秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

自分史 Review  2) 子供の頃の想い出 ②

 

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第二部学校生活の想い出

 

 ○はる昔のことなのに、何かにつけて今でも想い出すということは、それだけ印象が深く、忘れられない経験だったことを意味している。

 ○以下、記憶に浮かぶ事柄を、素直に列記してみたい。

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国民学校に入学する前

 

 国民学校入学前のことは殆ど覚えていない。微かに記憶にあるのは、近所の1歳年上の男友達と遊んだことだ。人間の記憶力には限界があるようだ。

 

 ○今と違い保育園や幼稚園は無かったので、みんなが一緒になるのは学校に上がった時だった。集落内に同じ年の男は居なかったので、1級上の男友達が同級生みたいなものだった。それまで一緒に遊んでいた友達のS、I、R、T君の4人が国民学校に入学したため、急に遊び相手がいなくなり、自分だけが取り残されて淋しいと感じたことを覚えている。

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戦時中の国民学校(分教場)時代

 

 ○分教場で生徒が少なかったため、先生は二人(男先生と女ご先生:夫婦)きり、教室も二つしかなかった。いわゆる「複々式授業」で、1年生から3年生までのクラスと4年生から6年生までの2クラスしかなかった。

 

 ○このため、3年生の時は最上級生なので「起立・礼」の号令を掛けたが、4年生になったら途端に最下級生となり、神妙にしていた記憶がある。

 

 ○今から思うと、自分にはこのシステムがプラスに働いた。1年生の時は2年生・3年生の授業も聴くことができ、4年生の時は5年生・6年生の授業も「聴講」できたため、勉強になった。本格的に勉強が好きになったのは4年生頃からだったので、上級生の勉強にも「参加」できたのは大きかった。上級生が先生の質問に答えれないとき、代わって答えるなどの場面もあった。

 

 ○女の子とはあまり交遊しなかった。そういう時代だった。違う集落のK、W、Jとは学校では仲の良い同級生だった。彼らは、中学生になってからも良き校友だった。

 

 ○分教場だったので、入学式、運動会はもとより、紀元節明治節などの行事には、だいぶ離れた本校まで歩いて行った。結構な距離だった。

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 ○戦時中だったので、教室の勉強ばかりではなかった。グライダーを作って飛ばしたり、校庭に南瓜を植えたりした。敵から攻撃された軍艦が沈まないよう、杉の葉を集めて送ったりしたが、そんなことでどうして軍艦が沈まないのか、子供ながら疑問だったのを覚えている。兵隊さんに食わせるのだと言って、ワラビなどの山菜狩りもさせられた。

ともかく、そんな時代だった。

 

 ○分教場への通学路のうち、学校近くの吹雪はすごかった。北風が吹雪を顔に吹き付け、呼吸ができないほどだった。低学年の頃は苦しくて、「死ぬかも知れない」と思ったこともある。

 

 ○やっと教室に着いても、戦時中の予算節約のせいか、ストーブが焚かれていなかったりで、手が凍えて動かせなかった。朝一番にやる「ソロバン」の時間に、珠を弾けなかったこともある。

 

 ○分教場生として肩身の狭い思いもしたが、一方で「本校生に負けてたまるか」という気持が出てきた。本校で行われた運動会の“計算競走”で、本校生を制して一位でゴールした時のことを、今でも誇らしく想い出す。分教場出身という境遇は、小生にはむしろプラスに働いたような気がする。

 

 ○この頃は嫌な想い出もある。殺人事件(後記)や「イズナ事件」だ。集落に病気がはやり、若い人(女子)が罹病した。明らかに伝染病であったが、医者に診せず、“いたこ

(口寄せをする巫女)に診てもらったら、「イズナが付いたからだ」と言われ、イズナを追い払うと称して瀕死の病人に水を掛けたり、箒で身体を叩いたりした。病気が治る筈もなく、何人かが相次いで死んだ。

 

 ○原因とされた「イズナ(小さな狐:キツネッコ)を、祖父が飼っている、という途方もない口コミが流された。

 

 ○このため、祖父とその家族への「村八分」攻撃が大々的に行われた。小さかった自分は、一歳年上のガキ共から深刻な「虐め」を受けた

 

 ○あまりにひどいので、父が問題解決に立ち上がり、集落全体集会を召集し、事実無根の不当な攻撃であることを認めさせ、表面上は一件落着した。

 

 ○この一連の「イズナ事件」を題材にした短編小説を書こうか、と思い立ったこともあり、卒論のテーマにしようかと考えたりした。それほどに、この時代の大きな事件であり、その衝撃は小生の心に今なお深く刻まれている。(これについては、項を改めて書くことにする。

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敗戦後の国民学校(分教場)時代

 

 昭和20年8月15日(国民学校3年生の夏)に、日本は無条件降伏のポツダム宣言を受託して「敗戦」した。

 

 ○ちょうど夏休み中で、小生は神社のある「お堂」のところで一人で遊んでいた。そこには、空襲による火災に備えて、消防車が外に出して置かれ、“敵の飛行機から赤い車体が見えないように”葉の一杯ついた木の枝を上に覆いかぶせていた。少し前に、八戸方面に敵機が飛んで行き、発令された「空襲警報」がいつまでも解除されなかったいつもと何か状況が異なることを、子供ながら察知した。

 

 ○誰も遊びに来ないし、独りではつまらないので、役場のある集落の方に歩いていった。少し手前で、集落の消防団員と思われる何人かが、大きな声で話しながら来るのに出くわした。後で考えたら、天皇陛下終戦を告げる玉音放送を聴いた帰りだったと思う。「アメリカは日本人の耳を切り取ったり、鼻を削ったり、極悪非道なことをするそうだ」、「大変なことになった」などと聞こえた。日本が戦争に負けたのは、訊いて確かめるまでもなかった

 

 ○一大事が起きた、とばかり家に走って帰り、兄に敗戦を教えたが、ラジオを聴いていないので、「そんな筈はない。負けたのはドイツだろう」と答えたのを覚えている。

 

 ○昭和20年(国民学校3年生)の夏に終戦(敗戦)した。それまで徹底した軍国主義教育が席巻していたが、この日を期に正反対の平和・民主主義の教育を叩き込まれた

 

 ○毎日飛ばしていたグライダーを壊して燃やしたり、読み親しんできた教科書の要所要所を墨で消したり、ショックは大きかった。真っ黒に塗りつぶされるページもあった。

 

 ○価値観が逆転したが、思いの外すんなり受け入れたような気もする。同じ集落の先輩たちが「死んで帰れ」と励まされて出征し、実際に遺骨となって帰ってきたのを目の当たりにしてきたので、子供なりに、“悪夢の時代”終結にホットしたのかも知れない。

 

 ○“二度と戦争をしてはならない”・・・・。これを生涯の堅い指針にしたのは、こうした歴史を実体験したからに他ならない。その点、小泉前首相・安倍首相とは「歴史認識」を全く異にする。だから、大学を出てからも自民党から国会議員に出馬するなど、小生には全然考えられない事だった。

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N小学校(独立)の時代

 ○戦後の混乱も収まった昭和22年4月、5年生の新学期に、国民学校が小学校と改称された。これを機会に、20年間続いた分教場が無くなり、独立校に昇格した。「H国民学校N分教場」が晴れて「N小学校」となったのである。初代校長に就任したM先生が、得意のヒゲを撫でながら、朝礼で嬉しそうに本校昇格を告げた時の光景を、今でも鮮明に覚えている。

 

 ○自分たち生徒も(分教場から)独立した喜びを感じた。同時に、新しい小学校としてそれなりの事が要請されるのも分かった。それまでは「本校に負けてたまるか」だったが、この日からは「他校に負けてはならない」という気持に変わった。

 

 ○「分校生(分教場生徒)」だったことが、良かれ悪しかれ、小生の精神成長に大きな影響を及ぼしていたようだ。田舎の田舎ともいえる小さな集落出身者が、異郷の東京でそれなりの生き方ができたのも、こうした環境を逆にプラスのバネにできたからだと思っている。大学入学時に、学生のサークル募集が盛んだった。

 

○その中に「部落問題研究会」というのが目に付いた。「部落問題を研究したいなら、部落(集落)に生まれ育った俺にきけば、何でも教えてやるのに」と考えた。だがこれは認識不足で、この場合の「部落」とは被差別部落」(未解放部落)のことで、特に関西方面では深刻な社会問題であることが、後になって分かった。

 

 ○そういう意味であろうか、田舎の部落を「部落」とは呼ばずに「集落」というようになった。東北地方では差別部落の話を聞いたことがないので、皆が部落と愛称していた。それを自由に使えないのは、最近特に激しくなった「言葉狩り」に思えて、複雑な気分だ。本稿では、当時の呼び名をそのまま使った。「想い出」の言葉そのものだからだ。

 

 ○この頃から勉強が楽しくなり、本格的に取り組んだような気がする。授業だけでは満足がいかず、校長先生に特別の講義を受けたり、課題を与えられた記憶がある。中学校に行ってから、他小学校出身者に負けず、先頭を走れたのも、この時の特訓とやる気が効を奏したと思われる。

 

 ○小学校高学年は、勉強と運動に明け暮れた。今は漫画や週刊誌などの読み物が氾濫し、テレビ・新聞の情報も毎日垂れ流しの「情報過多時代」だが、当時は教科書以外に読むものは殆ど無かった。だから、教科書は配布を受けたら直ぐに読んでしまった。それ程の読書欲だったので、教科書は全部を暗記してしまい、授業はつまらなかった様に覚えている。

 

 ○「何か読みたい」の気持は強く、たまたま家にあった雑誌の付録を見つけて読んだことがある。それには文豪菊池寛の「第二の接吻」久米正雄の「破船」が載っていた。難しくてよく分からなかった。第一「接吻」の意味がわからず困ったものだ。男女関係の「あやしい」何かだろうとは思ったが、大きくなってからやっとその意味が分かった。今の子なら「キッス」は誰でも知っているのに。そう言う時代だった。まさに「隔世の感」だ。

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H中学校の時代

 ○中学校入学は昭和24年4月だったが、校舎がないため、最初は小学校の低学年の教室を使用した。小学生が帰ってからということで、午後から授業を受けた記憶がある。机の高さが低いため、膝の上に乗っけて勉強した。

 

 ○校舎は確か、2年生の時に完成した。場所が遠くなったので、通うのは大変だった。校長先生が、新校舎完成を期して図書を購入したい意向だったが、生徒会長の自分は未だ校旗がないので、先ずは校旗の作成を、と逆提案してそれが実現した。校歌も制作された。

 

  ○今でも覚えているのは、放課後講堂を掃除している時に、K君が小生をいじめにかかったので、持っていた箒の柄で相手の顔を思いっきり引っ叩いてやった。決していいことをしたとは思わないが、これが効いて、その後いじめはなくなった。

 

 ○そんなこともあり、「人数は少ないが、勉強とスポーツで負けてたまるか」と思うようになり、両面で頑張った。“自分はその使命を果たすぞ”と心に誓った記憶がる。

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中学の学友たち

 陸上の800mリレーは、小生がスターター、第二走者:S君、アンカー:K君で、第三走者が誰だったかは忘れた。この三人は小学校時代からのリレー仲間だったので、中学校でも中軸として活躍した。先生の指導でメキメキ力がつき、支会や郡大会で優勝、新記録も樹立したほどである。

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 ○小生は中学校の一年、二年、三年で「級長」を務め、生徒会長にも選ばれた。こうしたN小(元分校)出身者の活躍で、他校出身者たちは嫌でも我々の存在を認めざるをえないようになった。

 

 ○小生は中学卒業直前に盛岡へ転校した。(国家公務員を)定年退職した後、小生を町長に担ぎ出そうと、中学時代の同級生の何人かが動いたそうだ。直接連絡はなかったが、兄には内々に話があったそうで、手紙で知らせてきた。もちろん小生にその気は全くなかったし、兄弟たちも「受けないだろう」と答えたようだ。

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 〜 次号へ続く

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』130巻3938号 2022 .6.5/ hideki-sansho.hatenablog.com  No.978