秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

浪打峠(坂)と「末の松山」〜 交叉層(国指定天然記念物)と歌枕(古今和歌集、後拾遺和歌集、百人一首)で有名な国の史跡

 

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「坂研究メモ」はNo.20で終わりましたが、今回の調査研究で改めて詳しく知った「浪打峠(坂)」と「末の松山」について、書きとめることにしました。いわば、「坂研究メモ」補遺 でしょう。

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1)浪打峠(坂)

 

万治3年(1660年)の「八戸紀行」に浪打(坂・峠)の記載があり、元禄4年(1691年)の「奧羽道記」に浪打坂の記載が、元禄11年(1698年)の「奧羽永慶軍記」には波内峠の表記があるそうです(ウィキペディア ja.m.wikipedia.org による)。歴史のある峠(坂)です。

 

ネット検索すると多くの情報が出てきますが、先ずは岩手県一戸町HP (townn.ichinohe,iwate.jp)には、次のように簡潔に(そして控え目に)書かれています。

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浪打峠の交叉層国指定天然記念物

 

所在地:一戸字大越田、大道沢

指定年月日:昭和16年8月1日

浪打峠の交叉層は、奥州街道一戸宿から福岡宿の間、現在の二戸市と一戸町の境に位置しています。切通しの峠道の両側には美しい縞模様の貝殻を含む地層が露出し、波のように見えるため「浪打峠」の名がついたと考えられています。

交叉層とは、浅瀬の流動する水の中で砂が堆積する際にできる層のことです。浪打峠の交叉層は今から1500万年前、ここが浅い海だったときに堆積したものと考えられています。

古くから和歌に詠まれている陸奥の名所「末の松山」は、宮城県多賀城市の「末の松山」が第一の候補とされますが、一戸町の浪打峠を候補とする説もあります。そのため、明治天皇が巡幸された際には陸奥の名所「末の松山」の地として野点に選ばれました。

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2)末の松山

 

「末の松山」を知ってる方もおられるでしょうが、初めての方もいらっしゃる?

ネット情報「コトバンク」(kotobank.jp)には、以下のように出てきます。

『精選版 日本国語大辞典』の「末の松山」解説

 

(一)陸奥国にあった地名宮城県多賀城市八幡の宝国寺背後の丘陵地呼称とも、岩手県二戸郡一戸町二戸市とのにある浪打峠のことともいわれる。歌枕

 

古今(905‐914)二〇・東歌・一〇九三

きみをおきて あだし心を わがもたば すゑのまつ山 浪もこえなん(みちのくうた)」

 

拾遺(1086)恋四・七七〇

契りきな かたみに袖を しぼりつつ すゑの松山 浪こさじとは清原元輔〉」 

 

(二)謡曲。四番目物。廃曲。作者不詳。

都の貧しい夫婦が長旅の末、奥州末の松山で、二人の契りはあの松山を波が越えるまで変わらないと誓うが、翌日見ると波が山を越えていたので、二人の契りもこれまでと別れる。のち、夫はこの末の松山で心乱れてさまよっている妻に再会する。

 

[補注](一)の挙例の「古今」を踏まえ、末の松山を波が越すことなどありえないので、それを証として恋心の不変を誓うと詠まれる。

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<編註>

 

(一)の「古今」「後拾遺」の歌と、(二)の「謡曲」をあわせ読むと、よく理解できますね!

 

「末の松山」は、岩手県一戸町と宮城県多賀城市の両説があるそうです。

岩手県一戸町の広報 (http://townn.ichinohe,iwate.jp)には

 

宮城県多賀城市の『末の松山』が第一の候補とされますが、一戸町の浪打峠を候補とする説もあります」と書かれていています。「我が一戸の浪打峠こそ!」と我田引水してもおかしくないが、客観的に記述されていますね!

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ちなみに、宮城県多賀城市のHP(city.tagajo.miyagi.jp)には、以下のように書かれています(写真も)。

末の松山

 

ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつ山 なみこさじとは

清原元輔(後拾遺和歌集

 

宝国寺の裏手、2本の松がそびえる丘が末の松山です。最古の勅撰和歌集である古今和歌集(延喜5=905年成立)に初めて登場し、以後みちのくを代表する歌枕として、多くの歌に詠まれました。

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末の松山の写真

宮城県多賀城市のHPhttp:// city.tagajo.miyagi.jpより)

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<編注2>

末の松山は、多賀城市八幡の独立小丘陵にある景勝地。2014年10月6日より「おくのほそ道の風景地」の一つとして、国の名勝にも指定された。

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<編注3>

NIKKEI STYLEstyle .nikkei.com歴史博士(エンタメ!)には、次のように書かれています。

「末の松山浪こさじ」

百人一首に残る1100年前の大津波の秘密

 

契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは

約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように、2人の愛も変わらないと。それなのに

 

子供の頃から慣れ親しんできた「百人一首」。だが、その成り立ちから1句1句に至るまでナゾも少なくない。変わらぬ恋心を暗示する「末の松山浪こさじ」もその1つ。平安初期、東北で起きた巨大地震貞観地震(1869)の記憶が刻み込まれているという。

 

百人一首42番作者は清少納言の父、清原元輔(908〜990)だ。(中略)

「末の松山浪こさじ」は、陸奥を代表する格調高い歌枕として百人一首ばかりでなく、古今和歌集西行法師、藤原定家ら多くの歌人に詠まれてきた。

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<編注4>

末松山:<まっしょうざん>と読む。多賀城市松山宝石寺の裏に小山を作った。ここには、連理の枝を模した相生の松があった。これは、また男女の恋・愛欲などを象徴する。なおこの地には、本の松山・中の松山・末の松山と三つの松山があったという。

山梨県立大学HP yamanashi-ken.ac.jp

 

『秀樹杉松』124巻3809号 2021.7.26/ hideki-sansho.hatenablog.com #849