秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

自分史 Review 1) 子供の頃の想い出 ①

 

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「子供の頃の想い出」~再録(抄)

 

16年前に70歳の誕生日(古希)を迎え、自分史を書いてみようかと思い立ち、「子供の頃の想い出」を執筆しました。「ブログに載せてほしい」との要望もあり、全文ではなく「抄」を紹介することにしました。お読みいただければ、幸いです。

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子供の頃の想い出

 

<はじめに>

 

 ○世間では「自分史」がはやっているようだ。もとより小生には、記したり語ったりするほどの格別な歴史はない。それに、半生を顧みるのはまだ早い。だが、“古稀”は人生の一つの区切りであることも確かだ。これを機会に、懐かしい子供の頃を想い起こし、忘れられない故郷を回想してみた。それを簡単な文章にまとめたのが、この『子供の頃の想い出 』 である。

 

 ○子供の頃といっても、覚えているのは国民学校(小学校)へ入学する1年ぐらい前からで、それ以前の記憶はほとんどない。そこで、今でも記憶に残っている子供時代、すなわち「国民学校入学1年前から中学校3年に盛岡に転校するまで」の約10年の生活を振り返ってみることにした。

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 ○小生のこれまでの人生にも、人並みにいろいろなことがあった。その中でも、故郷で過ごした子供の頃の想い出は、いつまでも消えないのみか、昨日のように甦る。

 

 

第一部【生まれ育った、子供時代の特徴】

 

 ○自分の生まれ育った子供時代は、次のような特徴があったように思う。

  ①土地柄---ー東北・岩手の山村(寒村)。

  ②時代背景---戦争中と敗戦直後の両体験。

  ③教育環境--「国民学校」(分教場)入学、「小学校」に独立改称。新制中学校へ入学。

 

<土地柄>

 ○昭和11年に四男(事実上は三男)として生まれた。“日本のチベット”とも言われる岩手の山村だ。自分が生まれ育った場所は、10数戸しかない小さな集落(当時は“部落”と言った)で、典型的な寒村といえるだろう。「田舎育ち」が小生の考え方や生き方に影響している。

 

 ○東京には日本各地から多くの人が集まっている。何かの折りに、出身はどちらですかと尋ねられる。小生は「東北です」と答えることが多く、最初から「岩手県です」と何故か言わないような気がする。“日本のチベット”生まれというコンプレックスがあるのかも知れない。

 

 薩長藩閥政府が権力を握って、奥羽列強を相手に「戊辰戦争」をしかけたことは知られている。会津藩の最後の抵抗も空しく、東北勢は敗れた。勝ち誇った薩長は東北地方をバカにして、「一山三文」と蔑んだ。薩長連合の明治新政府は、自分たちの仲間だけで権力をたらい回しで維持した。

 

 ○薩長に負けてたまるかとの思いが、小生の心の中に長年居座り続けたような気がする。就職してからも、関西人に対する意識は何となく持ち続けた思いがする。

 

<時代背景>

 「戦争」の時代

 ○5歳の昭和16年12月8日に太平洋戦争が勃発し、9歳(国民学校3年生)の昭和20年8月15日に敗戦となった。物心ついてから国民学校3年生の夏まで「戦争の時代」を経験し、徹底した「軍国主義」教育を受けた。

 

 ○この悲しくも「狂った時代」に子供の頃を過ごした小生たちの気持は、「戦争を知らない」世代には分かって貰えないだろう。この生まれた時代の特徴が、小生らの一生を決めてしまったとも言える。

 

 ○終戦前は農村には未だ迷信・封建主義が残っており、このための悲劇も体験した。別途記述する「イズナ事件」は、絶対わすれられない苦い想い出である。

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 「平和と民主主義」の時代

 ○昭和20年8月15日の終戦(敗戦)によって、価値観が180度転換を余儀なくされ、正反対の「平和と民主主義」の教育の洗礼を受けた。まことに衝撃的なことであった。 

 

○多感な子供の頃を、①の戦争時代と②の平和・民主主義時代を連続して体験した。これはまさに、激動の時代を生き抜いたとの思いだ。

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<教育環境> 

 

 国民学校」入学

 

 ○昭和18年4月に「国民学校」に入学した。2年前の昭和16年に「尋常小学校」から改称したばかりだったので、入学当時は「君たちは小学生ではない。皇国を背負って立つ“国民学校一年生”だ」と檄をとばされた。「♪みんなで学校嬉しいな、国民学校一年生」と歌わされたものだ。

 

 ○国民一丸となった戦争遂行をやり抜くための、「国民教育」の一環だったのではないだろうか。そういえば、「小国民」とも呼ばれた。

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 ②「分教場」育ち

 ○昭和2年に「H尋常小学校N分教場」として設置された学校は、入学時は「H国民学校N分教場」と改称されていた。「分校」ではなく、「分教場」と言った。

 

 ○この“分教場育ち”が、否が応でも小生らの意識の中にあった。おそらく若干の分教場コンプレックスと、本校に負けられないとの対抗意識の狭間の中にあって、必死に頑張ったような気がする。

 

 ○分教場と聞けば、マイナス要因が多いように思われるかも知れないが、実際は分教場なるが故のプラス要素もあった。後述するように小生の場合は、プラス思考で乗り越えたような気がしている。

 

 ○国民学校」と「分教場」---この特殊とも言える二つの環境と経験が、小生の子供時代に大きく影響しているように思える。この二つのキーワードは、「子供の頃の想い出」に深く関わっている。

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 ③ 小学校」の時代(学校制度の大改革)

 敗戦から2年後の昭和22年4月(5年生)に、学校制度が大きく変わり国民学校」が「小学校」と改称された。これに伴い「H国民学校N分教場」は独立して「N小学校」となった。

 

 ○国民学校から小学校への改称だけでなく、新制の中学校、高等学校、大学が生まれた。小学校・中学校が義務教育化され、小・中・高・大学の「6・3・3・4制」という新しい教育制度が発足した。

 ○それまでは、大部分の人は、尋常小学校を卒業したら直ぐに家の手伝いや農業に従事した。

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 ◎「高等科」 

 ○ごく一部の生徒が高等科(二年制)に進んで勉強した。     

                       ~以下、次号へ続く

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』130巻3937号 2022.6.4/ hideki-sansho.hatenablog.com No.977