東北・岩手が生んだ ”平民宰相” 原 敬 = 第19代内閣総理大臣、立憲政友会総裁 ~ 今年は100回忌です。
「政党政治の礎を築いた平民宰相 原 敬」 原 敬100回忌記念フレーム切手
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前号では、東北への蔑称「白河以北一山三文」を取り上げ、1)仙台の『河北新報』の題号が「白河以北」に由来していること。2)旧盛岡藩出身の平民宰相原敬の号「一山」が「一山三文」に因んでいることを紹介しました。
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今回は、ことし100回忌を迎えた「原 敬」をとり上げます。
原敬が「一山」と号したのは古くから知ってましたが、「白河以北一山三文」の「一山」に由来すると知ったのは後年です。
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◉ウィキペディア( ja.wikipedia.org)によれば、
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原敬(はらたかし=1856年安政3年~1921年大正10年)は、日本の外交官、政治家。「はらけい」と音読みが用いられるケースもある。(原敬記念館、「原敬日記」など)。号は一山、逸山(いつざん)。
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外務次官、大阪毎日新聞社社長、立憲政友会幹事長、逓信大臣(第11・16代)、衆院議員、内務大臣(第25・27・29代)、立憲政友会総裁、内閣総理大臣(第19代)、司法大臣(第22代)などを歴任。
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大正7年(1918年)に総理大臣に就任。戦前期日本の貴族制度であった華族の爵位の拝受を固辞し続けたため、「平民宰相」と渾名された。
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◉「近代日本人の肖像」(国立国会図書館 ndl.go.jp) には。こうあります。
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原 敬 (はらたかし 1856-1921)
大正3年 (1914) 第3代立憲政友会総裁。7年首相となり、初の本格的政党内閣結成するが、10年東京駅で暗殺された。
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原敬100回忌記念行事が開催されました。
○第100回原敬忌追悼会(11/4)
○原敬の精神、継承を誓う 盛岡で100回忌記念の集い(11/6)
○「平民宰相」100回忌記念の集い(テレビ岩手)
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◉「政党政治の礎を築いた平民宰相 原 敬」
100回忌記念フレーム切手(1330円)が発売されています。
(郵便局 shop.post.japanpost.jp)
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◉盛岡市HP(city.morioka.iwate.jp)の情報をお伝えします。
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<もっと知りたくなる原 敬>
ハラケイ?ハラタカシ? どっちが本当?
「原敬の読み方は、「ハラケイ」と「ハラタカシ」のどちらが正しいのか知ってますか?
実はどちらも間違いではなく、「ハラタカシ」は本名、「ハラケイ」は愛称です。原が総理大臣として活躍していた頃、盛岡の人たちは、親しみを込めて「ハラケイさん」と呼びました。
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現在、原敬の史料を保存・展示している「原 敬(ハラケイ)記念館」と、原が46年間書き綴った「原 敬(ハラケイ)日記」は「ハラケイ」の読み方を名称にしていますが、これ以外は「ハラタカシ」と読みます。
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日本における政党政治100年の原点 本格的な政党内閣を初めて実現させたのは原敬です。それまでは、薩摩藩や長州藩の出身者などで占められた内閣でしたが、出自に関係なく国民に選挙で選ばれた政治家が、3年の長期にわたり国政を担ったのは、原内閣が初めて。
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貴族階級の証しである「爵位」を持たない初の総理のため、「平民宰相」として国民に親しまれました。東北はもちろん、東日本出身者で初の総理でもありました。
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全国各地で鉄道敷設や港湾整備を進め、地方の経済発展を目指しました。また教育改革として高等教育機関を充実させ、人材育成にも力を注ぎました。早稲田や慶應など有名な私立大学が大学に昇格したのも、この時です。
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外交では、自国の利益を優先して軍事力で他国へ侵出するのではなく、特に米国との関係を重視 した国際協調外交を展開しました 。 これは戦後の日本が採った外交方針の原型になったといわれています。
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しかし、当時はこれを「弱腰外交」と批判する声もあり、暗殺の一要因になったとする見方もあります。
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』126巻3850号 2021.11.16/ hideki-sansho.hatenablog.com #890