秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

『眠れないほど面白い空海の生涯』(由良弥生著) を読む~(No.3)「第三部 大学を飛び出し仏道修行者に転身

 

由良弥生著『眠れないほど面白い空海の生涯』を読む(No.3)ー「第三部 大学を飛び出し仏道修行者に転身」をお届けします。

 

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<編集注>

今回のNo.3をもって本シリーズは終わりとします

本書は、はじめに第一部〜第十部から構成されています。私はなんとか全部を読み通しましたが、ブログ投稿はこの辺で止めることにしました。長期連載は敬遠しました。なお、本号末尾の「編集注」もご参照ください。

 

本号は少々ボリュームが嵩張りますが、よろしかったら終わりまでお読み(拾い読み・斜め読みで可)いただければ感激です。宗教・仏教・密教空海にあまり関心のない方(実は私もそうなのです!)でも、少しは参考になると思います。そして有志の方は、由良弥生さんの『眠れないほど面白い空海の生涯』をどうぞ!

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第三部 大学を飛び出し 仏道修行者に転身  (p.89~148)

  

🔸1) 強くひかれた華厳経の世界 (p.90~97)

 

→南都(奈良)の東大寺や大安寺には、生前の親王禅師(早良親王・善道尼の父)をよく知る高僧が複数いた。親王禅師の無実を信じ、その落胤である善道尼を見守っている。大安寺の勤操ごんぞうもその一人だった。

 

真魚は毎夜のように善道尼の庵に足を運んでは、仏教や将来について語り合った。

 

真魚「私のような者の心にも、愛(執着・欲望)があるのです。恩愛仏教では悟りを妨げるものとされています。けれども、恩愛は深いつながりのある者どうしの断ちがたい親愛の情の切なさを表すものとして使われています」「愛というのは瞬間の中の永遠とか…。そういう瞬間を私は育てたい」

 

→『華厳経けごんきょう』は南都(奈良)の仏教界で最高の権力をもつ華厳宗の拠り所とする経典である。毘盧遮那仏びるしゃなぶつ(華厳経の本尊)は、釈迦のように実在した人物ではない。この世界(宇宙)の永遠の真理を表した仏心(法身・真理そのもの・宇宙仏)としての存在である。

 

→ 一即一切・一切即一 とは、一がじつは一切であるとの教えのことで、一と一切とが融通無碍であることを教えている。つまり、一つの個体(自己)の中に全体(一切の他者)があり、全体(一切の他者)はまた一つの個体(自己)の中にあり、全体と個体とはなにものにもとらわれることなく、自由に互いに関係しあっているという考え方だという。

 

→(むむ、、、)釈迦の仏教からかなり離れた考え方真魚は強くひかれた。なぜなら、この世界(宇宙)の不思議なとらえ方に人間の知恵でははかり知ることのできないもの、神秘を見たからだ。

 

→ 真魚は、栄華や富貴は無益だと判断し、中央の官吏となる道へ進むことがいっそう無意味なものに思えた。もっと意味のある世界、自分の欲求を満たしてくれる世界へ進みたかった。そんな時、華厳経の世界を知ったのである。

 

→大学で学ぶ儒教というのは人が作った政治・道徳を説いたもので、俗世(この世の中・俗世間)の取り決めだけを重んじ、世渡りの工夫しかしていない。、、、だから、どんなに儒教を学んでも、この世界(宇宙)とか生命の神秘とかを探ることはできない

 

人間とこの世界(宇宙)を成り立たせている真理を、私は明らかにしたい自分の命を官吏となる道に託することはもうできません。、、、この夜。官吏への道を捨てた真魚に、善道尼は高級官僚だった藤原種継が暗殺された後の天皇家の不幸について語った。

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🔸2) 天皇家の不幸は怨霊の世界(p.97~99)

 

→暗殺事件の後、桓武天皇の身辺に不幸が続発し、朝廷周辺では、早良親王の怨霊の祟りではないかと囁かれた。

 

真魚「私は私度僧しどそう(官の許可なく出家した僧)になってでも、あなたのおそばにいたい。自分の人生を生きたい」。

善道尼「本当にわたくしのことを愛しく思ってくださるなら、立派な仏教僧になってください。その時こそ、わたくしはあなたのおそばでお世話する身になりたい」

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🔸3) 密教の秘宝 (p.100~110)

 

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善道尼近事女ごんじにょという形で大安寺の勤操ごんぞうに仕えている。大安寺にはかつて道慈という学問僧がいた。道慈は唐(中国)で密教を学び、虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほうという呪法の書かれている経典を持ち帰り、大安寺の高僧に伝えられた。

 

真魚「血のにじむような努力をしてでも、私はより多くの経文を記憶し理解しようと思う。その時にこそ、あなたと本当の夫婦の交わりができるのだから」

 

→(数日後の夜)善道尼は「あなたが、そこまで熱心に仏法(仏の教え)を学ぼうとされるなら・・・これを」と言って、1冊の経典を真魚に差し出した

 

→それは、『虚空蔵菩薩能満諸顔最勝心陀羅尼求聞持法こくうぞうぼさつのうまんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう という経典の写しだった。「勤操様によると、この経にはインド伝来の虚空蔵求聞持法こくうぞうぐもんじほうという秘法が書かれています。これは釈迦牟尼(釈迦の尊称)に由来するものではなく、インドに起こった密教に由来するものだそうです」

 

→(この世での利益りやくが叶うというのか・・・そんなことがあるのだろうか)と真魚は疑わしく思った。仏教における利益りやくといえば、人々の煩悩をなくし、悟りに導いてくれることだけしか頭になかった。この世で悟りを成就するのは困難とされている。

→(いったい密教は、仏教なのだろうか・・・)という疑問をもった。

 

善道尼 ー「虚空蔵求聞持法とは密教の呪法であり、秘法です。虚空蔵菩薩を本尊として心に念じ、本尊に向かって真言(呪文)を一日一万遍、百日間かけて百万遍唱えるというものです。これをやりとげた修行者は、心の働きが目ざめ、菩薩のもつ智慧を獲得することができて、八万四千といわれる経文の全てを暗記して内容を理解すことができ、忘れることがないといわれます」

 

善道尼「この行法(修行の方法・仕方)は、平生の暮らしのならわしを断ち切らなければできません。なぜなら、深山幽谷に踏み入って山林を住まいとし、修行の場を求めて山野を駆け巡ったり、洞窟にこもったりしてやり遂げなければならない苦行だからです」

真魚(山林修行か・・・ッ)

 

真魚は絶望感に襲われるが、これをやりとげて生きて帰らなければ、善道尼との本当の夫婦として交わりができない。(やるしかない・・・ッ)

 

真魚は」「この秘法を通して密教に強くひきつけられてしまった。すぐにでもこの行法に没頭したい」と言い、山林にこもって禅定に身を置く覚悟を善道尼に伝えた。

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🔸4) 厳しい山林修行の旅へ(p.110~114)

 

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真魚「私の胸の中についた火は燃えさかるばかりです。この炎が、苦行に耐えさせてくれるばかりか、死の恐怖も払ってくれます」

善道尼「あなたを待って、わたくしは石になることも覚悟しております・・・」

真魚林修行をはたして必ず戻ります

 

最初に真魚の踏み入った紀伊半島の山々大和国奈良県)の葛城山紀伊山地の山々には山岳修験者をはじめ官僧や遊行の僧や私度僧、とりわけ密教系の僧が多くいた。だから決して孤独というわけではない。

 

密教系の僧侶らとの接触で確信ができたことはただ一つ、密教は釈迦の教えとはまるで違うということだった。釈迦は人間の幸福は肉体や心の欲望から離れて、解脱げだつ(悟りの境地に入ること)を得ることにあるとし、現世(この世・生きている世界)に否定的だった。

 

→だが、密教はこの世を否定せず、この世の肉体と生命を肯定し、この世で悟りや験力げんりきが得られるとしている。

 

真魚は生まれ育った郷土の四国に渡ることにした。四方を海にか囲まれた四国は、黒潮が流れているので冬も暖かく、くすの木の葉が光り輝く土地である。かつて真魚は、「日本で最初の仏像が造られたのは樟の木からです」と善道尼に教えられたことがある。そうしたことからも、四国は修行に似つかわしい土地だと真魚は思う。

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🔸5) 強烈な神秘体験 (p.114~121)

 

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真魚阿波国徳島県)の大瀧嶽
だいりょうだけに行くことにした。大瀧嶽で湧き水で喉をうるおしながら攀じ登り、山中を駆けめぐり、あるいは洞窟にこもりながら、低い声を出して真言を一日に一万遍唱えるという修行に打ち込んだ。そこを後にして、隣の土佐国高知県)の室戸崎むろとざきに行くことにした。

 

室戸崎は南海に大きく突き出ていて、標高100~200メートルに達する数段の海岸砂丘の三方が、急傾斜をなして海へ落ち込んでいる。海岸沿いは断崖か、海蝕によってできた奇岩・岩礁で、激しい波に洗われている。、、、ようやく室戸崎に出た。

 

→(やや・・・あれはッ) 空と海が一体となって迫ってくる黒い岩礁の断崖に二つの穴が開いている。近づいてみると、穴は自然にできた洞窟(御厨人窟みくろどじんくつの入り口だった。奥は深く、向かって左の洞窟は天井から地下水が滲み出ている。右の洞窟は乾いている。洞窟内から外を見ると。広大な空と海しか見えない。(ここなら、風や波、それに雨もしのげる・・・)

 

→(虚空蔵菩薩のお導きがあったのかもしれない)と感じる真魚の心に、空海」という法名が浮かぶ ー。この日から、真魚は洞窟内に座して、真言を一日一万遍唱えるという苦行の日々を送ることになる。

 

→そんなある日の夜明け ー 。谷で叫ぶこだまが返ってくるように、めくるめくような音と光とともに明星が東の空に姿を現した。明星は息を詰めて見守っている真魚に向かって飛んでくる。(あ・・・ッ)という間に明星の光に包まれたことを体験した真魚は、自分の身に起きた不思議なこと(神秘・神変の体験)を忘れずに言葉にしようとするが、できない。

 

→ただ、「谷響きを惜しまず、明星来影す」と記すことしかできなかった。かつて密教系の山林修行者たちが神秘とか神変、あるいは体験の内容について言葉で説明できなかったことが、今にしてようやく分かった。強烈な神秘体験を体感した真魚は、山林修行に一区切りついたと考え、いったん旧都・平城京に戻ることにした。

 

明星は、仏教では虚空蔵菩薩の応化おうげとされています。応化とは、仏や菩薩が衆生しゅじょう(あらゆる人々)を救うために、時機に応じた姿となって現れろこと。つまり、明星の本来の姿(本地)は虚空蔵菩薩ということで、すでにこのころ*本地垂迹が説かれていたことを示している。

 

<編注> 本地垂迹(ほんじすいじゃくせつ)

神道の八百の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現である、とする考え(Wikipedia

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🔸6) 仏教と密教の違い (p.121~124)

 

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→仏教は釈迦の入滅後、500年近く経った紀元前後頃、大乗仏教小乗仏教伝統仏教)と大きく二つに分かれた。大乗仏教は自分一人の悟りのためではなく、他者の救済を重視し、多くの人を彼岸に導く立場、利他(他者を救済すること)の立場をとっている。いっぽう小乗仏教の主な目的は、自分のための修行と釈迦の教えの注釈的な研究である。

 

→仏教集団は幾度も分裂を繰り返すが、大乗仏教の最後の仏教として登場したのが密教といわれる。つまり、密教は仏教の流派の一つなのである。その密教が現れたのには事情わけがある。

 

仏教は釈迦以来この世を苦しみと迷いの世界と見ている。だから、仏道修行によて煩悩ぼんのう(肉体や心の欲望、他者への怒り、執着など人間の心身を悩ませ迷わせるもの)から解放されて安らかな悟りの境地に入ること(解脱げだつ)を目指している。だから、古代インドのごくありふれた人々は、この世を否定するような釈迦の教えを受け入れがたかった。

 

そんな人々の望みに応えようとして密教が起こった。だから、密教はこの世で受けるさまざまの恵みを尊び、人間の煩悩を肯定した。とりわけ祈祷を重視し、そのための呪文的な言葉や儀式を整えた。そうしたことから、呪術的な面ばかりが目立ち、呪術性の強い密教雑蜜=古密教・初期密教)となった。

 

<編注1> 三密 = 密教の用語で、身蜜しんみつ(手に印契=印相を結ぶ)・口蜜くみつ(語密)(口に真言を読誦する)・意蜜いみつ(意こころ曼陀羅の諸尊を観想する)、の総称。真言宗の三密、弘法大師の教え。

 

<編注2>コロナ対策での小池百合子都知事が提唱した「三密」。私はあの時に初めて「三密」という言葉を聞き、「3つの蜜だから三密」か、としか思わなかったが、もしかして小池さんは?

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→やがてインドの雑蜜に代わる二つの新しい密教思想が別々に起こり、別々に成長した。大日経だいにちきょうに基づく密教金剛頂経こんごうちょうぎょうに基づく密教である。その両方が、7世紀になると前後して唐に伝えられ、漢訳された。この新しい密教は雑蜜を越えるものだったので、のちに純蜜と呼ばれた。

 

大日経奈良時代に日本に入っていたが、論理が複雑で難解だったことから忘れ去られ、所在さえ分からなくなった。真魚空海)に入唐にっとう(中国の唐に行くこと)を決意させる教典が、この大日経である。いっぽう金剛頂経は、入唐した真魚が持ち帰るまで日本には入ってこなかった教典である。

 

雑蜜に代わる新しい二つの密教は、この世界(宇宙)の構造(働き)と運動の体系を作りあげ、生命という具体的なものを含めて、この世界に実在するあらゆるものが、大日如来だいにちにょらいという永遠の真理をあらわす法身法身仏)のあらわれであるとしている。

 

→さらに、修法を重ねることによって大日如来と一体となることができればたちどころにこの世においてその身そのまま仏になりうるという「即身成仏」そくしんじょうぶつの考え方を示している。こうしたことから、密教は仏教の流派の一つとはいえ、釈迦以来の仏教とはまるで違うということがわかる。

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🔸7)「空と海」(そらとうみ)と「空の海」(くうのうみ) (p.124~132)

 

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土佐国室戸崎の突端の洞窟で神秘体験をした真魚は、いったん旧都・平城京に戻ることにしした。善道尼に見送られて久修練行くしゅうれんぎょうの旅に出てから足掛け2年の歳月が流れている。真魚は佐伯院に向かわず、善道尼の庵に直行した。

 

真魚深山幽谷での修行や室戸崎(岬)の突端の洞窟で経験した、怪異な自然現象や神秘体験などを話して聞かせた。また、洞窟から見えるのは水平線で区切られただけだったことを語り、だから法名空海にしたいと打ち明ける。すると善道尼は「まあ、美々しうて風情のある法名ですこと」といい、「大安寺の勤操様に引き合わせたい」。

 

大安寺は国の第一位の寺院で、八百人を僧が居住している。唐の都・長安など、海外で暮らしたことのある留学僧や海外の著名な僧(帰化・留学層を含む)が多く居住していて、仏教文化交流の中心的存在であるだけでなく、唐の最先端技術や知識の宝庫。大安寺には道慈という学問僧が唐から持ち帰ってきた密教の秘法、虚空蔵求聞持法の記された教典がある。それを勤操は受け継いでいる。

 

→その勤操ごんぞうに会うようにというのだから、真魚にとって願ってもないことである。この日、初めて真魚と顔を合わせた勤操は、真魚から直に虚空蔵求聞持法の行法を実践したときの奇々妙々な体験を聞き、真魚の知力・体力・精神力が並外れて高いことに驚く。また、空海」という法名にしたいと打ち明けられたとこには、(空海か・・・)と感心した。「空と海」からなる「空海」にはもう一つ、「くうの海」という意味が込められていると勤操はとらえたからだ。

 

真魚は勤操から直に仏の教えについて聞くことができるようになった。大安寺に自由に出入りできるようになったので、海外で暮らしたことのある留学僧やその弟子たちなど、さまざまな僧と知り合い、唐の最先端技術や知識、語学などを学ぶことができた。そこで、学問仏教といわれる南都六宗三論宗法相宗成実宗倶舎宗律宗華厳宗)をすべて一から学ぶことを決意する。

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🔸8) 南都六宗の習得 (p.132~137)

 

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→ 南都六宗すべてを学ぶことにした空海は、まず自由に出入りすることができるようになった大安寺の経蔵にこもって三論宗について学んだ。勤操が三論宗の有力な学問僧だったからだ。

 

→ 華厳経は釈迦以来の仏教からかなり離れた経典で、この世界(宇宙)のすべて(万物)の存在とその動きについて説いていた。万物は相互にその自己の中に一切の他者を含み、摂りつくし、相互に無限に関連し合い、完全に溶け合って、一切の障害がなく円を描くように回っている。この世界に存在する万物の動きは、盧舎那仏びるしゃなぶつ華厳経の本尊。全世界をあまねく照らす仏)の悟りの表現であり、内容であるという。

 

真魚は大学へは一度も足を運ばなかった。無理を押して空海を大学に入れた叔父の阿刀大足をはじめ親戚や多くの知人が、「身体が悪いというわけでもないのに、なぜ大学に戻らない。なぜ高級官吏への道を捨てるのだッ」と、仏道修行に没頭する空海を責めた。空海の両親は佐伯家の繁栄が望めなくなると失望落胆した。

 

空海 ー「私が大学で習っていたものは昔の人の滓かすであり、生きているこの瞬間にとってさえ役に立たない。死後においては、なおさらのこと。この肉体はやがて消えてしまう。真理を仰ぎ見るに越したことはない。それゆえ優婆塞うばそく(在家のままで五戒を受けて仏門に帰依した男性・勤事男ごんじなん)になろうと考えている」

 

→(肉体はやがて消えてしまう・・・死ねば。無力ではないか)と改めて思い、ついに胸にしまっておいたことを吐き出す決心をし、筆をとって、自分の思いや自分の固い意志を周囲の人々に伝えるために書き始める

 

→こうして、初めての著作『聾瞽指帰』(ろうこしいき)が書き上がる。(聾は耳の聞こえない人・瞽は目の見えない人)。この題名には、仏の教えに暗く、その教えに聞く耳を持たない者に、その教えを指し示すという意味が込められている。この書は、空海の「出家宣言」といわれる。後述するように、31歳の空海東大寺で出家・得度します。

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🔸9) 初めての著作『三教指帰(さんごうしいき) (p.138~148)

 

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空海『三教指揮』序文で、「自分は18歳で都に一つしかない大学で、自分を叱咤して勉学に励んだ」と述べている。だが、血の滲むような努力しても充足感を得ることはできなかった。仏教に関心を抱き、南都(奈良)の寺を巡り始める

 

→そして、「自分は一沙門あるしゃもんに出会い、その人は私に虚空蔵菩薩能満諸顔最勝心陀羅尼求聞持法という経典を差し出した」と述べているが、その沙門の名を空海は生涯、明かしていない。その経典に記されている虚空蔵求聞持法という秘宝を実践するため大学を飛び出し、山林修行に没頭する。

 

→「私を日毎に悩ませるのは、放埒な暮らしをする甥っ子と、仏道修行を断念させようとする人々のことだった。だから、この文章を作って三巻とし、三教指帰と名付けた」

 

→この書は、高級官吏となる道を捨てた空海の出家宣言といわれるが、出家宣言した空海は、大学の学生がくしょうから仏道修行者に転身し、以後、仏教徒の学ぶべき学問などに没頭する日々を送ることになるのだが、そんなある日、重大な転機が訪れる 。

 

空海は、『三教指帰』を書くにあたり、中国の三史史記漢書後漢書)や五経儒教の最も重要な五種の経典)、それに仏教経典、さらに通俗的な民間の類書や説話集などを活用しているそうです。そのことから、24歳の空海が並はずれの博覧強記の人だったことがわかるといわれます。

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<編集注>

本書はこの後、第四部=「出家宣言」後の日々、第五部=九死に一生をえるも不運続きの遣唐使一行、第六部=世界最大の文化都市・長安、第七部=帰国後の最澄空海天皇家、第八部=入京とその後の日々、第九部=最澄との決別、第十部=高野山 (金剛峯寺)の開創と終焉、と続きます。

 

私も苦労しながら全部読み切りましたが、ブログ<秀樹杉松>への読書メモの投稿は割愛します。(冗長、煩雑、難解となるので)

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本書の末尾の文章を少し付記します。

 

→ 八百三十五年正月八日から十四日まで、宮中の修法道場空海の率いる真言密教僧十四人による贅を尽くした華麗な修法(後の後七日御修法ごしちにちみしほ)が行われた。(略)これによって東寺は南都(奈良)の東大寺に匹敵する大寺となった。(p.459)

 

→ 以後、空海は自分の死期を察し穀味こくみ(米麦などの五穀)を断ち、水しか飲まなくなる。道教について学んでいる空海は、その教えにある辟穀へきこく(五穀を断つ)という不老不死の養生術を知っている。(p.460)

 

→その後、1ヶ月も経たない三月二十一日、空海は心に悟るところがあってにっこり笑うかのような表情を見せながら、静かに息をひきとる。享年六十二。

 

空海阿闍梨、入滅ッ」

その悲報に、山麓の政所にいる善道尼は思わず山上の天空を見上げて合掌し、時を忘れて立ち尽くすー。(p.460~461)

 

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写真:Atelier秀樹

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秀樹杉松』120巻3725号 2021.1.23  / hideki-sansho.hatenablog.com #765