秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

自分史Review 7)「青春の追憶」第一章【浩然の大気】~「白亜の青春」

 

 

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○今から15年前の2007年3月に、第1章「子供の頃の想い出」を書きあげ、引き続き第2章「青春の追憶」(高校・大学時代)の執筆を開始し、同じ2007年7月の71歳の誕生日に執筆を終えました。

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 ○『秀樹杉松』本号では、

「青春の追憶」第一章【浩然の大気】

   ~ 白亜の青春

の主要部分をお届けします。

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<はしがき> 

 

 ○“古稀”に因んで子供の頃の想い出(以後『子供』)を書いた。兄弟や子供達に進呈したところ、有り難いことに、読んでくれた上に好意的な感想が寄せられている。高校大学以降の回想記もぜひ書いて欲しい、との希望もある。

 

 ○『子供』を書き上げて暫くしてから、思いもかけなかった「叙勲」の栄に浴した。おかげで、自分について改めて考える機会を与えられた。現在の自分は、当然ながら過去に繋がっている。改めて、過去を振り返ってみる気持にもなった。

 

 ○叙勲と続編要望、この二つをきっかけに、高校以降の記憶をたぐってみたい。今回の青春の追憶は『子供』の続編に当たる。高校に始まり定年の60歳で終わる、45年間の生き様を振り返ったものである。

 

三つの青春

 白亜の青春、進取の青春、真理の青春

の「追憶物語」です。巻末には「叙勲物語」を付した。

 

 ○子供時代の約10年間は広く深く叙述したが、大人時代は半世紀にも及び、しかも現在に直接繋がる生々しさもある。とりあげる範囲は自ずから限定されるが、簡単な“自分史”を書いてみたい。「過去を想い、未来を思う」(副題)一助になれば、との気持を込めて。

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(1) 盛岡一高への入学

 

 ○『子供』に記したように、小生は岩手県北の「H中学校」から盛岡市の「S中学校」へ、3年生の3学期に転校した。“学区制”が存在した当時の状況のもとで、盛岡一校を受験するための慌ただしい転校であった。

 

 ○めでたく合格して、岩手県立盛岡第一高等学校(盛岡一校)に入学できた。これは小生にとって、生涯の喜びと誇りである。必ず受かると信じて“滑り止め”受験はしなかったが、実際に合格したときは最高に嬉しかった。

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(2)「一高」の愛称

 

 ○盛岡一高の前身は旧制盛岡中学」である。盛岡中学はもちろん男子校で、当時の女子校は「高等女学校」(高女)と呼ばれた。

 

 ○明治13年に「公立岩手中学校」として生まれ、同34年に「岩手県立盛岡中学校」と改称。戦後の学制大改革で、昭和22年岩手県盛岡一高」が誕生し「一高」が愛称となっている。

 

 ○小生が入学したのは昭和27年4月。2年前までは男子校だったので、女子はクラスに2人しかいなかった。学年全体でも10人程度だったのではないか。女子二人のうち、K子さんは数学がクラスで一番だったが、見事東北大にストレートで合格した。

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(3) 軍艦マーチと北大寮歌 校歌と応援歌 

   

 ○一高の校歌は有名だ。何故なら、メロディーが「守るも攻めるも鐵(くろがね)の」ではじまる『軍艦行進曲』(軍艦マーチ)と同じだからだ。歌詞は、

 「世に謳われし浩然の/大気を此処に集めたる/秀麗高き岩手山清流長き北上や

  山河自然の化を享けて/汚れを知らぬ白亜城

 

 ○応援歌は多くあるが、好んで歌われる「第二応援歌(凱歌)」の歌詞は、

  →

 杜陵ぞ弥生の雲紫に/花の香漂う遊宴のむしろ/尽きせぬ奢りに濃き紅の/その紅こそ白亜の健児/---」

  

 ○この応援歌は、「都ぞ弥生の雲紫に」で始まる、有名な北大寮歌『都ぞ弥生』の替え歌みたいなので、やはり歌いやすいことは確かだ。

 

 ○校歌が軍艦マーチ、応援歌が北大寮歌とは、何とも面白いではないか。校歌を歌う度に、戦後否定したはずの軍艦マーチと同じメロディーであることに、少なからず違和感を覚えたのは事実だ。もっとも、『君が代』を戦後も歌わされる程ではなかったが。

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(4) 質実剛健・文武両道 一高の校訓と校風

 

  ○新制の盛岡一高は、その前身たる旧制盛岡中学校の歴史と伝統を受け継いでいる。校訓は質実剛健(しつじつごうけん)「忠実自彊」(ちゅうじつじきょう)だ。

 (備考)「質実」=飾り気がなくて真面目なこと。「剛健」=強く逞しいこと。「忠実」=正直によく勤めること。「自彊」=自ら努め励むこと。

 

 ○いかにも、東北地方の名門らしい校風で、“田舎出の真面目人間”小生にはピッタリだった。毎日がこの上なく充実し、幸福感と優越感(エリート意識)にどっぷりと浸かった、素晴らしい3年間であった。

 

 ○「文武両道」が校風で、今で言えば「勉強とスポーツの両立」。だから野球も強かった。当時は、甲子園に出るのは各県代表ではなく、青森・岩手・秋田三県の「北奥羽」代表であった。この北奥羽地方で野球が強かったのは、盛岡一高盛岡商業、秋田高校、秋田商業、東奥義塾、八戸高校などであった。盛岡一高が選ばれて、栄えある甲子園出場を果たしたこともあった。

 

 ○その頃、県内では一関一高、福岡高校なども強かったが、盛岡では三高(商業)がライヴァルだった。「一高vs三高」戦は名物だった。ユニフォームと応援方式は、一高が“早稲田式”三高が“慶応式”であった。小生は早稲田カラーの純白ユニフォームが大好きで、早稲田スタイルの応援に心酔した。「何としても早稲田に入りたい」という熱い思いは、既に燃えたぎっていたのだ。

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(5) 東大進学15名(今年) 東北有数の進学校

 

 ○盛岡一校は、もちろん実績のある進学校であった。「学区制」の障害はあったが、盛岡近辺からはもとより、小生のような盛岡転居による“越境入学”などによって、県下の秀才が普く集合した。

 

 ○盛岡一高からの進学は、国立大学では地元の岩手大学が多く、仙台の東北大学はじめ、近県の大学が目立った。もちろん、青雲の志を抱いて東京に出る者も少なくなかった。

 

 ○当時は、東大に現役で合格するのは僅か二・三名に過ぎず、岩手日報社主催の模擬テスト・学力コンクールでトップや2位を占める秀才のみに許された、まさに狭き門だった。それほど、地方の名門校でも東大は難関だった。

 

 ○『子供』に書いたように、1年先輩の「小田中聡樹」さんは成績抜群で、岩手県下のテストではもとより、青森・岩手・秋田3県合同の学力コンクールでも、いつもトップだった。当然の如く、一発で東大に合格した。勉強だけでなく、弁論が得意で「岩手県に小田中あり」と知られた。弁論部活動を一緒にした小生は、当時から畏敬の念を持ち続けている。

 

 ○経済学部に入学したが、間もなく法学部に転じたそうで、青年法律家協会」(青法協)議長としても活躍した。刑法・刑事訴訟法の専門学者として論文執筆が多く、新聞でよく名前を見かけたものだ。東北大学法学部長も務めた。

 

 ○小生の卒業した年も、東大への現役合格は確か2名だった様に記憶している。今から十年以上も前になるが、週刊誌で進学情報を読んだら、盛岡一校から10数名が東大に合格していた。随分と変わったものだ、と嬉しく思った。

 

 ○本稿を書きながら、念のためインターネットで母校盛岡一高のホームページにアクセスしてみた。驚きと喜びが交錯した。それによると、今年すなわち2007年3月卒業生

の進学状況は、進学校の面目躍如であり、東大は15名、早稲田は21名だ。

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(6) 啄木に肖(あやか)

 

 ○一高の前身「盛岡中学」からは、多くの著名人が輩出しているが、石川啄木宮澤賢治が盛岡中学に学んだことは良く知られている。カンニング事件などもからんで、啄木が退学処分になったことなどは、『子供』に書いたとおりである。

 

 ○この偉大な二人の後輩に当たることを、小生はすごく誇りに思った。出身地を問われて「岩手県です」と即座に答えなかったことは紹介済みだが、聞かれもしないのに自分から「高校は啄木・賢治の後輩です」と得意気に話すことは珍しくもない。コンプレックスと優越感が入り混じっているようで、面白い。

 

 ○小生は特に啄木のファンである。天才的な能力をもちながら、深刻な生活苦・病気と闘わざるを得ず、ついには夭折した生涯が頭から離れないからだ。

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 ○啄木の有名な歌に、

→「不来方の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし十五の心

 

がある。不来方(こずかた)のお城とは、旧南部藩の「不来城」(盛岡城のことで、盛岡市の真ん中「岩手公園」(2006年に「盛岡城(あと)公園」と改称)に城趾がある。盛岡中の生徒だった啄木が、授業を抜け出して盛岡城趾に寝ころんで空を眺めた、という歌らしい。

 

 ○啄木に肖(あやか)りたい小生は、早速啄木の真似をした。全く同じことをやったのである。今から思えば“いい気”なものだ。それほど、盛岡一高時代は“いい気”で過ごしていたように記憶している。

 

 ○真似はしたものの、啄木はやはり「天才」で、小生はその足下にも及ばないことを思い知らされるだけに終わった。30分ばかり公園の草に寝ころんで空を眺めたが、とてもじゃないが、啄木の心境にはどうしてもなれなかったし、一句すら浮かばなかった

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(7) 一高生の矜恃(きょうじ)

 

 ○盛岡一校は岩手県を代表するだけでなく、東北地方でも有数の名門高校である。当時の盛岡には、盛岡一高盛岡二高(旧高女)・盛岡三高(旧商業)があったので、「一高」といえば勿論「盛岡一高」を指した。

 

 ○一高生であることに、心からの誇りをもった。この一高生としての「矜恃」(ほこり・プライド)は、大げさに言えば“天下を執った思い”だった。昔なら、旧制「一高生」(東大生)も同じ心境であったろうと推察する。今なら、東大に合格して「東大生」になった者のみが知るであろう、高いエリート意識に浸っていた。

 

 ○小生は中学生の頃から、旧制高校への強い憧れを持ち続けていた。だから、「一高」という校名に因んで、恰も「旧制一高生」になったかのような、高揚した気分で3年間を過ごした。白線入りの制帽を被り、高下駄を履いて、盛岡市内を闊歩したものだ。

 

 ○因みに、旧制の高等学校(三年制)とは、次のようなものであった。

   → 一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)の、ナンバースクール8校。この他に、新潟、松本などの官立高校が18校、公立が浪速、都立の2校、私立は武蔵、成蹊などの4校であった。

 

 ○少数の選抜された生徒に帝国大学への進学を保証し、将来社会の指導者になる道を開こうとするエリート校であった。事実上の帝国大学予科の役割を果たし、特に外国語が伝統的に重視されていた。白線入りの帽子、高下駄、羽織袴に汚れた腰手拭い、街頭での放歌高吟など、独特の高校生気質“蛮カラ”で天下に知られていた。

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(8) 青春の謳歌 

 

 ○気に入った校風、恵まれた環境の中で、「一高生」としての矜恃を胸に、小生は勉学に励むと共に青春をおもいっきり謳歌した。

 

 ○『子供』に書いたように、好きでたまらなかった英語の勉強に打ち込み、大きな成績を残した。岩手・青森・秋田三県の合同テストでは1点差で2位に甘んじたが、盛岡一高ではもとより、岩手県下でトップに輝いたのは、生涯忘れ得ぬ誇りである。

 

 ○一方で、1年生の夏休みに苦労して集めた植物標本に、生物の先生から予想だにしなかった否定的なコメントをもらったのが原因で、大好きな生物学が嫌いとなり、ひいては理科への興味が薄れたことも既に書いた。

 

 ○理科そして数学さえ苦手となったため、テストの総合点が低くならざるを得なかった。この時点で、国立の大学、特に大受験は遠のいた感じだった。

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 ○受験勉強一辺倒ではなく、勉強と青春謳歌を両立させるという考えを実践した。これでは、受験の総合点が伸びないのは当然であった。英会話部、弁論部に入って好きな部活動に熱中した。東京で開催された「世界連邦アジア大会岩手県代表として参加した。受験勉強に集中すべき一高生には“あるまじき行動”だった。

 

 ○「進学校・受験勉強」への反発もあった。せっかく“天下の一高”に入れたのだから、勉強だけでなく、もっと「青春を謳歌したい」と考えた。だから、多くの人が通っていた予備校に行かなかった。また、「何が何でも国立大」とも考えなかった。

 

 ○だから、明日から期末テストだという日の夕方に、岩手日報社前の街頭に立って、「世界連邦」に関する演説をした。

 

 ○その頃の小生は、別の意味で「東大は眼中になかった」。何故なら、好きなのは早稲田大学で、何としても早稲田に入りたかったからだ。東大が無理だったからと言う面を否定する気はないが、基本的には子供の頃から早稲田が大好きだったからに他ならない。どうやって憧れの早稲田に入るか、これが小生の最大の関心事だった。

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(9) (きら)めく教師群像 (割愛)

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(10) 父の夢は

 

 ○父はおそらく小生に「盛岡一校から東大へ」の夢を託していたのではないか。東大がダメなら他の国立大学あたりを次善と考えていたのかも知れない。直接聞いたことはなかったが、小生には何となくそう思えた。そうでなければ、中学3年生の3学期に急遽盛岡に転校させる、という“冒険”はしなかったのではないか。

 

 ○高校生活を「スクスク」過ごしておれば、つまり受験勉強一筋に専念しておれば、或いは「間違って東大生になれた」かも知れない、と思わないでもない。逆に小生は「千載一遇」のチャンスと、一高生活を堪能したばっかりに、父の期待に応えられなかったのかも知れない。

 

 ○序でに書こう。やはり『子供』のp.32で「夢を託した息子が、自分の思惑とは正反対の方向に歩んでいるのを、おそらく苦々しく思っていたことだろう。」とも記した。つまり、早稲田大学に進んで政治学を勉強した息子が、保守党の政治に背を向け、選に選って、大嫌いな“社共にかぶれ”てしまったことを快く思っていなかったのは、間違いない。

 

 ○因みに、小生が「青雲の志」を胸に秘めて上京するため、生まれ故郷を出るその日に、父が小生に与えた贐(はなむけ)は、ただの一言共産党にだけは入るなよ」だった。

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(11)「第二の故郷」盛岡の憶い出

 

 ○中学3年生の3学期に移住した岩手県盛岡市は、小生のいわば「第二の故郷」に当たる。この期間の「憶い出」の大部分は、上述の盛岡一高の生活そのものである。一高時代を一言で言えば、勉強も一生懸命にやったが同時に「一高の青春」を充分に謳歌したに尽きる。

 

 ○出張か何かで盛岡にやって来た父に、そば屋で「親子丼」をご馳走になった。そば屋に入ったこともなかったので、「親子丼」を食べたのは初めてだったし、なぜ「親子丼」と呼ぶのかも知らなかったが、「美味しいものだなあ」と思ったのは、今でも覚えている。

 

 ○その時以外に、蕎麦屋に出入りしたことはない。だから東京のそば屋に初めて入った時、「“もりかけ”下さい」と注文したら、「どっちですか?」と聞き返された経験がある。「もり」と「かけ」はまとめて2行に書かれている。そのまま読めば「もりかけ」になる。

 

 ○別の機会に、父と一緒に映画館で二本立ての時代劇を鑑賞したことを、鮮明に覚えている。映画館に入ったのも「初体験」だったのではないか。当日上映の映画は、確か『無法松の一生』(又は『破れ太鼓』)と『お富と与三郎』だったような気がするが、もしそうだったとすれば、バンツマ(阪東妻三郎長谷川一夫の主演かも知れなかった。

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 ○何しろ、「勉強と青春謳歌で忙しかったので、盛岡の街中は殆ど見物する機会はなかった。ただ、岩手県庁、県公会堂、岩手公園(盛岡城趾)などのある中心街は何回か歩いて知っている。盛岡一高岩手大学、NHK盛岡放送局などのある上田地区も、当然知っている。

 

 ○前出の高校野球「一高・三高戦」を応援した後、例の「小田中聡樹」さんに誘われて、もう一人の友達と小田中家にお邪魔したことがある。何でも小田中さんのお父さんは大きな銀行の行員とかで、立派な家だった記憶がある。

 

 ○小田中氏の母上が「暑いから遠慮せずに、学生服を脱いで下さい」と何回もすすめて下さったが、脱ぐのは失礼とばかり?、やせ我慢を通したのを覚えている。何のことはない。遠慮ではなく、学生服の下に着ているシャツが汚れていたので、恥ずかしくて脱げなかっただけのことだった。

 

 ○小生が勤務先で「新聞係長」をやっていた時期、帰省の折に盛岡で途中下車して、岩手日報社を訪問したことがあった。一高の出身であることを告げ、「新聞係長」の名刺を差し出したら、“下にも置かない”手厚いもてなしを受けた。翌日の新聞の「本社見学欄」に、肩書き入りで載っていた

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 ○盛岡は「杜陵」(とりょう)とも呼ばれる。「フリー百科事典Wikipedia」によれば、盛岡を指す“雅称”で、盛岡を漢語調に記したものなそうだ。訓読みすると「もりおか」になる。盛岡に縁の深い石川啄木が、好んで用いた言葉のようだ。

 

 ○因みに、「杜少陵」は盛唐の詩人杜甫の号であり、「杜陵」は紀元前に中国にあった県名である(ウィキペディア)。また、現に盛岡市には「杜陵高校」という私立高がある。

 

 ○盛岡一高のHPをインターネットで調べると、盛岡一高『校歌』に「汚れは知らぬ白堊城」「振るえや杜陵の健男児」とある。学生歌『杜の都』には「杜の都に聳え立つ/白堊の城を仰ぐ時」とあり、『第二応援歌(凱歌)』には「杜陵ぞ弥生の雲紫に」「その紅こそ白亜の健児」と出てくる。

 

 ○つまり、一高は「白堊の城」(白堊城)であり、一高生は「白堊の健児」「杜陵の健児」と愛称される。この第一章のタイトル(題名)を、母校の校歌からとって、

【浩然の大気】白亜の青春とした。

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』131巻3944号 2022.6.11/ hideki-sansho.hatenablog.com  No.984