前号で「3月27日、桜満開の上野公園へ行ってきた」と書きましたが、実は浅草の隅田公園・隅田川の花見に出かけた筈が、「間違えて上野で下車してしまった」のでした。
さて、義経Studyも3回目に入りました。本号は「判官贔屓」という難しい漢字の登場です。「判官」はともかく、「贔屓」は読めなくて書けない! 判官贔屓 (ほうがんびいき)は、義経論のいわば”通奏低音”みたいなものなので、今回のNo.3で取り上げまず。
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◉ 判官 (ほうがん)とは?
○判官とは四等官制において第三位目の職を指す言葉であり、義経が任じられた左衛門少尉が衛門府の、検非違使少尉が検非違使の第三位の職にあたるためこう呼ばれる。通常は「はんがん」だが『義経』の伝説や歌舞伎などでは「ほうがん」と読む。
<九郎判官(くろうほうがん)>
源義経のこと。義経の輩行名(仮名)で義朝の九男だったことによる。
◉ 贔屓 (ひいき) とは?
○自分の気に入った者を人並み以上にかわいがること。後援すること。また、そうする人。
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<編注>
以下のネット情報は ウィキペディア Wikipedia」(ja.m.wikipedia)からです。
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○頼朝・幕府による「義経捕縛」の命が全国に伝わると、義経は難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃した。
○その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓 (ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。
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◉ 判官贔屓(ほうがんびいき)
○第一義には、人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や愛惜の心情のこと。さらには、「弱い立場に置かれているものに対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。
「判官」の読みは通常「はんがん」だが、『義経』の伝説や歌舞伎などでは伝統的に「ほうがん」と読む。
○義経は藤原秀衡を頼って奥州へ逃亡したが、秀衡の没後、頼朝の圧力に屈した秀衡の子泰衡によって自害に追いやられた。このような義経の末路は、人々の間に「あんなすばらしい方がこのようになってしまって、なんて人生は不条理なものだろう」という共感を呼び起こし、同情や哀惜を誘った。
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○歴史学者の上横手雅敬は、「義経がいじめられた」ことこそ判官贔屓成立の根源であり、具体的には、義経の専横ぶりを訴えた梶原景時や、義経追討の命を下した源頼朝という悪玉を「不可欠の前提」としているのだと述べている。
○上横手は、『吾妻鏡』が鎌倉幕府によって編纂された史書であるにも関わらず、頼朝や梶原の厳しさや冷酷さ、悪辣さを最も強烈に描き、一方で義経に対し同情的な記述すら置いていると指摘。、、、。
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◉文芸作品における判官贔屓
○義経を描いた文芸作品は、「氾濫」と評されるほど数多く生み出されている。義経を「血の通った英雄」にしたと評される『平家物語』や『源平盛衰記』を経て、「最初の義経一代記」といわれる軍記物語『義経記』が成立したのは室町時代のことであった。、、、
○義経に「至れり尽くせりの英雄として国民的な偶像化」を施し、歴史的な英雄から国民的な英雄へと転換させ、もって判官贔屓を主題化した。『義経記』は「判官もの」と呼ばれる御伽草子、謡曲、狂言、舞曲、歌舞伎、浄瑠璃などの作品群の大本となった。
○「判官もの」においては、「『義経記』に大成された新しい統一理念像のようなものが、思い思いの個別的英雄像に分解して」いき、その過程で理想の英雄、讃仰の対象たる義経像が作り出され、英雄崇拝としての判官贔屓が具体化した。
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○義経の死については、その直後からこれを否定する噂が人々の間に流れ、そこから義経が蝦夷地(北海道)、さらに中国大陸へと逃れチンギス・カンとなったとする伝説が生まれた。
○このような伝説は今日では、義経を死なせたくないという後世の人々の判官贔屓が生み出したものであり、「鎖国になってからの江戸人の夢物語」、「英雄の末路の悲惨なのに同情した結果、誰かが、いつか、どこかで作り出した想像にすぎない」などと否定されている。
○義経が北海道へ逃れたとする伝説のきっかけとなったのは、1670年(寛文10年)成立の林春斎『続本朝通鑑』であるが、同書の成立時期は蝦夷地に対する日本人の関心が高まった時期にあたる。
○また、中国大陸へ逃れた義経がチンギス・カンになったとする伝説は、明治時代に内田弥八訳述『義経再興記』(1885年:明治18年成立)をきっかけとして成立したものであるが、同書の成立時期は日本が中国大陸への進出を企図していた時期にあたる。
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』129巻3906号 2022.3.30 hideki-sansho.hatenablog.com No.946