峠の研究(4)『日本5大峠』の提唱 = 碓氷峠・雁坂峠・三伏峠・夏沢峠・針ノ木峠 〜「碓氷峠」に光を!
本号『峠の研究』(4)では、前号の「日本三大峠」を別の観点から取り上げます。針ノ木峠と雁坂峠に三伏峠と夏沢峠を加えると「四大峠」になるからです。
そこで私は、下記のいずれかにしたらどうかと考えました。
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イ)むりやり「三大峠」とせずに、いっそのこと「4大峠」としたらどうか。
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これには異論が出るかもしれません。「数字の4は馴染まない」など。
ロ)それなら一つ加えて、「5大峠」とすることを思考するに至りました。
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◎ 碓氷峠、○雁坂峠、○三伏峠、○夏沢峠、○針ノ木峠 <五十音順>
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◉「日本5大峠」の提唱 ~ 「碓氷峠」(うすいとうげ) に光を当てる!
「碓氷峠」は歴史のある、重要かつ有名な峠です。これに光を当て、碓氷峠を含む「日本5大峠」を新たにおこすことを提唱します。
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○碓氷峠 ○雁坂峠 ○三伏峠 ○夏沢峠 ○針ノ木峠 <五十音順>
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以下、「ウィキペディア(ja.m.wikipedia)碓氷峠」の部分引用)によって、「碓氷峠」を紹介します。私自身、非常に勉強になりました。自信をもって「日本5大峠」に推薦・提案します。
(なおいつもながら、Wikipediaさんの情報提供に感謝を申し上げます)
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○碓氷峠は群馬県安中市と長野県軽井沢町との境にある峠。信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺。古代には碓氷坂(うすひのさか)、宇須比坂、碓日坂などといい、中世には臼井峠、臼居峠とも表記された。近世以降は碓氷峠で統一されている。
○箱根峠とともに、関東地方と中日本を分つ峠であり、気象学的にも、碓氷峠は関東地方と中部地方の境界にあたる。古代から坂東と信濃国を繋ぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。この碓氷峠および駿河・相模国境の足柄峠より東の地域を坂東と呼んだ。
○『日本書紀』景行記には、日本武尊が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘媛をしのんで「吾妻(あずま)はや」とうたったとある。なお『古事記』ではこれが足柄峠だったとされ、どちらが正しいかという論争が存在する。
○永禄4年に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に、武田信玄が笛吹峠に出陣し、信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行い、永禄9年には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した。天正18年の小田原征伐の際、豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている。
○江戸時代には中山道が五街道の一つとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国や北陸都を結ぶ重要な場所と位置付けられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取り締まりが行われた。
○碓氷峠は中山道有数の難所であったため、幕末の文久元年に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に、一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。明治に入ってもその重要性は変わらず、人々や物資の往来は続いた。1878年、明治天皇の北陸道・東海道巡行では、天皇は徒歩にて峠を通過している。
○1971年に国道18号のバイパスである有料道路の碓氷バイパス(入山峠を通る、かつての古東山道のルート)が開通した。碓氷バイパスは2001年から無料化され、かつての中山道はハイキングコースとして整備された。
《伝承・詩歌・作品など》
○古代では頼光四天王の一人、碓氷貞光が有名であり、先祖が勅勘によって配流され碓氷峠に隠棲していたといわれる。中世から近世にかけては、「灘の佐太夫」の話が伝わっている。
○近代に入ると多くの文学者が訪れ、正岡子規は1891年の『かけはしの記』の中で、碓氷峠を馬車鉄道で越えた時の様子を描いている。大正時代には、北原白秋が『碓氷の春』という一連の和歌を詠んでおり、その一首を刻んだ歌碑が横川駅下のドライブインに存在する。
○また、頂上の熊野神社の境内には、山口誓子や杉浦翠子が碓氷峠を詠んだ俳句の碑がある。西条八十の詩・『ぼくの帽子』の冒頭には碓氷峠が登場し、森村誠一の『人間の証明』はそれを引用している。上毛かるたの「う」の札には「碓氷峠の 関所跡」である。
~以上、「ウィキペディア」 ja.m.wikipedia.org 「碓氷峠」より
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上記のウィキペディア情報に加え、群馬県観光協会HP「ググッと群馬 (gunma-dc.net)」と、「廃線ウオーク haisen-walk.com」(編注=25年前に廃線となった横川ー軽井沢)情報も紹介します。
《碓氷峠(めがね橋)》
○横川ー軽井沢間にある碓氷第三橋梁(明治26年開業)は通称「めがね橋」と呼ばれています。アプト式鉄道時代の名残で、日本最大のレンガ造りの橋です。その美しさと高い芸術性で多くの人を魅了してきました。国指定重要文化財に指定、保存されています。
~以上、ググッと群馬(gunma-dc.net)観光情報
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《「碓氷線」立ち入り禁止の鉄路を往く~過去と未来を繋ぐ「廃線ウオーク」~》
○横川(群馬県)と軽井沢(長野県)を繋ぐ 碓氷峠。江戸時代には旧中山道の難所として知られていた山越も、現在は薄いバイパス、高速道路、新幹線といった交通網が整い、往来もたやすくなりました。
○実はそんな厳しい峠を明治から平成にかけて100年以上もの間、鉄道が運行していた。碓氷峠を超えることから「碓氷線」と呼ばれたその路線は「信越本線新線」の横川~軽井沢間を繋ぐ鉄路で、1997年9月30日を最後に廃線となった。
○今回、鉄道遺産群として保存され、通常は立ち入ることのできないその廃線跡を、ガイドさんとともに歩くイベント「廃線ウオーク」に参加してきた。
~以上、「ググッと群馬(gunma-dc.net)」より
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《廃線ウオークとは》
○1997年9月30日に最終運行となり、別れを告げた信越本線新線 横川ー軽井沢区間。列車に乗って峠を越えたことがある方も、映像や写真でしか見たかことがない方も、楽しんでいただけるようにガイドがご案内します。写真撮影の時間もたきさんあります。ゆっくりお楽しみいただけるように行程を設定しています。
○この場所に興味をもってくれたり、参加してくれていることで、「生きた廃線」としての新しい価値・魅力が生まれています。廃線になって眠っていた鉄道設備に再び光が灯ります。お好きな季節にお越しください。お待ちしております。
~以上、「廃線ウオーク haisen-walk.com」より
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《信越本線の歴史》
○信越本線の横川(群馬県)ー軽井沢(長野県)間11.2kmは、明治26年(1893)に僅か1年半の工事期間で開通しました。すでに明治18年(1885)に高崎ー横川、明治21年(1888)年には直江津(新潟県)ー軽井沢間が開通していたので、東京と群馬・長野・新潟が直結されました。
○横川ー軽井沢間の開通で、当時最大の輸出商品であった生糸を長野県・群馬県から東京や横浜まで大量に輸送し、ヨーロッパなどに輸出し外貨獲得に貢献しました。
○平成5年(1993)にこれら日本の近代に大きく貢献した価値が認められ、『碓氷峠鉄道敷設』が日本初の近代化遺産として国重要文化財に指定されました。
しかし、平成9年(1997)9月、長野 (北陸)新幹線開通に伴い廃線になり、信越本線の104年間が終わりました。
~以上、「廃線ウオーク haisen-walk.com」より
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『秀樹杉松』128巻3899号 (BLOG No.939) / 2022.3.6