秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

自分史 Review  3) 子供の頃の想い出 ③

 

 

第二部【学校生活の想い出】()

 

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<天文少年>

 

 ○中学時代は星を見るのが大好きで、星座名や主な星の名前を覚えた。中学校の望遠鏡を家に借りてきて、夜遅くまで天体観測をしたものだ。中学校は家から遠かったので、下校して家に帰り着く頃は、既に辺りは真っ暗だった。もちろん街灯もなかったので、まさに“一寸先は闇”だった。

 

空の星を見上げながら帰路に就いたが、反対方面から来る人と、すれ違いざまに衝突して叱られたこともある。二宮金次郎は歩きながら本を読み、現代の若者は歩きながらケイタイと歩行喫煙。“天文少年”の小生は星を観ながら「上を向いて」歩いた。大きくなったら天文学者になる夢を心に秘めつつ。

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<書道好き>

 

 ○中学校では、H先生の指導で書道に精出した。

 ○大きな模造紙に、徹夜して明け方まで何枚も書き上げたのを覚えている。今から思えば、どんどん書いて練習したが、肝心の筆遣いなどを誰にも教えて貰えなかったのは残念だった。筆遣いを自分で覚え、思うように書けるようになったのは、大人になってからだ。「日本書道協会」と「道教育学会」の通信教育で、一から学んだ。

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<植物採集と標本づくり>

 

 ○山村に生まれ育ったので、植物が好きだった。夏休みの宿題に、迷うことなく植物採集と標本づくりを選んだ。質量とも立派な標本ができあがり、学校に提出したら先生にほめられ、優秀作品として長い間H中に保存され、後輩たちにも紹介されたそうだ。    

 

 ○これには続きの話がある。M一高1年生の夏休みに、同じように植物標本を作って学校に出した。自分としては自信作だった。ところが、思わぬ展開になった。NHKのクィズ番組「二十の扉」を真似て、標本の表紙に「それは植物です。開ければわかります」と書いたところ、「ふざけるな、真面目にやれ」みたいなメモが付いて返ってきた。夏休みの努力が一瞬にして“泡”となった瞬間だ。

 

 ○実は、高校1年の一学期に習った「植物の細胞・細胞分裂」に衝撃的な興味を覚えて、生物学が好きになり、一学期のテストで「生物」は満点で、もちろんクラスのトップだった。中学時代から好きだった植物(生物)がますます大好きになった。

 

○そうした高揚した気持ちで作り上げた植物標本に、先生から「ケチ」をつけられた思ったら、悔しくて、途端にその先生や生物学への興味がなくなった。短絡的な反応のようだが、ちょっとした事で学課の好き嫌いが生まれる見本のようなものだ。 

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<好きでたまらなかった英語>

 

 ○中学生になって初めて、英語に接した。その時の感動は、衝撃そのものだった。

初めて見る横文字にビックリした。単語を一語一語辞典を引いて調べた。 I am a boy. You are a girl. This is a pen. That is a book.  などの意味が分かったときは、本当に嬉しく、カルチャー・ショックを受けた。主語と述語の関係が日本語と違うのにも、非常に驚いた。英語が面白く、授業が楽しかった

 

 ○3年生の3学期に「M市立S中学校」へ転校した。間もなく期末テストがあった。課目毎の点数と合計点数がその都度発表され、最後の1科目(英語)を残した段階で、それまで3年間一貫してクラストップの成績を誇ってきたT君を抑えて、小生の点数がクラスのナンバーワンになった。

 

○本人はもとより、先生や級友たちが大騒ぎとなった。いよいよ最終課目:英語の点数が発表になったが、小生の点数が断然上だった。かくして、あっという間に、テストの成績がクラストップに躍り出た。

 

 ○普通は転校すれば、特に田舎から都会に移れば、成績が落ちるものだ。ところが、県北の小さな中学校から来た転校生が、考えられない事をしでかしたと言うことで、全校に噂が広まったようだ。模擬テストの英語では、他クラスのトップをも抑えて、S中全校のトップにランクされた。

 

 ○この「英語熱」は高校に進学してからも続き、英語の模擬テストでM一校のトップに躍り出た。もちろん県下のテストでも一番だった。ところが、I 日報・A新報・T日報主催の、岩手・秋田・青森の三県学力テストでは、思いがけなくトップは秋田県のA高校の女子生徒で、小生は1点差で2位になった。

 

 ○驚きとショックだった。トップになれなかったことだけでなく、「女子に負けた」悔しさが大きかった。しかしものは考えようで、男子生徒には誰にも負けなかった、と自分を慰めたものだ。

 

 ○M一校は勉強だけでなく、生徒の「部活動」も盛んだった。小生は、弁論部にも入っていたが、もちろん大好きな英語に磨きをかけるため、英会話部 (English Speaking Society) に入り、2年生の時にキャプテンを務めた。週一回教会に通い、外国人から英会話の特訓を受けた。文化祭では英語劇を演じた。

 

 ○因みに、高校時代に賀川豊彦氏の「世界連邦建設同盟」運動に共鳴し、東京で開かれた大会に出席し、そこに参加したインド代表を盛岡に連れてきて、県公会堂で世界連邦の講演会を開いた。この時、正規の通訳を雇う金がなかったので、小生が通訳を務めたが、何とか通用した。つまり、小生の英語力はそれなりのレヴェルに達していたことになる。

 

 ○当然の流れとして、将来は英語で身を立てようかと考えた。外交官を志した時期もある。ところが、状況が少し変わった。大学1年生の英語は、高校の復習みたいに簡単だった。なにしろ高校時代は英語を最高度にマスターしていたので、英語の授業がつまらなかった

 

 ○他方、大学の第二外国語としてとったロシヤ語(先生は東京外国語大学の教授)やスペイン語の方が新鮮で魅力的だった。特にロシヤ語は字の形や発音がが英語とは全く違い(ギリシャ語に近い)、そのうえ格変化も多く、英語以上に面白かった。そんなことも重なり、英語熱はいつの間にか冷めていったようだ。

 

 ○学生時代にロシヤ語やスペイン語をやった人は少なかったので、この2カ国語を履修した小生は、勤務先で外国語の本を担当した際に大いに役に立ったものだ。反面で、英語に次いでドイツ語・フランス語の本が圧倒的に多く、独語・仏語は不可欠の言語であった。

 

○致し方ないので、独語・仏語は独学で懸命に覚えた。文学部の外国語学科や外国語大学出身者もいたので、そういう専門に外国語を勉強した仲間にはかなわなかったが、何とか勤まったのは、中学・高校時代に開拓し培った高度の英語力と、「外国語を得意とする」体質がものをいったと感謝している。中学・高校時代の“英語熱”は結局は冷めてはいなかったようだ。

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<図工は苦手>

 

 ○図画工作はどうしても好きになれなかった。特に嫌いと言うほどでもなかったが、通信簿の成績が良くなく、4とかひどい時は3のこともあった。自分としては一所懸命絵も描いたし、それなりの出来栄えだと思ったのに、先生の点数が辛いので、これだけは仕方ないと諦めたものだ。

 

 ○風景画はまあまあだったが、静物画や動物画が苦手で、ちゃんとした輪郭を描けなかった。人間の顔ならやっと分かる程度に描けたが、ネコや犬の顔や全身となると、どうしてもちゃんとした形にまとまらなかった

 

 ○それでも、変な“自信”があった。それは、下手な自分の絵でも「ピカソよりは上手い」と思った。冗談ではなく、今でもその見方は変わらない。なぜなら小生には、ピカソの絵のどこが上手なのか、ちっとも分からないからだ。こんなバカな事を言っているから、ますます絵は苦手になったようだ。

 

 ○通信簿はいつも「5」だったが、いつだったか図工の成績が悪いため、見たことのない「4」に驚いた。一念発起して図工を頑張ったら「5」がついた。念願の「オール5」を取り返したわけだが、頑張りが認められたのか、先生の“恩情”だったのか知らない。それほど、図工では苦労したものだ。兄のTが得意だというのに、不思議なものだ。

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<音楽の戯れ>

 

 ○中学校の音楽教育はひどかった。特に初期の頃は、音楽の先生が居なかった。音楽のことが分からないらしい先生が、「何か自習でもしなさい」と言って、自分は勝手にクラシック音楽のレコード(運動会にかける行進曲?)を聴いているだけだった。

 

 ○今でも音楽は大好きなのに、オタマジャクシをちゃんと読めないのは、この時代の産物にほかならない。音符をみて辛うじて歌えるのは、ハ長調だけだ。「♪」や「#」がついたら、もう分からない。また、音感が全くなく、例えば「ファ」の音を直ぐには出せない。「ドレミファ」とドから始めていってやっとファの音が分かる、という情けない状態だ。

 

 ○その点、今の若い人は音感が発達している。中学校の合唱コンクールは、毎年聴きに行くが、難しい曲をいとも簡単に歌いこなすのには驚く。息子のYは、ミュージシャンとして作曲や編曲を手がけているが、そういうことが全くできない小生から見ると「神様」みたいな存在だ。娘N子もピアノ、弦楽器を弾きこなし、高校の管弦楽団のメンバーだった。

 

 ○小生は若い頃、職場のコーラスグループ「歌う会」に入っていた。練習は楽譜を見てやるが、本番は暗唱で歌うサークルだった。文化祭の晴れ舞台に立ったら“頭が真っ白”になったらしく、肝心の歌詞が全然出てこなかった経験がある。

 

 ○小生子供の頃は、ラジオの「今週の明星」で覚えた歌謡曲が好きで、学校でも歌った。通信簿に「歌謡曲を歌い過ぎる」と書かれた程だった。今はクラシック音楽に傾倒しており、好きな作曲家も多い。「古典派」「ロマン派」以前のルネッサンス音楽、バロック音楽も聴いている。CDも何百枚かもっている。

 

 ○「日本フィルハーモニーが地元S区に事務所をかまえ、区と提携している。小生は日フィルの会員になっており、サントリーホールでの定期演奏会には毎回必ず足を運び、年末には「第九」を聴いている。

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<ラジオ英会話>

 

 ○平川唯一先生のラジオ英会話  "Come come everybody !  How dou you do?  How are you ? "を聴きながら、部屋の掃除をしたものだ。この英会話は人気が高く、小生は大好きだった。

この放送を聴いて習った英語は、自然に口をついて出るほどマスターした。今みたいにテレビやカセットなどのない時代なので、この“カムカム英語”の果たした役割は非常に大きく、歴史に残るものだった。

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<転校生>

 

 ○小生は中学三年生の時に、M市立S中学校に転校した。もちろんM一高を受験するためであった。親の方針でそうなったが、正直言って直前に知らされて驚いたものだ。自分自身も将来を考えて、そうした希望を持っていたかも。もしかして中学の先生のアドヴァイスがあったのかも知れない。

 

 ○この転校により、小生の出生地での生活は終わりを告げた。S中学校から県立M一高に進学した。このため、小生はH中の卒業生ではないが、H中が小生の母校であることには変わりない。M市への移住によって、H中との関係が突然切れ、H中生たちとの友情関係も打ち切りとなった。中学最後の年に思わぬ事態が訪れ、何か中途半端な思いをした。

 

 ○同じことは、転校先のS中についても言えるような気がする。S中の卒業生ではあるが、ほんのちょっとの期間だから、友達も余りできないうちに卒業となった。

 

 ○小生の中学時代の友人が乏しい感じがするのは、やはり小生が「転校生」だったことと関係があるだろう。「転校生の悲哀」といえば少々オーヴァーだが、正直な実感だ。だが、この「マイナス」ともいえる要素を、結果として活力に変えた。それは「転校生の意地」でもあった。

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<高校受験>

 

 ○いずれにしても、当時は「学区制」があったので他学区への「越境入学」はできなかった。M一高を受験するためには、どうしてもM市へ住所を移さなければならなかった。ともかく、突然のしかも受験間近の転校という事態で、「運命の扉」を自らの手で開ける以外になかった。転校してから高校受験まで楽ではなかったが、自分では「よくやった」。

 

 ○担任の先生から、第一志望のM一高以外に「滑り止め」に何高を受けるかと訊かれたが、落ちるはずがないし、必ず受かるつもりだったので、「考えていない」と答えた。先生は不思議そうな顔をしていたが、「絶対合格するぞ」と誓ったものだ。

 

 ○合格が新聞に発表され、通知も届いた。直ぐ親に知らせようと、急遽汽車に乗った。到着したら既に夕方で、しかも運悪いことに大雪が降ったらしく、バスの運行が中止で、駅から実家への道は人間が歩ける状態ではなかった。しかし小生は歩いた。

 

 ○電報で実家に知らせなかったので、誰も迎えに来てなかった。たった一人暗い雪道を実家に向かった。散々難儀の末にやっとたどり着いた。親や兄たちはもう寝ていたが、ビックリして起きてきた。「一刻も早く合格を自分で知らせたい」と考えての行動だったが、実際には家の人たちは新聞発表で既に知ってはいた。

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<編集註>

『秀樹杉松』も年月を重ね、本号は「3939号」です。考えるまでもなく、サンキューサンキューです。それと、6月6日と6揃いの「睦々」!~全くの偶然なわけですが、数字遊びも楽しいですね!

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 〜次号へ続く

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』130巻3939号 2022 .6.6 hideki-sansho.hatenablog.com  No.979