秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(1) 『東日流外三郡誌』/  安日彦、長髄彦 (耶馬台国王) /  古代史の空白(初代ー九代天皇の業績)/  アラハバキ連合の大征戦 / 『東日流外三郡誌』偽書説 / <参考資料>安倍晋三氏は、安倍宗任の末裔?

 

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<秀樹杉松>10/10号の今野敏『神々の遺品』で予告した、

鈴木旭『古代のみちのく101の謎』新人物往来社 1995)を、図書館から借り出して早速読みました。私の関心が深いテーマですが、初めて知ることも多く、勉強になりました。

 

本書「101の謎」の中から、63東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)64 誰が何のために『東日流外三郡誌』を書いたのか65 安日彦(アビヒコ)長髄彦ナガスネヒコとは何者か76 古代史に「空白期」があるのは何故か100東日流外三郡誌』は、やはり偽書だったのか  の五つを今回取り上げることにしました。

 

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ちなみに参考資料として、安倍晋三氏は安倍宗任の末裔?」を追加しました。以前から知ってましたが、『東日流外三郡誌』との関係から三つの情報を載せました。

 

東日流外三郡誌偽書説はあるようですが、本書著者の鈴木旭の指摘「忘れ去られ、抹殺されてしまった過去を回復するためにも積極的に評価しておきたい」に共感します。古文書としての信頼性の問題はあるとしても、聞き取り調査、遺跡調査など34年もかけて386巻にまとめられた歴史文献

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著者の鈴木氏の文章をもとに、私が圧縮編成しました。本書の書名は『古代みちのくの101の謎』ですが、みちのく(陸奥国)だけにとどまらない、日本歴史全体の研究・考察が、わかりやすく書かれております。本稿は歴史関係なのでやや冗長となりましたが、関心のある方は、本稿に御目通しの上、原本をぜひご覧ください。

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63 東日流外三郡誌』とは何か ー「反神武」「半津軽藩」の主張

 

 

①昭和50年(1975)青森県北津軽郡市浦村(現五所川原市)の村史編纂委員会に、和田喜八郎氏(古物商)が全部で200巻にも及ぶ古文書『東日流外三郡誌』が提供された。

 

②もともとの日本は「耶馬台国」(ヤマトノクニ)ー耶馬台国 (ヤマタイコク)ではないーと呼ばれ、「安日彦 」(アビヒコ)」と「長髄彦(ナガスネヒコ)兄弟が国を治めていたのを、大和朝廷創立者である神武天皇(「渡来人」)が乗っ取ってしまった。

 

③国を奪われた安日彦と長髄彦の兄弟は、大和から遠く津軽の地に亡命し、津軽先住民や中国からの亡命者集団と合体。アラハバキ連合」という新国家(部族連合体)を建設し、神武天皇大和朝廷と真っ向から対決するようになった。

 

長髄彦、安日彦の兄弟は、祖国奪回のために何度も大和に向かって遠征行動を繰り返し、神武天皇の率いる大和朝廷を大混乱に陥れ、天皇位を空位にすることもしばしばあった。東征ならぬ大征西戦が堂々と展開された。

 

二つの国は互いに譲らず、長い間、対立を繰り返したが、大和朝廷律令国家となり、中央集権国家の建設に取り組むようになり、アラハバキ併合作戦(植民=同化政策)がほぼ完了。津軽を残して、陸奥の大半は律令国家の支配下に入る。

 

紀元前7世紀前後に始まった、大和朝廷アラハバキ連合の対決は、紀元9世紀に至るまでの間、なんと1600年間にも亘って繰り返された

 

「二つの日本があった」というのは真実であり、新旧の『唐書』に記録された「日本国」、『日本書紀』などに見られる「日高見国」(ヒダカミノクニ)というのはアラハバキ連合」のことだったのか。

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64  誰が何のために『東日流外三郡誌』を書いたのか

   ー 秋田孝季と和田長三郎

 

東日流外三郡誌は、一地方としての東北の歴史書津軽の外三郡という限られた地域の過去を記録した物語でもない。日本建国史を書き綴った一大叙事詩であり、日本のルーツを明らかにするには不可欠の歴史書となる。

 

②誰が何のために、壮大な物語を綴ったのか。江戸中期の頃、東北の片田舎に二人の若侍~秋田の秋田孝季と、義弟の津軽和田長三郎~がいた。二人共子供の頃から、津軽藩大浦一族によって自分たちの祖先が眠る津軽の地を奪われ、古くからの由緒正しい系譜を抹殺されてしまったと聞かされた。

 

陸奥国から侵入してきた大浦為信が武力で支配圏を確立し、古代の安倍氏、平泉藤原氏、中世の安藤氏や秋田氏などに関わる由緒、電文などを書き綴った文書文献類を残らず焼却処分し、遺跡や残された遺物を徹底的に破却津軽の伝統、歴史と文化を伝える文物類をことごとく抹殺

 

④反骨精神の旺盛な家系に育った二人の若侍は、大浦一族によって国を奪われ、古代からの歴史と文化を誇る由緒正しき系譜を抹殺された屈辱を晴らすため、残された人々の間に語り伝えられてきた伝承や、微かに残されている歴史上の痕跡となる遺跡や遺物を拾い集め、丹念に記録する作業に取り組むことになる。

 

調査に費やした期間は寛政元年から足掛け34年、歩き回ったところは全国82カ国にも達した。『東日流外三郡誌』に収録された調査記録は、直接の祖先にあたる安東氏、秋田氏どころか、古代の安倍氏、平泉藤原氏まで通り抜け、遠く神武天皇と同じ時代を生き抜いた長髄彦、安日彦時代まで遡っていくことになった。

 

⑥否応なしに自分たちのルーツとなるアラハバキ族の歴史に踏み込んでいかざるを得なかった。大和朝廷に真っ向から対決し、古代日本の運命を揺さぶる大事件となった攻防戦を記録することになる。

 

⑦その結果、常に征服の対象となり、蝦夷という言葉で蔑まれることになった東北日本の側から見た敗北者の歴史、しかしながら、少しも臆することのない誇り高き民族史となる歴史書が出来上がった。表向きの史書には見られない独特の趣がある。『東日流外三郡誌』程、あからさまな反体制的文書は一つもない。

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65  安日彦、長髄彦とは何者か 「耶馬台国」の王

神武天皇が歴史上登場する前の日本列島において、国を二つに分けて治めていたとされる「安日彦」長髄彦。『東日流外三郡誌』によれば、神武天皇による東征戦が始まる前の日本列島には、多くの部族が住み、互いに日本征討、君主の鎮座を狙い、戦いを広げていた。

 

長髄彦は、戦前の学校教育では「外国勢力と結託し、神武天皇の日本統一に反抗した”逆賊の頭目」と教えられた曰く付きの有名人である。それが、”逆賊の頭目”どころか、神武天皇が歴史上に登場する前の日本列島において五畿七道五十七ヶ国」からなる邪馬台国の国主であったと記されている。

 

天皇家に対する逆賊ナンバーワンの長髄彦は、元々の日本国である邪馬台国を代表する先住民 ー 縄文系部族集団の王であり、従来は大和朝廷の建設者であり現代日本のルーツとされる神武天皇こそ、外国から日本列島に渡来し、元日本人を征服した人物であったということになる。常識とされている歴史とは完全に主客転倒しているのである。

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76  古代史に「空白期」があるのは何故か

    ー アラハバキ連合の大征戦

 

①古代史家の間では「大和朝廷を開き、初代天皇となった神武は””架空の人物”であり、その後に続く八代の天皇も実在しなかった」という見方が常識になっている。

 

②その背景を探ると、日本の正史とされる『古事記』『日本書紀』のいずれの史書においても、初代から9代に至る天皇の業績を伝える記事があまりに少なく、意図的に省略されたとしか思えないような、簡略化された記事になっているのが理由になっているらしい。

 

③古代史家たちは「実在しない人物だったから業績を書くにも書けなかったのだ」と主張するのである。ところが、東日流外三郡誌を通読してみると、古事記』『日本書紀』のいずれにの史書にも書かれていない出来事が事細かに記されており、空白になっている行間を埋めてくれるのである。

 

④これをみると、神武天皇の在世時代中に、アラハバキ連合が大和討伐戦争を決行したのをはじめ、歴代の天皇が代替わりする度に大和へ攻め入っている様子が窺える。そして、神武天皇の後、二度に亘って天皇位が空位になったと記載されている。さんざんに打ち破られ、翻弄された大和朝廷は大混乱に陥り、収拾不可能になってしまったものらしい。

 

⑤こうした記述が事実に即した記録であったとすれば、『古事記』『日本書紀において、神武天皇以来の歴代天皇の業績がまともに記録されなかったことも頷ける。「天孫族の子孫」を自称する天皇家にとって、何度も何度も攻め入られ、さんざんに打ち破られて帝位を継ぐ者さえいなくなってしまった、などということはとても記録できなかったからである。

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100 東日流外三郡誌』は、やはり偽書だったのか偽書」論争

 

津軽に侵入した戦国大名大浦氏は、過去の歴史をあとづける文物を徹底的に破却しているが、津軽の人々の脳頭に残された過去の記憶までも消すことはできなかった。それを寛政年間に至り、前後34年に及ぶ時間を費やして、ヒヤリング調査、遺跡調査を重ねることによって、丹念に記録し、全386巻に及ぶ長大な文書にまとめあげられたのが『東日流外三郡誌』である。

 

②近年に至り、「戦後になって書かれた偽書である」という批判が提出されている。平成5年(1933)春に行われた青森古文書研究会の記者会見において、「筆跡や記述内容などからみて、偽書としか考えられない」という見解が発表された。

 

③それにも拘らず、その東日流外三郡誌』が登場したことによって、初めて津軽を中心とする奥州全域の歴史や遺跡、遺物の謂れ、地名や用語の由来が明らかになったものが少なくないばかりか、それらの解明を通して奥州独自の文化と歴史の全体像が浮かび上がってきたことは否定できない事実である。忘れ去られ、抹殺されてしまった過去を回復するためにも積極的に評価しておきたい。

 

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<参考資料 1>

 

 ~河北新報」ONLINE NEWS(9/3)デスク日誌) kahoku.co.jp

 

偽史安倍氏

 

 退陣を表明した安倍晋三首相は遊説で東北を訪れると「自分のルーツは東北」とよく口にした。前九年の役で敗れ、西国に流された安倍宗任の44代目を自任。宗任が拠点とした岩手県金ケ崎町の「鳥海柵(とのみのさく)跡」が2013年に国史跡に指定された際には「大変喜ばしい」と祝電を寄せている。

 その「ルーツ東北説」に、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)の関係者が関わっていたことを最近、知った。

 「外三郡誌」は五所川原市の農家で見つかった「古文書」群。古代津軽大和朝廷と対立する王朝が存在したと説き、一部歴史ファンの支持を得た。全て発見者の男性の偽造だったことが今は定説となっている。

 でたらめぶりを暴いた元地元紙記者の著書には、「古文書」が本物だと主張し、偽史を論拠に数々の文章を発表した大学教授が、首相の父晋太郎氏を「安倍一族の末裔(まつえい)と持ち上げ、晋太郎氏も「その気になっていた」との記述がある。

 長州(山口県)出身の首相が「蝦夷の末裔」ならば、興味深い話ではある。ただ、外三郡誌関係者が関与しているとすれば、とたんに眉唾ものの臭いがしてくる。

(青森総局長 大友庸一)

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<参考資料 2>

 

釜石の日々blog.goo.ne.jp

 

阿毎氏にまで遡る安倍晋三氏の祖先

2014-03-16 19:11:04

 

①東北の歴史では一般に平泉文化を生み出した奥州藤原氏奥州安倍氏が良く知られているが、藤原氏安倍氏を支えた経済的背景には現在の青森県五所川原市十三湖日本海への開口部にあった十三湊(とさみなと)の存在があった。

 

安倍貞任の弟安倍宗任は捕らえられて、四国の現在の今治市富田地区に流され、3年後さらに九州筑前国宗像郡の筑前大島に流され、そこで1108年に亡くなった。この安倍宗任の三男安倍季任肥前国の松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名のり、その子孫が松浦水軍を興す。

 

松浦実任(安倍季任)の子孫である松浦高俊源平合戦で平家方の水軍として敗れ、山口県長門市油谷に流された。松浦高俊の娘は平知貞に嫁ぎ源氏の追及を逃れるために安倍氏を名乗ったこの安倍氏の子孫が現在の首相の安倍晋三である。

 

1987年7月、同氏は両親である安倍晋太郎夫婦と画家の岡本太郎氏とともに奥州安倍氏の代々を祀る青森県五所川原市の石搭山・荒覇吐神社を訪れている。安倍晋三首相は従って、荒覇吐王国を建てた安日彦、奥州安倍氏係累である。

 

⑤しかし、現在の首相を見ていると、争いを好まなかった古代東北の王国の建国者の子孫とはとても思えない。 

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<参考資料 3>

 

安倍宗任安倍晋三

古沢 襄 (kajika.net

 

安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県と応じてきた。山口県岩手県が、どう結びつくのか、晋太郎は安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。

 

それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。

 

そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。

安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。

 

安倍貞任は猪突猛進型の武将だったが、宗任は知略に優れた名将といわれた。安倍一族を滅ぼした源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受けている。そして頼義の領地・伊予国に連れてきた。配流とは名ばかりで、間もなく松浦の領地を与えた。

 

さて安倍家が松浦姓を名乗らずに安倍の本姓を名乗ってきたのは何故であろうか。安倍家は山口県大津郡油谷町の名門で、晋太郎の父親は安倍寛、戦前の衆院議員である。晋太郎は自らを安倍宗任の末裔といったが、その根拠はいわなかった。

 

私は宗任の長男が祖となった松浦党の系譜ではなく、水軍の根拠地・大嶋に残った三男の末裔でないかと思っている。それなら安倍の本姓を名乗ってきたことの説明がつく。安倍家には、その言い伝えが残ったのであろう。

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』117巻3669号 2020.10.15/ hideki-sansho.hatenablog.com #709