秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

「峠の研究」(2) 〜 司馬遼太郎著『峠』を読む /  別所広司主演 で映画化 ~「峠  最後のサムライ」

 

 

本ブログ『秀樹杉松』2/19号の「峠の研究において、司馬遼太郎の小説『峠』も紹介しました。これが縁で今回、

司馬さんの『峠』(新潮文庫3巻)を読み始めました。どうやら大作のようで、映画化もされています(コロナ等で公開は延期されて、2022年公開予定)。

 

本書の内容は割愛しますが、◉解説(亀井俊介、◉著者「あとがき」の一部を紹介します。『峠』という◉書名の由来を「Y! 知恵袋」から引用します。また、岡山市HPも引用しました。

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<解説>亀井俊介

 

『峠』は昭和41年11月から43年5月まで、約1年半にわたって「毎日新聞」に掲載された。司馬遼太郎新聞小説としては、『竜馬がゆく』が完成してからほぼ半年後に書き始められた作品で、これが終わるとほとんど同時に、次の『坂の上の雲』が始まっている。(本書下巻p.437)

 

○この作品は、『竜馬がゆく』で司馬氏が掘りあてた歴史小説の鉱脈を掘り進みながら、やがて『坂の上の雲』で掘り当てるまたあらたな鉱脈への接近も示している。さまざまな意味で、興味深い問題作である。『竜馬がゆく』までは、氏の大作はどちらかといえば大衆の英雄織田信長羽柴秀吉坂本竜馬土方歳三)であった。(同上p.437)

 

○ところが、『峠』において、司馬遼太郎幕末維新の一種特異な英雄を取り上げたのである。河合継之助という名をこの小説によって初めて知った読者も少なくないのではなかろうか。彼は維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも敗者になった側の越後長岡藩の執政で、おまけに中途戦死して、後世への功績というべきほどのものはあとかたも残していない人物なのだ。(同上p.438)

 

○しかし、維新史好きの人のあいだでは、北越戦争が維新の内乱中最も激烈な戦争であったことと共に、その激烈さを事実上ひとりで引き起こした河合継之助の名はよく知られていた。畏怖、畏敬の念も持たれてきた。司馬氏は、こういう玄人の英雄ともいうべき人物を、長編の主人公に仕立てたのであった。(同上p.438)

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あとがき

 ―― 「峠」を終えて――  司馬遼太郎

 

ひとの死もさまざまあるが、河合継之助というひとは、その死にあたって自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって終夜それを見つづけていたという。自分というものの生と死をこれほど客体として処理し得た人物も稀であろう。身についたよほどの哲学がなければこうはできない。(本書下巻p.432)

 

幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶の見事さにおいて、人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。(同上p.433)

 

サムライという日本語が幕末期からいまなお世界語でありつづけているというのは、彼らが両刀を帯びてチャンバラをするからだけでなく、類型のない美的人間ということで世界が珍しがったのであろう。(同上p.433)

 

私はこの「峠」において

侍とはなにかということを考えることが目的で書いた。その典型を越後長岡藩の非門閥家老河合継之助に求めたことは、書き終えてからもまちがっていなかったと密かに自負している。(同上p.434)

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映画化 /「峠 最後のサムライ」

 監督:小泉堯史、キャスト:別所広司、松たか子香川京子仲代達矢etc.、配給:松竹

 

○累計約284万部超の大ベストセラー、司馬遼太郎の名著「峠」が初映像化幕末の動乱期を駆け抜けた”最後のサムライ”河合継之助を、名匠・小泉堯史が描く歴史超大作 2022年公開

松竹 shouchiku.co.jp

 

○本作は、司馬遼太郎の小説『峠」を役所主演で映画化するもの。原作の『峠』は、司馬が幕末の風雲児と呼ばれた越後長岡藩家老・河合継之助を描いた作品で、1966年~68年『毎日新聞』に連載、現在までに多数重版され、ベストセラーとなっている。なお、『峠』の映像化は本作が初となる。

Real Sound : realsound,jp

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『峠』というタイトル

 

読み始める前に、この小説のタイトル『峠』が気になった。なぜ「峠」なのか。早速、スマホで、「司馬遼太郎作品の『峠』のタイトルの由来は?」と入力したら、次のような返答が即座に表示された。(便利な世の中になったもんですね!)

作品の冒頭で主人公の河合継之助が雪の碓氷峠を越え、雪国は不利だと感じるシーンから始まります。この苦難の峠越えが、その後の継之助の生涯を象徴しており、そこからタイトルがとられていると思います」

Y! 知恵袋detail.chiebukuro.co,jpベストアンサー

 

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幕末の風雲児 河合継之助岡山市HP (city.okayama.jp)

 

河合継之助は文政10年(1827)長岡藩の城下に生まれた。子供のころは我慢強く肝がすわり腕白もので、負けず嫌いであったという。藩中の名だたる師匠に学問や剣術、弓術、馬術などを習ったが、流儀や形式を嫌い、師たちを困らせた

 

○やがて藩校に学ぶが、それに飽き足らず、26歳で江戸に遊学。斎藤摂堂、古賀茶渓、佐久間象山らに入門して学んだ。安政6年には藩政改革に役立つ経済有用の学問を修めるため、備中松山藩 (岡山県高梁市)の山田方谷に学んだ。

 

○元治元年(1864)には、御用人となり、その後、外様吟味役、郡奉行、年寄役、家老本職、家老上席と昇進し、藩政改革に尽力していった。

(長岡ミニ歴史館 

 

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『秀樹杉松』128巻3897号(BLOG No.937)/ 2022.2.28