)、信長と前久は突然和解。前久は、信長の奏請によって勅勘(天皇の勘当)を解かれ、無冠ながら朝廷への復帰を果たした。二人を結びつけたのは、明智光秀だと思われる。光秀は将軍義輝に仕えており、義輝の従兄弟である前久とも交流があったはず。

一連の包囲網の黒幕が前久であったことが、信長にわからないはずはない。しかし、策略を練り上げる構想力、人を動かす力量を見込んで、新政権への協力を求めた。

 

 

9) 安土城を「御所」にしようとした信長(p.30)

天皇と朝廷をなんとか意のままにできないか―、考えに考え抜いた末に出した結論が「自分が天皇の上位に立てばいい」でした。その証拠が平成11年(1999)の安土城発掘調査によって発見された。「安土城天皇用の御殿」「京都御所の清涼殿そっくり」・・平成12年(2000)2月11日の新聞各紙に、このような見出しが並んだ。

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10) 危機感をつのらす朝廷(p.33)

信長はすでに天正7年(1579)、誠仁(さねひと)親王一家を二条城御所に移住させ、自家薬籠中の物としています。さらに、誠仁親王の即位を果たした後、安土桃山城内の清涼殿に移住させるつもりだったのです。すなわち「遷都」です。

 

それが朝廷を支配下に置こうという野心によるものであったことは、天守から見下ろす位置に清涼殿を作ったことからも明らかです。当然ながら周囲は、信長の野望に対して危機感を持っていました。その最たるものが、皇族と公家、幕府側の人間でしょう。その代表が、近衛前久でした。

 

 

11) 武田征伐への同行が最後の引き金に(p.34)

前久と信長、二人は互いに力を認め、趣味を同じくし、蜜月を過ごしてきました。しかし、信長は前久にとってあまりにも過激であり、革新的すぎた。あろうことか、天皇の上に立とうとするなど、到底許せることではなかった

 

天正10年(1582)甲斐の武田信玄を討つため、信長は5万の兵を率いて出陣。このとき、前久(太政大臣も公家陣参衆を率いて同行。信長のあまりにも残虐な所業(武田家根絶やし、快川和尚焼き殺し)を見て、前久はついに信長と袂を分かつ決意をした

 

 

12) 光秀も組み込まれた信長謀殺計画(p.37)

木曽路を通って京に戻った前久は、各方面と連絡を取り、「信長謀殺計画」を練り始めた。まずは足利義輝の近臣だった細川藤孝(幽斎)を身方に引き入れ、足利義昭を京都に呼び戻し、幕府を再興する計画を立てる。同じく義輝の近臣だった明智光秀も、藤孝とともに前久側についた

 

一方信長は、武田征伐の功績を盾にとって、朝廷に対して、太政大臣、関白、将軍のいずれかに任じるように強要していた。その要望を朝廷が受け入れ、天正10年(1582)5月4日、安土城に勅使を遣わし、誠仁親王の書状を届けた。

 

信長が望めば、三職のうちいずれの職にもつける、ということです。誠仁親王は、信長暗殺計画を知っていたと考えられる。書き添えられた「万御上洛の時申すべく候」の一言。「すべては、上洛されたときに」。

これは、信長を洛中におびき寄せるための罠としか思えない。

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13) 光秀のかかえた負の感情とは(p.39)

同年(天正十年)5月29日、信長は百人ばかりの小姓衆を供に上洛本能寺に宿をとった。翌日、近衛前久以下大半の公家が、上洛のお礼に信長のもとに伺候。信長は、なぜこんなにも無防備だったのか、という謎がある。

 

おそらく信長は、「日本がこんなにも安全な国になったのだ」とアピールしたかったのだと思う。もはや全国で私戦が繰り広げられる戦国時代ではない。新しい時代になったのだ――そう宣言したかったのでしょう。自分を裏切る者が畿内にいるとは、想像さえしていなかったようだ

 

 

14) 信長は明智に「誅される」(p.41)

明智光秀は、なぜ織田信長を討ったのか。光秀の中には、様々な感情がうずまいていたはず。一つだけはっきり言えるのは、これまで語られていたような「光秀単独犯行説」はあり得ないということ。いくつかの証拠が残されている。

 

静岡県富士宮市日蓮宗西山本門寺に、信長の首が祀られている。寺に残された過去帳には<天正十年六月 惣見院信長、為明智被誅>とある。信長は明智のために誅されたという意味。「誅する」とは、上位の者が罪ある者を成敗する場合に用いる言葉

 

当時、信長よりも地位が高い人物、それは天皇か将軍しかありません。つまりどちらかの命令を受けて光秀が討ったということになる。そうでなければ、主君を討った光秀の行為を「誅する」と表現するはずがない。

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15) 光秀の「単独」「突発的」犯行はあり得ない。(p.42)

そして朝廷の計画には、将軍足利義昭も関わっていたという証拠が残っている。本能寺の変直後の天正十年(1582)六月十二日、光秀が紀伊国雑賀(さいが)土橋重治に出した書状の原本が、三重大学藤田達生教授によって発見された。

 

土橋重治は、一貫して反信長派であり、本能寺の変が起こると、雑賀を反信長で固め、高野山など近隣の寺院勢力にも決起を呼びかけた。重治は光秀に協力する書状を送り、その返信に次のような一文がある

 

委細(闕字)上意として、仰せ出さるべく候条、巨細能わず候、仰せのごとく、いまだ申し通わず候ところに、上意御馳走申しつけられて示し給い、快然に候、然れども 御入洛の事、即ち御請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走寛容に候事、

 

この一文を見れば、本能寺の変の直後の重治の行動が義昭の命によるということは明らか。重治が義昭の指示によって行動していること、光秀もまた将軍の指示で上洛戦への協力を約束していることがわかる。こうした史料が発見されたからには、クーデターが光秀の単独犯で、しかも信長を恨んだための「突発的犯行」という解釈は、もはや成り立たない

 

 

16) 足利幕府は信長政権と権力を二分していた。(p.44)

足利幕府は、元亀四年(1573)には滅亡しておらず義昭が幕府を移した鞆の浦 (とものうら)で権勢を保っていた。最近では、義昭が出家した天正十六年(1588)が幕府の終焉である、という説が主流になっている。

(編注)因みに私が愛用してる「日本史年表・地図」(吉川弘文館 2009年版)でも、「1573 室町幕府滅ぶ」となってます。

 

根拠はいくつかある。一つ目は官位を記録した『公卿補任(くぎょうぶにん)に、義昭が天正六年まで将軍だったと記されている事。二つ目は、義昭は毛利輝元を副将軍とし、多くの奉公衆や奉行衆を携えて幕府の機能を維持していた。事実、義昭が鞆の浦に居住していたときも、社会的には将軍と認識されており、京都五山の住持の任命などの公務も行なっていた。都から離れても、義昭は紛れもなく将軍でした。

 

大阪湾から九州へ向かう船は、上げ潮に乗って鞆の浦まで行って潮待ちをする。上り、下り、いずれの船にとっても、鞆の浦潮待ちする港としてなくてはならなかった。信長に都を追われた足利義昭は、西国の太守である毛利輝元を頼り、潮待ち港として発展を遂げた鞆の浦に幕府を移した

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17) 鞆の浦で力を蓄えていた義昭(p.47)

義昭が選んだのは、なぜ鞆の浦だったのか。西国が信長の勢力下ではないことは大きな要因でしょう。その上、鞆の浦は足利家にとって由緒ある地でした。南北朝時代筑前多々良浜の戦いに勝った足利尊氏が、都に攻め上がる途中で鞆の浦で兵を休めている。

 

もちろん、交通の要所であり、人も金も集まってくる。流通が発達したこの時代、関税である「関銭」、港湾利用税である「津料」の収入は莫大なものになった。こうした利益をもって、強大な権力を持った代表格が織田信長だったわけ。この「宿敵」に対抗するために義昭が選んだのが、鞆の浦だったと言ってもいい。

 

鞆の浦を拠点として瀬戸内海の流通路を押さえ、莫大な利益にによって西日本の経済を掌握する、という狙いがあったはず。そして事実、信長政権と対抗できるだけの力を持つ政府に成長した。

鞆の浦幕府」の大名衆として、京極高成、武田信景、内藤如安、六角義堯、北畠具親など、室町時代以降の守護・守護代らの名前が記録されている。

 

ほかにも信長によって所領没収や追放処分を受けた大名家の関係者が、義昭を頼って鞆の浦に逃れている。それだけ、信長と義昭の力が拮抗していたという証左でしょう。彼らは鞆の浦に身を置きながら、自家の再興の機会を伺っていたのです。

 

 

18)義昭を「日本国王」に奉じていた毛利氏(p.49)

鞆の浦幕府には、関銭、津料以外に、豊かな財源があったと思われる。また、義昭は「鞆幕府」を維持するための独自の夫役(ぶやく)や普請役を、毛利氏を通して周防・長門両国の寺社領に課していた。義昭は有力住持の任命権を握っていた。住持になるための認可料(公帖銭)も重要な収入だった。毛利氏は、対明貿易、対朝鮮貿易を行っていたが、義昭を「日本国王」として奉じていたと思われる。

 

義昭が鞆の浦に幕府を開いた天正四年(1576)から、本能寺の変が起こる天正十年(1582)までの6年間、財政面ににおいても軍事面においても、拮抗した勢力が、東西に存在したといっていい。再興を狙うのに十分な力を持っていた足利幕府と朝廷、そして反信長派の大名たち――大きな勢力が信長を包囲しており、光秀はその実行者に過ぎなかった

 

 

19)なぜ「光秀怨恨説」は消えないのか(p.52)

本能寺の変については長い間「光秀怨恨説」が取られてきた。いったいなぜなのか。理由の一つは、歌舞伎や人形浄瑠璃などの題目として演じられ、わかりやすいストーリーが流布したことにある。

権力者にとって、体制へのクーデターはあってはならないこと。だからこそ、逆臣光秀が忠臣秀吉に討たれるという構図になった。「本能寺の変」は、いわばわかりやすいスキャンダルとして、ワイドショー的に描かれてきた。

 

もう一つは、朝廷にとって都合の悪かったためだろうと思われる。当時の誠仁親王は、このクーデターを事前に知っていたと考えられる。もしこの時点で、誠仁親王が即位していたとすれば、天皇が信長殺しに関わっていたことになる―。これは朝廷の存続に関わる大変な汚点です。

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20)改ざんされた「兼見卿記」(p.53)

朝廷が都合の悪い当時の資料をことごとく消そうとした跡がある。『御湯殿上日記』という、御所に仕える女官たちによって書き継がれた、当番日誌のような記録がある。この記録が、本能寺の変の前後、天正十年(1582)1月から数カ月間、ごっそり消えているのです。何かを隠そうとしているのは明白。

 

また、吉田兼見の日記『兼見卿記』は、天正十年の日記だけが書き換えられている。であれば、以前の物は焼くなどすればよいのに、なぜか別本として残っていて、二種類の日記を読み比べれば、何を隠そうとしているかは明らか

 

兼和(編注:兼見と改名以前の名前)が書き換えた一例を紹介しよう。

本能寺の変の後の6月6日、観修寺晴豊とともに参内し、誠仁親王から使者として明智光秀(日向守)のもとに下るように命じられた時の件(くだり)です。改ざん前である「別本」と改ざん後である「正本」の同じ箇所を、比較してみよう。

 

別本・改ざん前

日向守へお使いのためまかり下り、京都の儀別儀なきのよう、堅く申し付くべきの旨仰せなり

正本・改ざん後

日向守へお使いのため下るべきの仰せなり。かしこまるの由申し入る

 

変のわずか四日後に、誠仁親王が光秀に京都の守護を依頼したのは、事前に連絡があったからとしか思えない。しかし、「正本」では「京都の儀」のくだりが、そっくり削除されている。誠仁親王が光秀と通じていたという事実を隠そうとしたのです。

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 21)天正十年夏記」に記された「非挙」(p.55)

公家である観修寺晴豊の日記『晴豊公記もまた、天正十年(1852)4月~9月の分がすっぽりと抜け落ちていた。ところが、昭和四十三年(1968)になって、別に保管されていた『天正十年夏記』が、その抜け落ちていた部分であることがわかったのです。

 

そこには。三権推任問題などについて記されていた。「本能寺の変」について、晴豊は「近衛公の非挙限りなし」と記しているのです。「非挙」とはあやまった行いという意味でしょう。

 

晴豊は前久たちの陰謀に加わってはいなかったが、何をしようとしていたかは知っていたのです。朝廷も一枚岩ではない。朝廷全体の総意ではなく、誠仁親王、前久グループがこうした事実を引き起こしたのだということがわかる記述なのです。

 

また、山崎の戦いの後に敗走、洛中引き回しの上、打ち首になった光秀の家臣斎藤利三については、「信長討ち談合の衆」と記されている。信長を打つための談合が行われていたのだから、「光秀単独説」はあり得ないことは明白。

 

こうした改ざんと隠蔽とごまかしが、朝廷を守るために必死で行われ続けていたのです。本能寺の変の後、鍵となる人物の素早い動きを見ても、事前に計画を知っていたしとしか思えない。

 

 

22)なぜ秀吉だけが迷わず光秀を討てたのか(p.57)

本能寺の変の後、秀吉が備中高松から京に戻るまでのおよそ十日間、畿内周辺にいた信長の一門衆、重臣達の動きには大きな謎が残る。光秀を討とうとした者は、なぜいなかったのか。

信長の息子たちと光秀家臣は、その時どう動いたのか。

 

織田家家督継いでいた信忠

滞在していた京都の寺から二条城に移り、京都所司代村井貞勝らと誠仁親王の住まいである二条城に移り、立てこもって、襲撃してくる光秀軍と戦おうとした。

信忠は、親王が光秀と共謀していることを知って自刃。(編注:著者の安倍龍太郎氏は「誠仁親王を人質に取ろうとした信忠を、村井が殺したのではないかと考えています」と書いてます)

 

三男信孝

6月2日四国遠征軍総大将として、大阪にいた。総勢3万なので、十分に光秀軍と戦えるはずが、本能寺の変の知らせを受けると、兵は散り散りになり、8千人しか残らなかったといわれる。

 

次男信勝

伊勢にいた。鈴鹿から山越えして近江まで進軍したが、伊賀などで国衆が蜂起する恐れあり、それ以上動くことができなかった

 

家臣:柴田勝家

知らせを聞いて、越前から北庄に戻るが、そこから動きを見せない佐々成政前田利家にも居城に戻るよう命じている。大阪の四国遠征軍と連絡取ろうとしたが、北庄から琵琶湖に出る近江路は光秀側に完全に封鎖されていた。これもまた、光秀の謀反が計画的なものだったという証拠といえる。

 

事前に指示がなければ、そんなに早く封鎖できるはずがないから。多くの大名が、状況がわからずに動けないでいる中を、秀吉だけがさっそうと備中高松から戻り、光秀を討つのです。これはやはり、事前に周到な準備があったとしか考えられない

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23)光秀軍を討ち、天下取りへ(p.60)

計画の中心にいたと考えられる近衛前久は、その後どう生きたのか。前久は、「本能寺の変」の直後に出家して「龍山」と号している。信長の死を悼んでのことと解されがちだが、身の潔白を印象づけるためのパフォーマンスとしか思えない。

 

変の当日、自邸に明智光秀を引き入れ、信忠が立てこもっている二条城を攻撃させたうえに、7日には誠仁親王に樽酒を献上し、ともに酒宴を張っているのです。これが信長を討ち果たした祝いの酒宴であったことは間違いないだろう。

 

ところが数日後、前久が予想もしなかった事態がおこる。備中高松で毛利勢と戦っていた秀吉勢が、「中国大返し」の離れ業を演じ、13日の山崎の合戦において明智光秀を打ち破ったのです。

 

おそらく前久は、秀吉も計画に抱き込もうとしたはず。秀吉に密書を送って仲間に引き入れようとした。秀吉は一旦これに応じた。あるいは応じるふりをして「光秀を討てば天下が転がり込んでくる」と算盤をはじき、「中国大返し」を実現する準備をしていたと思われる

 

しかし前久のこうした「非挙」に気づいている者がいた。信長の三男信孝です。信孝は洛中に触れを出して前久の行方を捜し、佐賀に隠れていることがわかると討手をを差し向けている。しかし前久は醍醐に逃れ、11月には徳川家康を頼って遠州へと落ち延びた

 

翌年9月、家康のとりなしで帰洛した前久は、天正十三年(1585)七月に秀吉を猶子として関白職に就かせ、「中央政界」に返り咲く。翌年には、娘の前子を関白秀吉の養女とし、後陽成天皇の女御として入内させている。

 

本能寺の変」で手を汚した二人が、互いの利益のために手を結び、変の真相を徹底的に葬った信長は懸命に下克上の道を駆け上がり、朝廷の上位に立って絶対君主となろうとしたが、秀吉は朝廷と手を結び、その権威を丸ごと利用することで天下統一を成し遂げた。

 

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<写真撮影=Atelier秀樹>

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『秀樹杉松』112巻2965号 2020.2.5/ hideki-sansho.hatenablog.com #605