秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

自分史 Review 8)「青春の追憶」第二章 ~進取の青春~

 

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<編集註>

この号に投稿する「青春の追憶 第二章 進取の青春」は、15年前の2007年に書いたものです。都の西北”での青春に鑑み、校歌の歌詞「♪進取の精神、学の独立」に因んで、「進取の青春」をタイトルとしました。原文は長文なので、バサバサ削りましたが、これ以上はムリです。お読みいただければ嬉しいです。

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(1) 憧れの早稲田大学

 

 ○父の願いや思いとは違っていたかも知れないが、前章で記したような事情と経過を踏まえ、念願の早稲田大学に入学できた。

 

 ○東京や日本全体では「早稲田」はよく知られているが、当時の田舎では、東大や東北大に関心が集まっていたような気がする。東京の、しかも“金のかかる”私大に何故入りたいのか、親はもとより周囲は疑問に思ったようだ。

 

 ○私立の早稲田に入ったことによって、安穏とした学生生活が送れる筈はなく、厳しいバイト生活を覚悟しなければならなかった。実際文字通り「苦学」の道を歩んだ。また、当時は学生運動が活発な時代でもあり、のんびりと勉強できる環境には程遠かった。

 

 ○結果は予想通りとなった。即ち、小生の大学生活は「勉学·バイト·学生運動」の三本建てに終始した。大変だったが、自分で選んだ道なので頑張り通した。「第二の故郷盛岡」での盛岡一高の青春を”青春1期”とすれば、「都の西北」での青春は”青春2期”に相当しよう。

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(2) なぜ、WASEDAが好きか?

 

 ○「蓼(タデ)食う虫も好き好き」「アバタもえくぼ」という言葉があるが、小生の“ワセダ好き”の主な理由は以下のように思われる。

   

創設者大隈重信に対する畏敬。 

創設の目的に対する共鳴。

校風そして校歌・応援歌への共感。

④学生野球の華早慶戦への憧れ。

「私学の雄」だけでなく、東大、京大、慶大と並ぶ「大学の雄」であること。

早大卒業生(含中退)の、各界・各地方などにおけるめざましい活躍

 

 ○これら全部に惚れ込むファンもいるだろうし、校歌と早慶戦だけでWASEDA大好きの人もいるに違いない。「私学の雄・大学の雄」を正当に評価しての選択もあるだろう。

 

 ○小生のような「早稲田好き」がおれば、当然「早稲田嫌い」いるだろう。また、最初からワセダを目指す人だけでなく、「東大国立を落ちたからWASEDAに来た」と言う者もいる。そんな学生でもすぐに校風にとけ込み、「ワセダに来てよかった」という声が圧倒的だ。それだけの魅力と包容力をもった“早稲田の杜”なのだ。

 

 ○早稲田マンは野暮で泥臭い田舎者が多く、慶応ボーイは洗練されたスマートな都会者が多い、という評価も今や過去の話になりつつある。“ハンカチ王子”齋藤君の例もある。早大「在野精神」も弱まり、国家権力への参加が目立ってきた。

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(3) 大隈重信早稲田大学

 

 ①早稲田大学の創設者大隈重信は、1838年天保9年)肥前藩生まれ。藩校の葉隠思想に反発、蘭学塾で蘭学を修める。明治維新に際し脱藩。維新後の新政府で、気鋭の少壮官僚として活躍。大蔵大輔、参議、大蔵卿(大蔵大臣)を歴任し、貨幣制度改革(円貨導入)、工部省設置、太陽暦導入など、文明開化政策を推進した。

 

 ②西郷隆盛らの征韓論に、内治優先の立場から反対。木戸孝允西郷隆盛大久保利通ら亡き後、参議筆頭として事実上政府のトップに立った。しかし、早期の憲法制定、議会開設の意見が薩長藩閥に受け容れられず、折からの北海道官有物払い下げに反対したことなどにより、1881年政府から排斥された。明治14年の政変

 

 ③「明治14年政変」で薩長政府から排斥された大隈重信は、翌明治15年小野梓らの協力を得て立憲改進党を結成すると共に、「東京専門学校」(後の早稲田大学)を創設した。日本の近代化推進には、政党政治の実現·人材の育成が不可欠との認識によるもので、その理想の実現に着手した。

 

 ④東京専門学校の創設には、大隈の近代化諸政策の参謀・知恵袋の小野梓(1852-1886)の全面的な支えがあった。また、小野グループの高田早苗、天野為之、市島謙吉坪内逍遙が、東大を卒業して率先して参画した。大隈のリーダーシップと参謀小野の献身的な活動を中心に、高田ら東大を出たばかりの若い力とエネルギーが結集され、都の西北に「東京専門学校」が設立された。

 

 ⑤小野梓は、立憲改進党の筆頭幹事として活躍する一方、東京専門学校建学後は事実上の校長を務め、まさに八面六臂の大活躍をした。こうした激務の中で病に倒れ、学校設立の4年後に僅か34歳で永眠した。ワセダ建学に注いだ小野の理想は、「進取の精神、学の独立」と、早大校歌に歌われている。

 

 ⑥高田、天野、市島、坪内らは、小野の遺志を継いで早稲田大学造りに力を尽くした。特に、高田早苗は学監・学長・総長を歴任して、早稲田大学の発展に大きな貢献をした。憲法学者でもあった高田は、国会開設直後の総選挙に立候補して、国会議員にもなった。また、大隈に請われて、大隈内閣の文部大臣も務めた。

 

 ⑦東京専門学校は、創立20周年の明治35年1902年)に早稲田大学と改称明治40年1907年)には、大隈重信総長・高田早苗学長の体制が確立。大正9年(1920年)、大学令による大学となり、昭和24年(1949年)、新制早稲田大学(11学部)開校。

 

 ⑧一方大隈は、当時最大の外交問題であった不平等条約の改正に、大隈の力を必要とした黒田内閣に外相として迎えられた。改正交渉に取り組んだが、反対派の暴漢に襲われて重傷を負い、辞職を余儀なくされ、努力が実らなかった。

 

 ⑨大隈の足が不自由になったのは、この時負った重傷による。自由党を立党した板垣退助もテロに遭い、「板垣死すとも、自由は死せず」と喝破したことは知られている。

 

 ⑩大隈は不撓不屈の精神と負けじ魂で頑張り、1898年(明治31年)には、板垣退助憲政党を結成、我が国初の政党内閣(第一次大隈内閣=“隈板内閣”)を誕生させた。1914年(大正3年)には、第二次大隈内閣を組織。

 

 ○小生は大隈の意図がよく理解でき、その先見の明、なかんずく、政党を結成して日本初の政党内閣を誕生させ、東京専門学校を創設して“天下の早稲田大学に発展させた偉業に共鳴する。

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(4)「私学の雄・大学の雄」早稲田大学

 

 ○早稲田大学は「私学の雄」と呼ばれる。慶応義塾大学と並び、私立大学の代表的存在である。片や東大、京大は「国立大の雄」。この四大学は、日本を代表する「大学の雄」と言ってもよい。

 

早大は5万人の学生、5千人の教員を擁するマンモス大学でもある。そして、各地、各分野で活躍中の校友は50万人を超える(注=日本最大のマンモス校は日大)。

 

 ○学生や校友が多いだけでなく、それに相応しいリーダーの役割を分担している。我田引水と言われるかも知れないが、それは、客観的・歴史的な事実である。

 

 ○司法試験合格者は、東大・京大・慶大を抑え2年連続トップを占めた。

(平成17年度)早大228名 ②東大225名 ③慶大132名 ④中大122名 ⑤京大116

 

 ○国家公務員種試験の合格者は、東大、京大に次ぐ3位である。もともとは「在野精神」の早稲田は官僚になる人は少なかったが、近年は政界だけでなく官界への進出はめざましく、注目を集めている。

 

 ○戦前・戦時中の内閣総理大臣は、薩長閥・軍人・東大出の官僚などで占められてきたが、戦後はがらりと様相が変わり、「実力のある政治家」が活躍し、首相になる時代が到来した。

 

 ○早大出身の内閣総理大臣として、創立者大隈重信8代、17代)のほか、石橋湛山(55代)竹下登(74代)海部俊樹(76、77代)小渕恵三(84代)森善朗(85代、86代)福田康夫(91代)、野田佳彦(95代)、岸田文雄(100代)が登場した。 

 

 ○総理大臣の例を挙げたが、国会議員、地方政界、マスコミ・新聞界、文壇、スポーツ界、経済産業界など、あらゆる分野で、早大出身者(中退者を含む)が指導的立場で活躍している。

 

 ○有名人も多い。田中真紀子さん然り。批判もされたが、“伏魔殿”に敢然と乗り込み、外務省の改革・機密費の問題などに手をつけようとしたために、外務官僚や利権で結びついていた政治家からあらぬ中傷誹謗を浴びた。彼女はワセダウーマンの典型である。因みに、彼女を守りきれなかった小泉純一郎総理はケイオーボーイでした。

 

 ○マスメディアでの活躍も多い。今は姿を消したが、夜のニュース・報道番組のキャスターは稲門一色だった。久米宏(tv.asahi筑紫哲也(TBS)、堀尾正明NHK)の三人がズラリと揃ったことがある。女子アナにも活躍している人が多く、NHKその時歴史が動いた」の松平定知アナも傑出している。

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 ○文壇での早稲田文学の活躍は、超素晴らしい。名前を挙げれば切りがない大群像だ。早大出身者の文学賞受賞は驚くほどで、芥川賞30人、直木賞35。因みに、東大芥川賞20人、直木賞13人、慶應は9人と13人。

 

 ○小生の身近な作家では、作家の阿刀田高(あとうだたかし)氏がいる。年も1歳違いで、阿刀田氏の前職は国立国会図書館司書。1979年に『ナポレオン狂』で第81回直木賞を受賞、短編小説を中心に大活躍している。日本推理作家協会会長を務め、去る5月31日には、井上ひさし氏の後を承けて第15代日本ペンクラブ会長に就いた(初代は島崎藤村)。

 

 ○先日の「朝日」に、ペンクラブ会長に就任した阿刀田氏の写真入りプロフィールが載っていたが、国立国会図書館司書として国家公務員の経験もあり、バランス感覚が優れていると評価されていた。全くその通りである。

 

 ○小生が組合の書記長をやっていた時に、会議における阿刀田氏理路整然とした意見の開陳に、強い印象を覚えました。作家だから文章が上手いことは当然として、弁舌も明快で爽やかだった。

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(5) 戦後10年の日本政治史 ~政党の興亡と稲門政治家の活躍

 

 ○まず政界に眼を転ずると、古くは早大教授から労働農民党委員長を務めた大山郁夫(1880-1955)、雄弁会出身で大臣を歴任した永井柳太郎(1981-1944)、反軍派政党人の中野正剛(1886-1943)などが、代表的なワセダ出身の政治家で、いずれも歴史に残るメンバーだ。

  

官僚政治の象徴である吉田茂に対し、稲門(早大出身)政治家たちは政党政治の確立、国民密着型の政治を目指し、鳩山一郎を“反吉田”の旗印に担ぎ、結束して政界再編・政治刷新に動いた。その面々は、早稲田出身の三木武吉河野一郎らであった。

 

 ○保守対革新の様相が強まり、危機感を募らせた保守陣営は、抗争を続けていた社会党の統一の動きも睨み、社会党の統一大会二日後の19551115日に、日本民主党」と「自由党」の保守政党が合同して自由民主党が誕生した。55年体制の始まりだ。

 

 ○合同直後は総裁を置かず、鳩山一郎緒方竹虎大野伴睦三木武吉の4人が総裁代行委員におさまった。(緒方、三木は稲門)。翌1956年3月に総裁公選を行うことになったが、それを待たずに緒方竹虎は選挙活動中の1956年1月3日に急死した。

 

 ○緒方竹虎の急死で、4月に初代総裁に鳩山が就任した。実は緒方の次期総裁が内定していたそうで、健在で選挙日を迎えられれば、緒方が早稲田出身の最初の総理大臣になれたかも知れない。

 

 ○公職追放で吉田に政権を持って行かれた鳩山が、吉田の後継者たる緒方の急死で、保守党を一本に束ねた自由民主党」の初代総裁のポストに就任できたのだから、歴史は生き物であり、どう転ぶか分からないことを教えている。

 

 ○念願かなって大保守党の総裁と内閣総理大臣に就任した鳩山一郎は、この年(1956年)10月にソ連を訪問し、共同宣言に調印、日ソ国交回復という大事業を達成した。

 

 ○なお、鳩山首相随行し、全面的に支えるとともに、あのフルシチョフ首相とわたりあった河野一郎農相も稲門政治家であり、今の衆議院議長河野洋平の父である。かつては自民党を飛び出して新自由クラブを結成して、政治革新に挑んだ河野洋平もワセダである。

 

 ○鳩山の後継を争ったのは石橋湛山通産相岸信介自由民主党幹事長)石井光次郎(同総務会長)の三人だった。一回目の投票で岸一位、石橋二位となり、決選投票で“二・三位連合”が勝利して「石橋内閣」が成立した。

 

 ○石橋首相は早稲田大学出身(稲門)の初代総理である。開戦時の東條内閣の商工大臣でA級戦犯だった「岸総理」を当面阻止したが、石橋新総理の急病でわずか65日間の短命に終わったのは悲運としかいいようがない。結局臨時代理だった岸が首相の座に着いた。A級戦犯の首相誕生は日本の不幸、と言ってもよいだろう。

 

 ○石橋の後を襲った岸信介(1896-1987)は、「警職法」改正を提案して国民の反対で撤回したり、有名な「安保条約」改正問題で国論を二分する騒動を起こした。その孫の安倍晋三が“戦後レジーム(体制)からの脱却”とばかり、日本人が命がけで勝ち取った平和憲法を葬り去ろうとしている。

 

 ○その岸に対しては、松村謙三が日中国交回復を訴えて、劣性を覚悟で総裁選に立って岸に勝負を挑んだのは、やはり立派であった。彼も稲門政治家である。

 

○以上長々と書いたように、戦後10年間の政党の興亡は、保守党分野だけ見ても、政争は絶えることがなかった。その間にあって、稲門(早稲田大出身)の政治家達はいきいきと要所要所で活躍している。早稲田大学は、はやはり“政治の殿堂”である。

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社会党で活躍した稲門政治家>

 

 ○ワセダマンの政治家は与党・保守党だけでなく、もちろん野党にもいた。左派社会党委員長だった鈴木茂三郎(1893-1970)、右派社会党書記長を務めた浅沼稲次郎(1898-1960)が代表格だ。

 

 ○1955年に左右両派が統合して、晴れて一本の日本社会党が生まれたが、統一社会党委員長鈴木茂三郎、書記長浅沼稲次郎という、強固な早稲田コンビが実現した。冷静沈着な理論派の鈴木と、ヌマさんの愛称で親しまれ“人間機関車”とあだ名された行動派の浅沼との強力な協力体制。

 

 ○1960年に西尾末広らが社会党から離れて「民主社会党」を結成した。この大事な時期に社会党を割る?西尾。これを機に鈴木委員長が辞任し、浅沼書記長がが委員長に就任した。

 

 ○浅沼社会党委員長は、歴史的な安保闘争共産党や総評等と組んで、統一して闘った。これは歴史に残る功績である、と小生は当時も今も確信している。

 

 ○しかし、アメリカや岸自民党内閣との本格的な闘いに発展した安保闘争は、当時の日米支配層にとっても深刻であったに違いない。浅沼さんが右翼少年の凶刃に倒れたのは、本当に残念だった。

 

 ○小生はその日、日比谷公会堂での立ち会い演説会をテレビで観ていたので、「浅沼委員長暗殺」の場面をこの眼でしっかりと捉えた。その時の驚きと怒りは今でもはっきり覚えている。

 

 ○この右翼テロを機に、社会党の右傾化と社共分断が顕在化し、運動が後退していった

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(6) 早稲田大学の校歌 (都の西北)、応援歌、学生歌

 

 ○「都の西北 早稲田の杜に」で始まる校歌。大学の校歌でこれほど知られ愛唱されているのは、他に見当たらない。小生の大好きな歌詞が、一杯散りばめられている。この厳かで悠々・堂々たる校歌を歌うときは、“早稲田を母校に持ってよかった”としみじみ感じる。

 

 ○ゆっくりと歌うように出来ているが、興奮気味の早大生はブラスバンドの演奏がじれったいかのように、ワンテンポ速く歌うので、時には校歌を輪唱しているようだった。

 

 ○応援歌『紺碧の空』も素晴らしく、「紺碧の空 仰ぐ日輪」で始まる。特に早慶戦の時は、蛮声を張り上げて「理想の王座を占むる者 我等」と誇らし気に歌ったものだ。

 

 ○学生歌『早稲田の栄光』は、ゆったりとした調子がよかった。確か早慶戦に限って歌ったような気がする。歌詞が高遠で素晴らしく、「なつかしき真理の杜を 彩るは七色の虹 /とこしえに 輝く早稲田」の件(くだり)を、感情を込め、声高らかに、肩組み合いながら唱和したものだ。

 

 ○ワセダの校歌・応援歌の他に小生が好きなのは、「見よ/風に鳴るわが旗を」で始まる慶応義塾塾歌と、「若き血に燃ゆる者/光輝みてる我等」で始まるカレッジソング『若き血』だ。また、明治大学校歌白雲なびく駿河/眉秀でたる若人が/撞くや時代の暁の鐘」も大好きだ。六大学野球早慶戦以外には、早明戦もなるたけ観るようにした。

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(7) 早慶戦 ~血湧き肉踊る~

 

 ○早慶戦抜きに、早稲田大学を語ることはできない。慶応義塾大学を語る場合も同じだろう。もっとも、慶応では早慶戦慶早戦とか「K-W戦」と呼ぶようだ。創立は早稲田より古いぞ、とのライヴァル校に対する先輩意識があるようだ。

 

 ○六大学制になった1925年秋から最近の2007年春までの、両校の対戦成績は、

早稲田大学197勝-慶應義塾大学165、引き分け10で、ワセダが32勝リードしているが、互角の対戦成績といえる。小生の体験では、早慶戦の初戦は「弱い方が勝つ」とのジンクスもあるようだが、それだけ「神宮の森」での対決は予断を許さない。

 

 ○早慶戦のある日は、大体は授業が休講となるので、毎回応援に駆けつけたが、中には必ず授業をする“変わった先生”もいた。単位取得の関係上、一度その授業に出たことがあったが、早慶戦が気になって、授業が頭に入らなかったことを覚えている。

 

 ○早慶戦学生野球の華であるとともに、早稲田マンにとって(おそらく慶応ボーイにとっても)、まさに青春謳歌の舞台だった。ワセダがあまり好きでない学生でも、このソーケーセンの応援に行って、特にワセダが勝とうものなら、その場で直ぐに“WASEDAファン”になること請け合いであった。

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(8) 授業・勉強の周辺

 

 ○1年生の英語が高校の復習みたいで面白くなく、第二外国語スペイン語やロシア語に興味を覚えたことは、『子供』に書いた。スペイン語は日本人には覚えやすかった。ロシア語は、英語とは全く違う外国語に思え、新鮮さを感じた。

 

 ○当時は社会主義国ソ連に対する“憧れ”みたいなものが若者にはあったの、ロシア語を勉強するのに誇りを覚えたものだ。ロシア民謡が大好きで、当時は「うたごえ運動」が盛んで、うたごえ喫茶でよく歌った。関鑑子の『青年歌集』は若者に人気が高かった。

 

 ○政治学は、早稲田大学のいわばメイン課目であり、吉村正教授の授業は楽しかった。パーフォーマンスはなかったが、誠実で謙虚な授業スタイルが気に入った。小生は、政治学、政治史、政治思想史、行政学、国際政治などを中心に意欲的に学んだ。勿論授業だけでなく、他大学の教授や政治学者の著書も読んで勉強した。

 

 

 ○社会主義への関心が芽生え、マルクスレーニンの文献資本論共産党宣言毛沢東矛盾論も勉強した。マルクス経済学も実に難解だったが、“剰余価値”とか“搾取”などの、初めて学ぶ専門用語や革命用語(左翼語?)の魅力にとりつかれた。

 

 ○それまでは「哲学」には縁がないと決めて軽んじていたが、政治学や経済学の勉強には弁証法とか唯物論などが欠かせない学問であることを知り、本を読みまくった。量と質の関係、矛盾の統一など、次から次へと関心が高まった。「革命」について、初めて真剣に向き合ったのもこの頃だった。

 

 ○政治学研究の範囲が拡がり、大学での講義、学問とは別に、バイトと学生運動の“寸暇”を惜しんだ本格的な勉強が始まった。こうした新しい問題への開眼は、次に述べる学生運動などへと繋がっていった。

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(9) 学生運動への参加 ~分裂と混乱へ~

 

 ○早稲田大学は昔から学生運動は盛んだった。真面目な田舎出身者、裕福でない家庭の学生がが多かったので、自然とそうなったような気がする。

 

 ○ワセダはもともと在野精神に満ちており、権力志向よりも「反権力」の校風がみなぎっていた。時の政府が推進した「反動的」「反平和的」な諸政策に、敢然と立ち向かう学生運動が伝統的に強かった。

 

 ○学生運動の主体は、各大学の学生自治会とその連合体全学連だった。小生も早稲田大学学生自治会委員に選ばれ、総長交渉などを行った。全学連主催の集会やデモにも積極的に参加した。当時の政治状況から、学生運動のテーマは政治的な要素が強かった。

 

 ○小生が学生運動に参加した当初は、「健全な」学生運動だった。大学一年の夏に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開かれたが、この歴史的な大会を成功させるため、早稲田大学の最寄り駅「高田馬場」で連日にわたって資金カンパを訴えた。

 

 ○このように、その頃の学生運動真面目な学生(小生みたいな?)が主体だった。学生が立ち上がって世の中を良くしていこう、という純真そのものだった。

 

 ○ところが次第に学生運動は分裂·混乱の様相を呈していった。いわゆる「代々木系」と「反代々木系」に分裂し、次第に混迷を深めていった。

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(10) “うたごえは平和の力”~歌声運動の高揚~

 

 ○学生時代だけではないが、当時はうたごえ運動が盛んで、音楽の好きな小生はよく歌ったものだ。専門の声楽家であり、中央合唱団創立者・指揮者である関鑑子(せきあきこ1899-1973さんの指導力が抜群で、全国津々浦々に歌声運動が拡がっていった。

   

 ○歌声運動の普及には『青年歌集』(関鑑子編)が大きな役割を果たした。小生の頃はまだ数冊しかなかったが、最終的には10冊を超えたようである。若者が集まって合唱する場として、昭和30年に喫茶店「カチューシャ」、翌年「灯」(ともしびが新宿に開店した。

 

 ○ところで、関鑑子東京音大(今の芸大)声楽科出身で、昭和4年プロレタリア音楽同盟の初代委員長、昭和30年国際レーニン平和賞受賞、など輝かしい経歴をもっている。

 

 ○「うたごえは平和の力」「うたは闘いとともに」を生涯貫いた。小生も彼女の指揮で合唱したことが何回もある。1973年(昭和48年)のメーデー会場で、『世界をつなげ花の輪に』の大合唱を指揮した直後、壇上で倒れて帰らぬ人となった。うたごえ運動の指導者らしい最後とはいえ、まだまだ健在で活躍して欲しかった。

 

 ○うたごえ運動で唱った歌は、反戦歌・労働歌・ソビエト民謡・日本民謡などが中心で、“平和の歌” “闘いの歌” “青年の歌” “心の歌”でもあった。先の『子供』に書いたように、「反戦平和」を生涯の指針とする小生には、何ともこたえられない歌ばかりだ。

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  (11) 東海林太郎 (W)藤山一郎 (K)  

           

 ○歌の序でに、代表的な歌手に登場願おう。早稲田マン東海林太郎1898-1972慶応ボーイ藤山一郎1911-1993は好対照だ。昔の早慶を代表するような組み合わせだ。

 

 ○小生子供の頃はNHKラジオ「今週の明星」ファンで、学校でも流行歌(歌謡曲をよく歌った。歌手は他にもいたが、この二人が大好きだった。特に、直立不動で歌う東海林の姿勢と声に魅了された。赤城の子守歌」「国境の町谷間のともしび」は絶品で、美声を誇った藤山長崎の鐘影を慕いて」と共に大好きだった。

 

 ○東海林太郎秋田市出身の早稲田OBだが、在学中佐野学教授にマルクス経済学を学んだそうで、卒業後満鉄に入社したが音楽の夢が捨てられず7年で帰国早稲田で中華料理店を経営しながら勉強し、音楽コンクールの声楽部門で入賞した。

 

 ○直立不動の姿勢剣豪宮本武蔵を彷彿させると言われる。「一唱民楽」(歌は民のため)が信条だったそうだ。

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(12) バイトに明け暮れ 

 

 ○大好きなワセダで勉強するには、当然バイトに明け暮れる毎日を覚悟した。実際その通りで、特に最初の頃は大変だった。書きたくないこと、思い出したくないこともある。

 

 ○新聞配達はよくやったものだ。今みたいに自転車やオートバイ配達ではなく、脇に抱えて走って配達した。おかげで、夏は顔や体が真っ黒に日焼けした。台風みたいな日に、新聞がぐしょ濡れになり、挙げ句の果てに滑って転んでケガをしたことがあった。通りがかりの誰も声すらかけてくれなかった。

 

 ○だが、何処かのおばさんが助けてくれた。その家の玄関で、絆創膏みたいなのを貼ってもらった。そういう人もいるんだ、と嬉しくなり、翌日お礼に行ったのを覚えている。

 

 ○当番制で朝3時頃リヤカーで新聞を取りに行ったことがある。初めてだったので、店の場所がよく分からず、まるっきり反対方向にリヤカーをとばした。いつまで待っても新聞を積んだリヤカーが戻らないので大騒ぎとなり、みんなから散々しぼられたものだ。

 

 ○団地は今のようにポストが一箇所にまとまって付いていなかった。一々階段を昇って、しかも一戸一戸ドアに差し込む配達方法だった。団地での配達中に「大」を催し、我慢できず屋上で用を足したこともある(内緒)。その点、今の新聞配達は実に楽なバイトだ。

 

 ○最近は配達にオートバイが使われている。それにしても、早朝まだ寝ている時刻にオートバイの大きな音を出して配達するのは、何とかならないかと思う。はっきり言って「安眠妨害」だ。オートバイなんか要らないと思う。せいぜい、自転車にすべきだと考える。

 

 ○新聞配達のバイトは、いつも『朝日』だった。今も購読紙は朝日だ。それ以外は取ったことはないが、“60年安保”の頃、朝日が過激派の肩を持つように見えたので、他紙に一時期切り替えた記憶がある。就職先で小生は「新聞係長」を務めたことがあるが、バイトで新聞配達をした経験が、なにがしかのプラスになったように思う。

 

 ○行商みたいなこともした。新しくできた印鑑の朱肉を売るバイトをしたことがある。なかなか売れず、二日ばかり続いて全然売れないことがあった。困り果て、隅田川の河畔に佇んで、有名なシェークスピアハムレットの独白To Be or Not to Be(生きるべきか、死ぬべきか)を真剣に考えたこともあった。

 

 ○今の学生は恵まれている。バイトはいくらでもある。パートタイマーが主流みたいになった昨今は、学生だけでなく、主婦やシルバーはもとより“大の大人”達までが時間給のバイトをやらされている。探せばいくらでも「バイト」が見つかる世の中になった。

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(13) 生活あれこれ  ~食う金に困ったことも~

 

 ○“食う金”に困ることもあった。食費が無くなったので、本を売って金に換えようと思ったが、古本屋のある早稲田まで行く電車賃がなかった

そこで近くの交番でお巡りさんに相談した。この本を売った金で必ず返すから、「交通費を暫時用立てて貰えないか」と“交渉”した。そんなことが出来るとは思わなかったが、外に方法は見つからなかった。

 

 ○二人の警官は相談した上で、事情を諒解してくれ、高田馬場までの電車賃を出してくれた。勿論住所氏名を書かされたが、警察と言えばデモなどで「人民を弾圧」するとばかり思っていたので、ビックリしたものだ。

 

 ○本は期待通りには売れず、なにがしかの手に入った端金で、早稲田通りのお焼き屋で一皿のお焼きを食べて空腹を満たした。すぐ戻って帰り、先刻交番で借りたお金を返した。もちろん残りの額は知れていた。

 

 ○学生時代の想い出は、恥ずかしい話ばかりになる。金がなくなると、コッペパン1個でその日を過ごすこともあった。もちろん元気は出ないし、お腹に力が入らなかった。それでも慣れてくると、人間覚悟ができてあまり苦にならなかった。

 

 ○近くのパン屋へ行くと、そこのおばさんは直ぐに“貧乏学生がお腹を空かしている”のが分かるらしく、少し多めにピーナッツをパンに塗ってくれたように見えた。有り難かった。そして美味しかった

 

 ○学生時代は住所を頻繁に変えた少しでも安い部屋を探して移ったからだ。最後は三畳間に落ち着いた。玄関の土間に畳を敷いただけで、友達に「独居房」の様だといわれた。

 

 ○小生は入ったことがないので、念のためネットで独居房を調べたら、「東京拘置所独居房は3畳の広さ。洋式便器、寝具、机はあるが、冷暖房はなし」とある。

小生の三畳間には、便器・机がなく、もちろん冷暖房無しだったから、独居房以下の生活であったことになる。随分と惨めなようだが、当時の真面目な貧乏学生は大体そうだった(?)。

 

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』131巻3945号 2022.6.13/ hideki-sansho.hatenablog.com  No.985