秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

わが山歩記(前篇)

 

 

<編註>

 ○「自分史Review」連載が完結しました。the endにしようかと思いましたが、若干追加しようかと思い立ち、とりあえず「わが山歩記」(2008年執筆)を部分的に投稿することにしました。 タイトルは「散歩記」ではなく「山歩き記」です。

 

 ○原文はすごく長いものですが、その中から概論にあたる部分と、次男Yとの山行記に限って掲載します。いわゆる「山男」などとは無縁の、平凡なサラリーマンで、たった20年間の山歩き(単独)をしたに過ぎません。2回に分けて投稿します。初回の本稿は概論みたいな山行記録です。ご通覧いただければ嬉しいです。

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 <はじめに>

 

 ○2006(平成18)年7月に“古稀”を迎えて書き始めた「自分史」。『子供の頃の想い出』が翌年3月に完成し、その続編『青春の追憶』は、三つの青春~①盛岡一高、②早大、③NDL(国立国会図書館)を圧縮した形で収録し、71歳の誕生日の昨年2007年7月に書き終わりました。

 

 ○小生は現役時代に20余年間、時々山に出かけていた。単独山行で低山中心だったが、山に行かなくなってから既に14年が過ぎた。少しまとめてみる気持になり、少しづつ登山記録を整理しながら書きかけてきたが、今回やっと完成にこぎつけた。いわば、自分史の第三段にあたります。

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1)山との距離感

 

 ○何しろ、岩手の山村に生まれ、文字どおり山に囲まれた集落で育ったので、特に「山」を意識することはなかった。「東北の山村出身」ですから。

 

 ○ただ、青森県域に近い生家の畑から間近に「名久井岳」が見え、はるか遠くには「八甲田連峰」が霞むように望まれた。「高いところから見る山はいいなあ」と思った。しかし、高い山は遠くから眺めるもので、それに登ることなど考えも及ばなかった。

 

 ○NDL(国立国会図書館)時代、夏になると山岳部の人たちが登山に出かけ、真っ黒に日焼けして帰ってきた。真っ先に休暇をとって山に出かけ、帰ると行って来た山の話ばかりしているのを聞き、「山がそんなに良いのか。俺なんか山の中で育ったんだぞ」と、心の中で呟いたものだ。

 

 ○そんなこともあり、♪山男にゃ惚れるなよ、とか、♪俺たちゃ街には住めない・・・の山の歌は好きになれなかった。また、山行きは“現実からの逃避”みたいに云われたり、思ったりしていたから?、「俺は逃げないぞ」「山になんか行くものか」と強がっていた。山村生まれの自分は、山に登りたい気持は全くなかった

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2)山への親近

 

 ○40歳を迎える頃から「健康のための山歩き」を考えるようになった。昼休みの皇居一周マラソンを5年間続けたが、そのうちに走るのも飽きた。いわゆる仕事などのストレスも感じるようになり、それまでバカにしてきた山に目が行き、「俺も山に行ってみようか」という心境になった。

 

 ○それでも、山岳部の連中や友人と一緒する気持にはなれず、「単独山行」を選んだ。誰にも拘束されず、自分の都合のよい日、気が向く日に山へ自由に出かける。それが良いと思った。また、群をなし、リーダーの指揮で動くことへの抵抗感?があったかも。20年山歩きをしたが、最初から最後まで独り旅を通した。

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3)山歩きスタート

 

 ○1年間務めた組合の委員長を辞めたのが、確か1973(昭和48)年の37歳の夏。多忙を極めた1年間の疲れを癒す意味も込めて、山へ足を運んだのが山歩きの始めだったように記憶している。

 

 ○最初に登った山がどこだったか思い出せないが、メモが残っていて確認できるのは、39歳の秋(1975/昭和50年)に息子のT、Yと三人で行った奥多摩(御岳/日の出)です。しかし、その2年ぐらい前に何処かの低山に行ったように思うが、記録も記憶も定かではない。

 

 ○人間わからないもので、敬遠していた筈の山に一旦行き始めるや、その魅力に取り憑かれ、結局20年余り山歩きを堪能したことになる。つまるところ、山国育ちの自分は山と無縁では済まなかったようだ。

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4)山行の記録

 

 ○山歩きの記録は、簡単なメモから詳細なものまで残っている。しかし全ての山行が漏れなく書き留められているとは限らない。

 

 ○古い手帳やメモを取りだして記録を整理した。次男Yを連れて行った山歩きは、息子がが大きくなったら読めるように、詳細な記録を残している。二人の山行はたった2年間であったが、精細な文章が毛筆で認められている。(当時小生は書道をやっていたから)

 

 ○遺漏はあるものの、多くの記録が残されていることに実は驚いた。行く度に新たな発見・感動があり、衝動に駆られてメモしたように記憶している。カメラ持ちなら写真をとるでしょうが、カメラ無しの小生は「記憶」と「記録」に頼った。

 

 ①年度別の登山回数(記録で確認できるものに限る)

 

 ○1975年(昭和50)1回    ○1985年(昭和60) 0回

 ○1976年(昭和51)4回      ○1986年(昭和61) 6回

 ○1977年(昭和52) 18回      ○1987年(昭和62   1回

 ○1978年(昭和53) 6回      ○1988年(昭和63)9回

 ○1979年(昭和54) 0回   ○1989年(昭64平1) 16回

 ○1980年(昭和55) 7回    ○1990年(平成2) 7回

 ○1981年(昭和55) 0回    ○1991年(平成3)11回

 ○1982年(昭和57) 1回    ○1993年(平成4)  6回

 ○1983年(昭和58) 0回    ○1993年(平成5)  9回

 ○1984年(昭和59) 0回    ○1994年(平成6) 9回

                          合 計   111回

 

 ②山系別の内訳

  ○丹沢       25回

  ○大山       10回  

    奥多摩      15回

  ○高尾陣馬     13回

  ○奥武蔵       8回

  ○道志・中央線沿線  9回

  ○奥秩父       7回

  ○箱根        5回

  ○大菩薩       4回

  ○八ヶ岳       4回

  ○北アルプス     4回

  ○南アルプス     3回

  ○中央アルプス    1回  アルプス合計 8回

  ○その他       3回 

  (筑波山磐梯山金華山

  ◉合 計     111回 

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5)登山の展開

 

 ○記録によれば、小生の山行は20年間で111回である。単独・日帰りの登山だったので、実際に登った山の数は多くはない。つまり、同じ山に何回も行ったのでした。

 

 ○日帰りで何度も足を運んだ山は、首都圏の高尾・陣馬・奥多摩・奥武蔵・大山・丹沢・大菩薩・奥秩父八ヶ岳、中央線沿線の山、箱根山等だ。3千mに近い八ヶ岳、2千mを少し超える大菩薩嶺を除けば、2千m以下の低山の部類に入る山だが、どれも立派な山でそれぞれに魅力一杯だった。

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 ○以下、山系別に概観してみたい。

 

高尾・陣馬

 ○高尾山(599)から陣馬山(857)縦走は登山入門コースみたいで、家族で親しめる。どちらからでも登れる。途中の城山・小仏峠・景信山(727)・明王は何とも素敵だ。Yもよく連れて行った

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奥武蔵

 ○奥武蔵の山域は、自然歩道・ハイキングコースも含み、家族連れにはもってこいだ。天覧山(195)・多峰主山(とうのす271)・和田山(305)は超低山の奥武蔵入門のハイキングコースだ。北部の堂平山(どうだいら876)・笠山(837)。正丸峠(しょうまる)・クサリ場のある伊豆ケ岳(851)・子の権現(ねのごんげん)のコースはポピュラー。

 

 ○千mを超す大持山(1214)・小持山(1273)。何と言っても盟主は雄峰武甲山(1295)。小生の大好きな山で何回も登ったが、石灰岩採掘のため山頂部分まで削り取られた不運の山だ。しかし、独特の山容を誇る独立峰で、遠くから望んでも直ぐに分かる名山だ。

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道志 / 中央線沿線の山

 

 ○中央線沿線の山へもよく行った。1000mちょっとの百蔵山(ももくら1033)、扇山(おうぎ1138)の魅力は忘れられない。御正体山(みしょうたい1682)は展望はきかないが、道志山塊の最高峰。圧巻は乾徳山(けんとく2016)で、巨岩が山頂部に累積し、360度の展望が得られる。2000mを超素敵な山だ。

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富士山周辺

 ○富士山を取り巻く、三ツ峠山(1786)、黒岳(1793)、毛無山(1946)、石割山(1413)などは流石であった。愛鷹連峰(あしたか)は確かに歩いたが、記録がない。

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箱根山

 

 ○箱根の山は範囲は狭いが、なかなかの名山揃いだ。代表格は何といっても金時山(1213)。どこからでも分かる独特の山容と山名に魅かれ、五・六回足を運んだ。100回以上も登山した人たちもいる。金太郎伝説・富士山眺望の魅力に加え、“金時娘”会いたさと登山回数の競争意識もあるようだ。

 

 ○明神ケ岳(1169)、明星ケ岳(924)のパノラマコースも楽しく、ケーブル・ロープウエーで登る駒ヶ岳(1327)から箱根の主峰・神山(1438)を結ぶ中央火口丘コースは素晴らしい。

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奥多摩

 

 ○奥多摩は山域が広く、親しみやすい。御岳山(みたけ929)、日ノ出山 (902)は千mに満たない低山だが、山登り入門の代表的コースだ。奧多摩湖の背後の本仁田山(ほにた)は1000mちょっとだがバカにできない。独特の鋭鋒大岳山(1267)、なだらかな御前山(1405)、そして1500mを超す三頭山(みとう1528)は奥多摩南部の縦走には最適だ。

 

 ○西部の六ツ石山(1479)、鷹ノ巣山(1737)、七ツ石山(1753)の縦走も然り。最西端に坐す雲取山(2018)は東京都最高峰の名山で、登頂も容易ではない。山名通り、まさに雲を取るほどの高い山であり、三峯神社への縦走は長い。北部の高水三山川苔山(1364)、蕎麦粒山(そばつぶ1473)、東部の戸倉三山などにもよく足を運んだ。

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大菩薩(だいぼさつ)

 

 ○大菩薩峠は、中里介山の小説でよく知られるが、2057mの大菩薩嶺を含む魅力は何ともいえない。登山口の裂石から上日川峠を通り、福ちゃん荘を経て大菩薩峠に達するポピュラーコースにYを連れて行った。峠から大菩薩峠越えのロングコース(小菅大菩薩道)を歩き通して奥多摩へ出た。(1978年7月15日、Yの11歳誕生日記念登山)。

 

 ○大菩薩峠から滝子山への小金沢連嶺縦走は素晴らしいの一言に尽きる。雁ケ腹摺山(がんがはらすり1857)は、名前の由来(渡鳥であるガンが腹を擦るように越えて行く)もさることながら、500円札の富士山を撮影した場所に恥じない、立派な富士山展望山でもある。

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 八ガ岳

 

 ○八ガ岳は2500から3000をうかがう高山連峰だ。主峰赤岳(2899)・阿弥陀岳(2806)などの南部は本格的な山だ。赤岳(2899)・横岳(2835)・硫黄岳(2742)の南八ガ岳縦走アルペンムードが味わえる。最南端はドーム状の権現岳(2715)と鋭鋒の編笠山(2574)が対照的だ。北部の縞枯山(2402)・茶臼山(2370)コースは、縞枯れ現象が何ともいえない。

 

 ○北八の池めぐりは、静粛な深山の雰囲気。南部も北部も縦走したが、忘れられない愛すべき山だ。円錐形の蓼科山(たてしな2530)登山は、途中コースを一部間違えたこともあり、忘れられない思い出がある。

 

 ○1991(平成3)年7月には、小生「55歳の誕生日記念登山」。2泊3日で「八ヶ岳」登山。主峰赤岳(2899)を含む南八ヶ岳縦走で本格登山を実感した。

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丹沢山

 

 ○丹沢山塊は、何度も行った山の中でも、峻厳かつ広い領域を誇る本格的な山々だった。表尾根ヤビツ峠~塔ノ岳)、主稜塔ノ岳~蛭ケ岳~桧洞丸)、主脈塔ノ岳~蛭ケ岳~焼山)は、三つの魅力的な縦走コースだ。特に、ヤビツ峠から登り、二ノ塔(1144)・三ノ塔(1205)・烏尾山(1136)・行者岳木ノ又大日(1396)・塔ノ岳(1491)を経て、大倉尾根を下る(逆まわりも可)「表尾根縦走」は魅力満点だ。

 

 ○大倉尾根から登り、塔ノ岳・丹沢山(1567)・不動ノ峰(1614)・蛭ヶ岳(ひるがたけ1763)・臼が岳金山乗越桧洞丸(ひのきぼら1601)・犬越路(いぬごえじ)・西沢自然教室に下る「主稜縦走」は、二日がかりで12時間以上を要する、丹沢を満喫できるロングコースだ。

 

 ○小生は蛭が岳から桧洞丸への歩きが好きだ。桧洞丸の頂上は展望には恵まれないが、静かで落ち着く山だ。近辺にはツツジの花がみられる。桧洞丸から西丹沢自然教室へのツツジ新道」には、シーズンには綺麗なツツジが咲き乱れる。

 

 何回でも行きたいのが西丹沢だ。犬越路を西北に登れば、大群山(おおむれ)=大室山(おおむろ1588)、加入道山(1419)だ。東京から見ると、富士山を挟んで大山・丹沢山塊の反対(右側)にはっきり見える。西丹沢の魅力は抜群だ。丹沢三峰鍋割山(1273)、畦ヶ丸(1293)、同角山稜などもある。なお、小生は安全第一で丹沢の「沢」には近寄らなかった

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大山

 

  大山(1246)は丹沢山塊に含まれるが、独立峰でもあり、三角形の秀麗な山容は見るからに山らしい。雨乞いの山でもあったので、雨降山(あふりやま)の別名をもっている。中腹には阿夫利神社下社、頂上には阿夫利神社奥社がある。大山詣で有名でもある。大山不動もあり、紅葉の季節は多くの人が集まる名所だ。けっこう登りもきついが、頂上では好展望が得られる名山だ。

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秩父

 

 ○奥秩父は、2千mを超える高山の連なりだ。甲武信岳(こぶし・2475)は名前からしてどうしても行きたい山だった。甲武信小屋へ一泊しての、木賊(とくさ2469)・甲武信岳三宝山(2483)・破風山(2317)・雁坂峠(2082)の縦走は全くの素晴らしさであった。

 

 ○金峰山(きんぷせん2598)、瑞牆山(みずがき2230)、国師岳(2592)、北奥千丈岳(2600)、笠取山(1491)などにも登ったが、出色は瑞牆山だ。鋭い岩峰からなる山頂は遠くからでも直ぐ分かる。

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その他

 ○「宝の山」会津磐梯山(1819)、低山だが美しい双耳峰の筑波山(876)、日本ジカ、サルが棲息する金華山(445)にも登った。

 ○なお、本項は、主たる山だけ思いつくままに書いた。記載しなかった山も含め、山歩きのデーテールは終章「12.登山の詳細記録」に収められている。(但し、長文なので、本ブログへの掲載は割愛

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6)脱「日帰り」

 

 ○日帰りで同じ山に行くといっても自ずから限界があり、次第に山歩きの範囲が広がった。完全日帰りだけでは消化できなくなり、登山開始から2年目の1977(昭和52)年10月、雲取山(2018)から三峰山(1102)へ縦走のため、スタート地点の鴨沢に1泊(前夜泊)。

 

 ○翌年の1978(昭和53)年、Yの11歳誕生日に、初めて「夜行日帰り」で大菩薩(2057)に登った。記録メモによれば、7月15日の夜新宿発最終の23:55電車で翌16日の2:23に塩山到着。始発バスが出る6:25まで4時間バス停で仮眠した。真夏なのでこんな芸当ができたが、Yが覚えているかどうか。

 

 ○病気(1985年胆嚢炎)が恢復した1987年元日、丹沢主稜縦走に際し、蛭ケ岳山荘に1泊した。1989(昭和64)年11月には、甲武信小屋に1泊。1990(平成2)年4月には、雁腹摺山(1857)、黒岳に登るため、金山鉱泉に前夜泊した。

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7)中央アルプス ~アルプスへの挑戦 ~

 

 ○1988(昭和66)年、妻K子と一緒に中央アルプス剣岳」(ほうけん2931)に登った。駒ヶ根からバスで標高1661mのしらび平駅に向い、そこから標高差千mを8分で結ぶ駒ヶ岳ロープウエーに乗って千畳敷駅に到着した。千畳敷は、名の通り広大なカールだ。千畳敷駅からは宝剣岳は直ぐ。そそりたつ岩壁をクサリ場を巻いてよじ登ると山頂だ。

 

 ○初のアルプスとはいえ、ロープウエーを使っての登山。しかし、この貴重な経験と喜びは、「アルプスなんて、自分の行くところではない」と思っていた登山観に衝撃をもたらした。15年間も山に登り続けた自信みたいなものが、宝剣岳登頂を機に生まれたのかも知れない。K子との初山行でもあった宝剣岳登山は、記念すべき日ではある。

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8)南アルプス 日本アルプスの本格登山~

 

 ○1990(平成2)年8月25日~27日、南アルプス鳳凰三山」(薬師岳2780・観音岳2840・地蔵岳2764)に登った。夢と思っていた初めてのアルプス登山、しかも初の二泊三日。あの時の感動と感激は、生涯忘れない。単独でアルプスに登れたことは、小生の登山史に新たなページを開いた。

 

 ○鳳凰三山に続き勢いがついたのか、翌1991年7月25日~28日に南アルプス甲斐駒ヶ岳2966と仙丈岳3033(甲斐千丈)に登った。二回目の南アルプス、しかも初めての3000m峰(2泊3日)。黒戸尾根からの甲斐駒登頂は大儀であったが、登り甲斐があった。

 

 ○強い魅力に引かれ、20日後の8月17日~19日には、三回目の南アルプス挑戦で、念願の富士山に次ぐ高峰北岳」(3192)に登った(2泊3日)。素晴らしい高山で、初めて「ブロッケン現象」を目の当たりにして感動した。泊まった北岳山荘も整備されていた。

 

 ○なお、予定では北岳から間ノ岳農鳥岳への「白根三山縦走」だったが、手違いで北岳1山に終わった。しかし、とても無理と考えていた北岳登山・登頂」は、小生に驚愕・感動・歓喜をもたらした

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9) 北アルプス登山

 

 ○南アルプスから、今度は北アルプスへの挑戦が始まった。第一段は、1993(平成5)年7月29日~8月3日の「燕・槍・西穂」へのアタックだ。山小屋・温泉に4泊6日の生涯最高最大のロング登山

 

 ○燕岳(つばくろ2763)、槍ケ岳(3179)、大喰岳(3101)、中岳(3084)、南岳(3033)、西穂高岳(2909)、新穂高温泉など、魅力満点のコースだった。なだらかだが何とも形容しがたい魅力の燕岳(つばくろ)、恐い思いで登り切ったスリル満点の槍ヶ岳登頂。「槍登頂」は「これこそアルプス。った!」の実感。

 

 ○山仲間たちから一斉に「祝福と歓迎」拍手が起こり、感動と山仲間の連帯感に包まれた。見事な展望だが、槍先のような狭く険しい山頂のため、下からどんどん登ってくる登山者に山頂を明け渡さなければならない。独り占め。長居はできない

 

 ○ロープウエーも使った西穂高岳。楽しみにしていた南岳から北穂高への大キレットは雨模様のため割愛せざるを得ず、北穂・奥穂への登頂はできずに終わったのは残念であったが、忘れられない思い出である。

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 ○北アルプス第二段は、10日後の8月12日~15日の「白馬岳」(しろうま2932)登山だ。憧れの白馬岳は素晴らしかった。当初予定した杓子岳、鑓ケ岳に足を伸ばせなかったのは残念だったが。因みに、白馬岳はシロウマ白馬村はハクバと読むことを知りました。(小生はもしかして、両方ともハクバと読んでいた?)

 

 ○北アルプス第三段は、翌1994(平成6)年)7月17日~20日立山・剣登山」(58歳誕生日記念)だ。室堂に始まる、立山(又は立山三山)を構成する雄山(3033)、大汝山(3015)、富士ノ折山。そして、立山連峰と称される浄土山(2831)-立山別山雄大な縦走。

 

 ○剣沢小屋に泊り、一服剣・前剣からいよいよ剣岳(2998)。この剣登頂は「登山」の醍醐味を知った思いだ。最後の登頂は、垂直の岩盤をクサリに掴まって登るまさに“命がけ”ともいうべき難関だった。滑落をも覚悟した必至のアタックであった。よくぞ無事に登り切れた、と感心するほかはない。

 

 ○別山乗越から雷鳥、新室堂乗越を経て、奥大日岳(2611)に登り、地獄谷、室堂平を経て、富山県富山市へ出て宿泊した。

 

 ○北アルプス登山の締めとなったのは御岳山木曾御岳きそおんたけ3067)だ。入山は木曽福島、下山は岐阜。富士山、白山と並び称される信仰の霊山で、遠くからの山容は荒々しく堂々とした独立峰だが、山頂はひろく、何ともいえぬ魅力がある。ナンジャラホイ」と謡われるだけの名山だ。離山に際し、「もう一度必ず来たい」と思った。

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10) 未踏峰の名山

 

 ○おかしなもので、誰もが真っ先に行く「富士山」穂高(西穂には登ったが)は未登頂だ。富士山には「そのうちに」と毎年思っているが。ともあれ、単独で本邦第二の高山「北岳」をはじめ、「槍」「剣」「立山」「白馬」「木曾御岳」「甲斐駒」「仙丈」「宝剣」「鳳凰三山」などの、日本アルプス名峰に単身で登れたのは生涯の至福である。

 

 ○本格的な“山男・山女”から見れば、「何だ、その程度か」と思われるだろうが、本人は大満足だ。自分一人でアルプス登山(一部の山域とはいえ)をやってのけたのだから、自分的には“快挙”というほかはない。

 

 ○高い山はともかく、近くの低山を気楽に歩いてみたい気持は今でもあるが、心臓を患ったり、ウォーキングにはまったりで、山行きは中断したままになっている。ウォーキングで「地球一周(4万キロ完歩)」を本年(2008)7月7日に達成したのでアル中(歩き中毒)にも一区切りつけた。機会があれば「軽い山歩き」を再開してみたい。

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<編註>

○次号では、次男Yとの山行記録を投稿します。お楽しみに!

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』131巻3950号/2022.6.27/hideki-sansho.hatenablog.com  No.991