すべてはこの男がつくり出した。
藤原 史ふひと (のちの不比等)が胸に秘めた野望、それは「日本書紀」という名の神話を作り上げ、天皇を神にすること。そして自らも神の一族となることで、永遠の繁栄を手にすることであった。(本書のカバー)
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前々号(9/3)『四神の旗』の藤原四4兄弟に続き、
馳星周『比ぶ者なき』で、四兄弟の父・藤原不比等に迫ります。歴史の専門書は小むづかしいところがあるが、歴史小説は面白くて為になります。
今年は不比等没後1300年にもあたりますので、(私としては)必読書に思います。
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本書のカバー
◉不比等(史)の由来
1)本書の書名『比ぶ者なき』を「くらぶ・・・」と最初読んでましたが、途中から「ならぶ・・・」であることに気づきました。中学生の頃から「不比等」は変な名前だなと思っていましたが、今回、「等しく比ぶ者がいない」ほど優れている、の意味もあることを知りました。
2)史(ふひと/ふみひと)とは、古代日本で文筆や記録の職務にあたった渡来人系の官人組織。のちに姓(カバネ)の一つに転じた。元々は「ふみひと」と読まれ、「史人」「文人」「書人」などとも表記されたが、のちに「ふみひと」が略されて「ふひと」とも読まれるようになり、表記も「史」と記されるようになった。
3)『尊卑分脈』によれば、藤原不比等は幼少時、田辺史の一人である田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)に養育され、不比等(史)の名前自体もそれに由来している、とされている。(以上、ウィキペディア ja.m.wikipedia.org)
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◉藤原不比等(文献によっては「史」)
659~720。今年は今年は不比等没後1300年。
(天智天皇から藤原氏の姓を賜った)藤原鎌足の次男。天智天皇の落胤説あり(興福寺縁起、大鏡、公卿補任、尊卑分脈)。子は藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)
31歳で刑部省の判事となり、下級役人としてスタート。草壁王子に仕えていた縁と、法律や文筆の才によって登用されたと考えられている。持統天皇の譲位(697)により即位した草壁王子の息子・軽王子(文武天皇)の擁立に功績があり、大宝律令編纂において中心的な役割を果たしたことで、政治の表舞台に登場。
千田奈良県立図書情報館長 pref.nara.jp)によれば、二つの顔(法律学者の顔と、権謀術数に長けた政治家としての顔)を有する。
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本書を楽しく読む上で、藤原時代の歴史(天皇、主な出来事)を参照することはどうしても必要なので、本書の「登場人物系図」、Wikipediaなどのネット情報にあたって、以下のような自分用のメモを作成しました。
この期間、短年間で天皇が代替わりしており、孫から祖母へのリレーも見られ、女帝が目立ちます。不比等の関わりも随所に見られます。
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35代 皇極天皇【女帝】642~645
*大化改新 645
36代 孝徳天皇 645~654
*藤原鎌足 没 669
*壬申の乱 672
41代 持統天皇【女帝】(鸕野讃良うののさらら)686~697 史上3人目の女性天皇
*藤原京(新益京あらましのみやこ)へ遷都 694
*大宝律令 制定 701
43代 元明天皇【女帝】(阿へ皇女)707~715
*平城京遷都 710
44代 元正天皇【女帝】(氷高皇女)715~724
*養老律令 718
*藤原不比等 (右大臣)没 720
*「日本書紀」完成 720
*柿本人麿 没 724
*大伴旅人(大納言)没 731
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(写真:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』116巻3049号 2020.9.13/ hideki-sansho.hatenablog.com #689