『秀樹杉松』の「峠の研究」は (1)~(5)で完結しましたが、補遺として、本稿「北越戦争と河合継之助」をお届けします。
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~越後長岡 河井継之助記念館 tsuginosuke.net 【稲川通信】より
○長岡城から南へ約四里。三国街道第二位の難所榎峠(えのきとうげ)があった。一位の三国峠が険阻であるとするならば、榎峠は街道の西側の断崖が、真下の深い信濃川の坩堝(るつぼ)を見下す恐怖にあった。その凄まじさに旅人の足がすくんだ難所であった。
○初期の北越戊辰戦争は、そういった難所や高地を占領し、敵方を威圧することにあったから、小千谷談判後、やすやすと西軍は上田藩兵を派遣して榎峠を占領している。榎峠は長岡藩領の南端の要塞であった。
○継乃助が奧羽諸藩と共に西軍と戦うことを決意。軍議で速やかな榎峠の奪還を提案し、翌十日に総軍を率い攻撃することが決まった。五月十日先制攻撃攻撃により榎峠を奪還。翌十一日朝日山戦となった。
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峠 最後のサムライ
未来のために、生きる。2022年公開予定
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~新潟県HP pref.niigata.llg.jpより
○京での戦いに勝利を収め、江戸城を無血開城させた新政府軍は、反抗勢力を制圧しようと各地へ軍隊を送った。戦火が関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戦争」と呼ばれる激しい戦いがあった。
○特に軍事総督、河合継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3ヶ月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
○北越戊辰戦争ゆかりの地は、司馬遼太郎氏が河合継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
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3)榎峠古戦場パーク
~ニッポン旅マガジン tabi-mag.jp より
○新潟県長岡市南端の旧国道17号沿い、妙見堰近くにあり、小千谷市とも接するのが榎峠(えのきとうげ)。明治元年・慶応4年の北越戊辰戦争時、新政府軍と長岡藩軍(奥羽越列藩同盟)の攻防戦がが行われた激戦地。榎峠古戦場パークとして整備された。
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4) 河合継乃助の末期
~司馬遼太郎『峠』(新潮文庫)下巻 p.430-431 より
○「松蔵や」と、継乃助はかつてない優しさで顔を向けた。「長々、ありがたかったでや」と、厄介をかけてきた礼をいった。松蔵はおどろき、いつの間にか縁側に飛び上がって平伏していた。
「どうやら、わしは死ぬ」
○ところが、継之助の意識はこの期になっても氷のように冴えていた。官軍はすでに新発田に本営を移し、各地で会津軍を押しつつ津川口にまで迫っている。「もうおっつけ官軍が来る。それまでにわしは自分の始末をつけねばならぬ。わしが死ねば死骸は埋めるな。時を移さず火にせよ」といった。「急ぐ」と言いかさね、「いますぐ、棺の支度をせよ。焼くための薪を積み上げよ」と命じた。
○松蔵はおどろき、泣きながら希(のぞみ)をお待ちくだされとわめいたが、継之助はいつものこの男にもどり、するどく一喝した。「主命である。俺がここで見ている」
松蔵はやむなくこの矢沢家の庭さきを借り、継乃助の監視のもとに棺を作らざるを得なくなった。
○松蔵は作業する足もとで明かりのための火を燃やしている。薪にしめりをふくんでいるのか、闇に重い煙がしらじらとあがり、流れず、風はなかった。「松蔵、火を熾(さか)んにせよ」と、継乃助は一度だけ、声をもらした。そのあと目を据え、やがては自分を焼くであろう闇の中の火を見つめ続けた。
○夜半、風が起こった。八月十六日午後八時、死去。
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『秀樹杉松』129巻3901号 2022.3.13/ hideki-sansho.hatenablog.com No.941