秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

「Study 源義経」No.1 ~ 義経についての本格的・総合的なStudyシリーズのスタートです。

 

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桜満開!

 

司馬遼太郎さんの『義経を読んで、もともと好感を持っていた源義経を、本格的・総合的に勉強してみようかと思い立ち、本ブログ『秀樹杉松』に

「Study源義経を書くことにしました。調査・研究となると、以前なら専門書を紐解くことでしたが、今では数多のネット情報が張り巡らされています。

 

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』で「源義経」を検索したら、膨大かつ詳細な諸情報が出てきました.。Wikipediaja.m.wikipedia)は普段から使っている信頼のおけるネット情報なので、今回の義経Studyのテキストに採用することにしました。ですから、Wikipediaで学ぶ源義経といってもいいでしょう。

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因みに、源義経を知らない人は多くないと思いますが、実際はどうでしょうか。今から863年前に生まれ、本稿で詳しく紹介するような苦難の末自決したのですが、享年は31なそうです。そういえば、シューベルトは31歳、ショパンは39歳と短命でした。私は、3人とも「天才」だと思っています。

 

義経は平泉で死んだことになっているが、実際は生きていたという義経生存説」などは次号以下に出てきますが、私はこれまで「まさかそんなことはない」と100%思ってましたが、今回のstudyで”半信半疑”?の心境です。どうぞ、お楽しみにしてください!

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このNo.1は、いわば序論・総論と言ってもいいでしょう。お気軽にお読みいただければ嬉しいです。なお、本studyシリーズは、全面的にネット情報ウィキペディアWikipedia」(ja.m.wikipedia) に依っています

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生涯

 ○義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するまでの9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、不明な点が多い。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である吾妻鏡に短く記された記録と、平家物語源平盛衰記の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である義経記などによるものである。

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誕生

 ○清和源氏の流れを汲む河内源氏の九男として生まれ、牛若丸と名付けられる。11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った。遮那王僧侶になることを拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主で鎮守府将軍藤原秀郷を頼って平泉に下った

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治承・寿永の乱

 ○治承4年(1180年)に兄・頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた義経富士川の戦いで勝利した頼朝と涙の対面を果たす。寿永2年(1183年)木曾義仲平氏を都落に追い込み、入京する。

 

 ○一ノ谷の戦い義経は精兵70騎を率いて、鵯越(ひよどりごえ)の峻険な崖から逆落としをかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった。上洛の際名前を知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって、歴史上の表舞台に登場することになる。

 

 ○元暦2年(1185年)新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、讃岐国瀬戸内海にある平氏の拠点屋島を奇襲し、山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた。(屋島の戦い

 

 ○範頼も九州へ渡ることに成功。義経は水軍を編成して彦島へ向かい、壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。宿願を果たした義経法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大成功をなした立役者として、平氏から取り戻した鏡爾を奉じて京都に凱旋

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頼朝との対立

 ○平氏を滅ぼした後、義朝は兄・頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。平氏追討で義経補佐を務めた梶原景時から、「義時はしきりに追討の功を自分一人のものとしている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛、清宗親子を護送して京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。

 

 ○しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみ鎌倉に入れた。このとき鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)の満福寺に義経は留め置かれた。頼朝に対し自分が叛意のないことを示し、頼朝の側近大江広元に託した書状が腰越状(こしごえじょう)である。

 

 ○義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に遣わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行でことを進めたことなど、自専の振る舞いが目立ったことによるとしている。そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士たちの人心を集めることは武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった。

 

 ○結局、義経は鎌倉へ入ることを許されず、頼朝が義経に対し宗盛親子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東において怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。

 

 ○このような最中にいわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく、梶原景時の嫡男・景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父・源行家追討を要請した。義経が憔悴した体であらわれ、自身が病にあることと行家が同じ源氏であることを理由に断った

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謀反(むほん)

 ○義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は、義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。

 

 ○義経は捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を掲げた後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得た。その後今度は義経追討の院宣を出した。頼朝が義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。

 

 ○義経は郎党や愛妾の白拍子静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。そうした中、諱を義経から義行と改名させられ、さらに義顕と改名させられた。京にいられなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』によると義経は追補の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。

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最期

 ○藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を諸軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて圧力をかけた。泰衡に義経を征伐させることで二人の間に楔を打ち込み、険悪な関係を発生させ、奥州の弱体化を図ろうとしたのである。

 

 ○この時期、義経と泰衡の間にどのような駆け引き、葛藤があったのかは、今となっては知る由もない。しかし結果として泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り500騎の兵をもって、10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った(衣川の戦い)義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。

 

 館を平泉の塀に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に籠りまず正妻の静御前と4歳の女子を殺害した後自害して果てた。享年31であった

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死後

 ○義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃(ひつ)に収められ、43日間かけて鎌倉に送られた。首実験が和田義盛梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。

 

 ○頼朝義経奥州藤原氏の怨念を鎮めるため鎌倉に永福寺を建立したが、現在は廃寺となっている。この寺をめぐっては『吾妻鏡』に左親衛(北条時頼)が「頼朝は自らの宿意で義経を討ったもので、彼らは朝敵ではない」として永福寺の修復を急かす悪夢を見たことが記されており、少なくとも『吾妻鏡』が編纂された頃には、義経の名誉が回復されていたことを示している。

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小惑星」(3178) Yoshitune は、義経の名前に因んで命名された。

 

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』129巻3904号 2022.3.26 hideki-sansho.hatenablog.com No.944