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鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(4)~ 古代の日本は二つの国に分かれていた?「倭国」と「日本国。「日高見国」、「ひのもと」(日本)、「大倭日高見の国」

 

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鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(4)

 

古代日本には二つの国家があった? 古代日本の国名がいくつも登場します。ひのもと倭国日本国日高見国大倭日高見国

 

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56  豊臣秀吉の言う「ひのもと」とは何かー愛妻ねねに宛てた手紙

 

1)秀吉がねねに宛てた手紙に、「くわんとう(関東)と「ひのもと(日本)」と書かれている。くわんとう(関東)と区別されている「ひのもと(日本)とは、どこを指して言っているのか。文脈から見れば、それは奥羽の地、今の東北地方を意味していることは想像できるが、本当はどうであろうか。

 

2)結論から先に言うと、東北地方が「奥羽(陸奥+出羽)」と呼ばれたり、「蝦夷地」と言われる前は、日高見国」(ひたかみのくに)という正式な名称を持つ独立国であったらしいということだ。関東から東北一帯を視察旅行し、大和に帰国した武内宿禰(たけのうちすくね)が景行天皇に奏上した言葉として記録されているところによると ー

 

3)東の夷(ひな)の中に日高見国があり、その国の人は、男女とも頭髪を分けて結ぶ習慣があり、体に刺青を入れ、皆勇敢であり強い。「勇敢な戦士を意味する蝦夷と呼ばれている。その国の土地はよく肥えていて広い。ぜひとも征伐軍を興し、奪い取るべきである」と報告した。以来、大和朝廷から律令国家の成立時代に至るまでの間、執拗に「蝦夷征伐戦争」が繰り返されるようになり、東北地方が「日高見国」と呼ばれていたことは明白。

 

4)日高見国は「ひのもとのくに」と読まれることもあり、「ひのもと」と言えば、関東以北の地、東北地方を指していた。ひのもとの国が蝦夷地と蔑まれ、陸奥国出羽国と分けて呼ばれるようになって久しい戦国時代になっても、言葉だけは生きていたものと見える。

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58 古代日本は「二つの国」に分かれていた倭国日本国

 

1)遠い昔、東北の過去に何があったのだろうか。手掛かりがないわけではない。日本の歴史書では、どこを見ても触れられていないが、はっきりと「日本列島に二つの国があり互いに争っていた」と記録する外国文献がある。古代中国の史書旧唐書』と『新唐書である。

 

2)二つの史書には大略、次のような記載が見られる ー

倭国には二つの国があり、狭く倭国と称する国ともう一つ、同じ倭人の一種であるが、これと支配を異にする日本国というのが両立していた。ところが、7世紀半ば頃、二つの国が合併して統一国家を形成し、それを機会に倭国という国号を廃して日本国を国号とするようになった」。中国大陸に唐王朝があった頃、日本には二つの国があり、両立していたというのである。

 

3)ところが、7世紀半ばごろ、二つの国が合併して一つの国になり倭国という国号を廃して日本と名乗るようになった。と。驚くべきことである。現代の日本人は、そんな過去があったことは少しも知らされていないし、誰からも聞いたことがない

 

4)7世紀半ばまでの日本は「倭国狭義の意味で言う倭国+日本国」と言う形になっており、二つの国は両立していた。二つの独立国が並び立っていた。ところが、7世紀半ば頃、二つの国は合併して「日本国=統一国家」になったと言うのである。

 

5)いったい、どちらの国がどちらの国を合併したのか。その点については、『旧唐書』と『新唐書』は全く逆の記載をしており、読む者としては面食らってしまう。『旧唐書』には「小国の日本国が大国の倭国を征服した」と記載されているが、『新唐書』では「倭国が日本を併合した」となっている。

 

6)これは妙なことである。いったい、どういうことなのか。現代に生きる我々から見れば、倭国大和朝廷律令国家)が日本国(日高見国→蝦夷地)を吸収合併したのであり、『新唐書』の記述が史実に則していることを知っているが、唐の史家たちから見れば、理解に苦しむことがあったのだ。古代中国ばかりか、どこの国においてもあり得ないことが起きたのである。

 

7)国と国の戦争があった場合、勝利者となった国が敗北者の国を合併する際、敗北者となった国の歴史と文化を抹殺し、国号などはいの一番に地上世界から消し去ってしまうのが常識である。ところが、古代の日本においては、そういう単純なやり方はしなかった。例えば悪いかもしれないが、アメリカがロシアを吸収合併してロシアを名乗ったり、ロシアがアメリカを併合してアメリカを名乗る形で合併し、統一したのであった。

 

8)他人の国を奪っておいて、その国の名前を名乗るなどというのは、古今東西を通じて、日本以外のどこの国においても見られない。前代未聞の出来事であった。唐の史家たちが誤解したのはやむを得ないことだったのである。

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59)「大倭日高見の国」は何を意味するか ー 祝詞大祓詞

 

1)遠い昔、東北の過去に何があったのだろうか。もう一つの手がかりは、習慣的に読み上げられる祝詞(のりと)のフレーズである。『延喜式』(927年成立)の祝詞に「大倭日高見国を安国と定めまつりて云々」と出てくる。そうなると、「大倭日高見国」とは何か、ということになってくる。

 

2)江戸期の昔から正当な解釈として定着しているのは、国学者賀茂真淵本居宣長らの見解。「夜万等(やまと、大和=倭国のこと)の国は、四方を取り囲む山の風景が美しく、高く聳える気高き様子を例えている言葉だとか、四方を囲む山が遠くにあり、平で広い土地の様子を表現したものだ、という。

 

3)蝦夷史研究において大御所的存在の高橋富雄博士(東北大名誉教授)は、次のように語っている。(「幻の日高見国」)ー

 

「大倭日高見国」は、大倭ヤマト国家日高見国=エゾの国との連合・合体としての統一国家のことを指したと理解するほかない。従って、『大倭日高見の国を安国と定める』のは、『ヤマト国家とエゾの国とを、打って一丸とする統一国家を樹立して、日本国は初めて安定する』ー

そういう統一国家の理想を表明したものということになる。

 

4)と言うことは、大倭(ヤマト国家)の中には、もう一つの国、日高見国を柱に立てて「ヤマト=日高見連邦」としなければ、国の形は定まらないと言う考えがあったことになる。高橋博士が「誠に重大な国家観念である」と指摘する所以である。やはり、古代日本にはヤマト国家の他にもう一つの日本があったことは事実だったのだ。

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60)日高見国は、どこにあったのか?ー古文書に見る用例の変化

 

1)『日本書紀』や『常陸国風土記』に「日高見国」と言う言葉が繰り返して登場するが、その度ごとに言葉の意味することが違ってきているのが認められる。同じ言葉でも、言葉が表現する実態(内容)が微妙に違っている、

 

2)既に紹介したように、『日本書紀』に見られる竹内宿禰の「東の夷の中に、日高見の国有り。撃ちて取りつべし」とある。日本武尊の足跡から、常陸国の北東に日高見国があった、から、日高見国は東北地方にあったことはほぼ間違いない

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写真:Atelier秀樹

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秀樹杉松』117巻3673号 2020.10.23/ hideki-sansho.hatenablog.com #713