五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎 2020.3.30 第44刷 発行)
若いころ夢中で読んだ五木寛之『さらばモスクワ愚連隊』『青春の門』。昨年秋には『青春の門』が40年ぶりに復活して『新・青春の門』第九部漂流篇が発行され、本ブログ「秀樹杉松」2019.12.05号に投稿しました。“コロナ読書”の一環で、今回『大河の一滴』を一気に読み、強い衝撃と深い感銘を受けました。
『大河の一滴』は、もちろん小説ではありません。「随筆」「随想」のカテゴリーに入るかもしれないが、(平凡に毎日を過ごしている私から見ると)人間論・文明論・哲学書・宗教書に思われます。
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『大河の一滴』には、次の5篇が収容されています。
→○人はみな大河の一滴
○滄浪(そうろう)の水が濁るとき
○半常識のすすめ
○ラジオ深夜一夜物語
○応仁の乱からのメッセージ
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(表紙カバー)
本稿では、最初の「人はみな大河の一滴」を取り上げます。本書巻末の<あとがき>によると、編集者との雑談で、「古代中国の屈原の故事を持ち出して私なりの考えをしゃべった」ところ、「その話を書いてください。絶対にいま書くべきだと思います」と言われ、「発作的に書き下ろした」のが「人はみな大河の一滴」なそうです。
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驚くなかれ、最初の書き出しからしてこうです。
→ 私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある。最初は中学二年生のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとのことだった。どちらの場合も、かなり真剣に、具体的な方法まで研究した記憶がある。本人にとっては相当にせっぱつまった心境だったのだろう。
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次のような文章が、さらりと出てきます。
→人生は苦しみと絶望の連続である.。/「泣きながら生まれてきた」人間が、「笑いながら死んでゆく」ことは、果たしてできないものだろうか。 / 人は死んだらどこへいくのか。
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そして続いて、以下のような整理された文章が現れます。
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人間はちっぽけな存在である。だが、それがどれほど小さくとも、草の葉の上の一滴の露にも天地の生命は宿る。
空から降った雨水は樹々の葉に注ぎ、一滴の露は森の湿った地面に落ちて吸い込まれる。そして地下の水脈は地上に出て小さな流れをつくる。やがて渓流は川となり、平野を抜けて大河に合流する。
その流れに身をあずけて海へと注ぐ大河の水の一滴が私たちの命だ。濁った水も、汚染された水も、すべての水を差別なく受け入れて海は広がる。やがて太陽の光に熱せられた海水は蒸発して空の雲となり、再び雨水となって地上に注ぐ。
人間の生命は海からはじまった。人が死ぬということは、月並みな例えだが、海に還る、ということではないのか。生命の海に還り、再びそこから空にのぼってゆく。そして雲となり露となり、ふたたび雨となって、また地上への旅がスタートする。
それが私の空想する生命の物語だ。ごくありふれた安易なストーリーにすぎないが、私は最近、本気でそう思うようになった。
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<あとがき>
五木寛之さんの「本音」が少し窺える、巻末の<あとがき>です。
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これまで私は自分の感じていることを、あまりストレートに言うことをしないできた。正直に言えば、自分をうしろめたくおもう気持ちが、ずっと心の底にわだかまっていたのが最大の理由である。
他人を押しのけ、小賢しく立ち回って生きてきた自分のような人間が、いまさら人になにを偉そうに物いう資格があるだろうかと、つい、考えてしまうのだ。この本の中でも触れたように、外地での敗戦と引き揚げという大きな体験のなかで、私はいちじるしく自分の人間性を歪めてきたと思わないではいられない。多くの心やさしい人たちの犠牲のうえに、強引に生きのびて母国へ帰ってきたいかさま野郎がこの自分なのである。
いま、そのことをまるで忘れてしまったかのように大きな顔をして生きていることをつくずくおぞましく感じることがある。「私は悪人である」などと胸をはって堂々と宣言したりすることなど、私には恥ずかしくてできない。大悪人ならむしろ救いもあるだろう。しかし、ケチな小悪党ではどうしようもないのである。
そんなふうに自分のことを考えながら、それでも心のどこかに、一生に一度ぐらいは自分の本音を遠慮せずに口にしてみたい、という身勝手な願望もないわけではなかった。そんな気持ちになるというのは、たぶん年をとってわがままになってきたせいだろうか。最近の世の中の激しい変化と、信じられないような出来事のショックが私の気取りを揺さぶって、思わずなにかを言わずにいられない気分にさせたという面もありそうだ。
私がここで描いてみた人間の生死のイメージは、じつに人並みで、たあいのない幼稚な物語にすぎない。しかし、なにかひとつの物語を信じるということによって、人間はほんの少しだけましな動物になったのではないか。
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』113巻2990号 2020.5.1/ hideki-sansho.hatenablog.com #630