秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

「令和」改元(4)~日本史の歴史区分を考える。

 

昭和20年の敗戦/終戦を境に、日本は180度の大転換をしました。

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(1)日本史の時代区分は(吉川弘文館『日本史年表・地図』によれば)、先史時代、歴史時代に始まり、白鳳時代奈良時代天平時代)、平安時代(初期・中期=藤原時代・後期)、鎌倉時代南北朝時代室町時代(戦国時代)、安土・桃山時代、江戸時代(初期・中期・後期)と呼ばれます。都や幕府の所在地による時代名で呼ばれます。

(2)それが明治時代(いわゆる近代)からは、明治時代、大正時代、昭和時代、平成時代と、元号天皇)による呼称へと変わっています。明治維新以降の天皇中心政治の反映でしょうか?6日後に迫った改元後は、やはり「令和時代」と元号で呼ばれると思います。いや、すでにそう呼ばれています。

(3)昭和の初期に生まれた私などは、昭和・平成時代が自分の時代だとの意識が強いです。「明治は(遥か)遠くになりけり」です。昭和の後を承けた平成時代の日本は、戦争のない文字通りの平成・平和の時代でした。

(4)昭和時代は60年以上の長期間に及び、この間いろんなことがありました。

昭和20年の敗戦/終戦を境に、以前と以後は全く異質の時代となりました。つまり、昭和20年8月の終戦までの20年は、大日本帝國憲法明治憲法)下の、天皇制(天皇中心の国家体制=「日本史広辞典」、近代天皇制(岩波日本史辞典)と呼ばれる時代でした。

(5)これに対して。終戦後の70余年は、日本国憲法平和憲法・民主憲法)下の、国民主権の平和と民主主義の時代となりました。国民が国の主人公となり、天皇は「象徴天皇」となったのです。つまりは、日本の歴史は180度の大転換をしたのでした。国民学校生でこの歴史的な変遷に直面した私らの世代は、その時の衝撃を昨日の様に鮮明に覚えております。

(6)私の関心は、後世の歴史家がどう書くか注目しています。それは、60余年にわたる昭和の時代を文字通り「昭和時代」一本で通すのか、それとも昭和時代を終戦前と終戦後に分けた時代区分にするかです。元号天皇名でいえばもちろん「昭和時代」なわけですが、全く異なる政治体制をどう区別・関連づけるかは、大きな課題ではないでしょうか? 実際に天皇退位の動きもあったようですが、当時の日本の支配層や占領者の思惑も絡み、天皇制が維持されたとも言われています。

(7)「国破れて山河あり」はよく覚えていますが、いま念のためネットの「故事ことわざ辞典」で調べたら、→杜甫の詩『春望』の冒頭の句「国破れて山河あり、城春にして草木深し」(国は滅亡したが山や川はそのままで、もちには春が訪れ草木が茂っている)、と出てきました。あわせて、「国れて山河あり」と書くのは誤り、とあります。

(8)昭和20年の日本は「国が敗れた」だけでなく、「国が破れた」に等しい状態でした。あの戦争と敗戦結果、国民は想像を絶する犠牲を払い、苦難を被ったのでした。アジア諸国民も大きな被害を被りました。こういう時代を今の天皇陛下は目の当たりにされたのです(私と同様)。天皇「象徴天皇の立場で展開された諸行動の深奥には、先の大戦への思いが秘められておられる、と私は思います。天皇自らは「象徴天皇」と言われるだけですが、私は一国民として「平和天皇とお呼びしたいのです。

(9)日本史の時代区分は、冒頭に記したように、奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代、江戸時代などのように、都や幕府の所在地で呼ばれていたが、何故か明治からは、天皇元号名で、明治時代・大正時代・昭和時代・平成時代、と呼ぶようになりました。天皇制の国家づくりが明治維新の目的であったことと関連していると思います。

(10)さて、1868年の明治維新により、徳川幕府が崩壊し、天皇も京都から東京へ移られ、江戸が東京と改称されました。従来の流れからいえば、武家社会に決別した新体制が東京で始まったのだから、「江戸時代」の次は「東京時代」でもよかったような気がしないでもありません。江戸が東京に改称しただけで、場所が変わったわけではない、との考えもあるでしょうが。

 

以上、令和改元・令和時代の開幕を目前にして、日本史における「時代区分・名称」を取り上げてみました。天皇退位、新天皇即位、平成から令和への改元、、、厳粛な国家的行事が迫っています。私もなんとなく緊張を覚え、厳粛な気持ちになっています。

そんな心境を踏まえて本稿をまとめました。なんか、生真面目な論稿となったかもしれません。『秀樹杉松』は軟派記事が主流かと思いますが、たまには硬い記事も発信します。

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『秀樹杉松』106巻28424号 2019.4.25/ hideki-sansho.hatenablog.com #484

「令和」改元(3)~平成時代から令和時代へ。今上天皇は「象徴天皇」「平和天皇」「国民共在天皇」でした。天皇陛下と美智子皇后様、ありがとうございました。

 

「平成最後」のカレンダーと、庭に咲いたカキツバタコデマリの活け花(書斎)

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「平成最後」を惜しんで 美しく咲く花々  

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「平成」もあと1週間で終わり、新しい「令和」の時代を迎えます私も歳をとったせいか、昭和から平成の時より、なんか、我々自身が歴史の証人になった感じがする昨今です。31年前は、現役で仕事に励んでいたので?、今回ほど感慨はありませんでしたが。 

やはり、天皇・皇后両陛下が同世代であることからくる“親近感”が第一でしょう。それと、陛下ご自身が強調される「象徴天皇の在り方を追い求められ、常に「国民とともに」を貫かれたお姿を目の当たりにしてきたからでもあります。先の大戦による犠牲者への慰霊のため、国内にとどまらずアジア諸国をも訪問された行動には、「平和天皇の称号を差し上げたい気持ちです。

平成時代平和時代 でした。まさに、「平和成る」ですね!「令和」にが引き継がれます。

 

そして、大きな災害が続いた平成時代にあって、犠牲者への追悼と被災者へのお見舞いのために、被災地を訪れ被災者にお言葉をかけられました。私はこのお姿に、常に国民と共にあられる天皇という意味で「国民共天皇の称号を捧げたいと思います。

 

間もなく退任される今上天皇は、如上の「象徴天皇」「平和天皇」「国民共天皇を、身を以て貫かれました。政治家はともすれば、“巧言令色”を恣にして、「真摯」「全力」「万全」「反省」などの美辞麗句を連発しますが、天皇陛下の「おことば」は、そのまま素直に受け取れます。

 

残念なことに近年、“保守政治家”(実際は右翼的政治家?)と称される人々が、象徴天皇制への無理解をあからさまにして、象徴天皇を貫かれようとされる天皇を公然と”批判”する動きも見られます。自らの“天皇の政治的利用”は棚に上げての、こうした潮流・動静は困ったものだと考えております。

 

以上縷々書き留めましたが、私の立場はいわゆる「天皇・皇室崇拝主義」ではありません純粋に平凡な国民の一人の立場から、退位される天皇・皇后両陛下への、感謝の気持ちを込めて、いまの心境を率直に表明したに過ぎません。

天皇陛下、そして美智子皇后様、本当にありがとうございました。これからもお元気にお過ごしください。

天皇・皇后両陛下は、類い稀なる名君・皇室として、歴史にそのお名前が刻まれることでしょう。

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『秀樹杉松』106巻28423号 2019.4.24/ hideki-sansho.hatenablog.com #483

「令和」改元(2)~ 昭和から令和へ。~「和」の付く元号は(調べたら)全部で20です。やはり「和」は良い字なんですね

 

本ブログ『秀樹杉松』前号で、大田南畝の『改元紀行』の年の享和元年(1801)に言及しました。

ところで、4月の新元号発表前の1ヶ月余は、「新元号は何になるか」が注目され、多くの報道がなされました。これで、今年の流行語大賞は「新元号」に決まった?感じでした。

 

昭和から令和へと「○和」の元号が連続し、1世紀ちょっと前は享和であったことに因み、元号に「和」が付くのが多いようだと考え、ウイキペディアで調べてみました。その結果は「和」のつく元号は20確認できました。

 

和銅(708)、承和(834)、仁和(885)、王和(961)、安和(968)、寛和(985)、長和(1012)、康和(1099)、養和(1181)、正和(1312)、貞和(1345)、文和(1352)、永和(1375)、弘和(1381)、元和(1615)、天和(1681)、明和(1764)、享和(1801)、昭和(1926)、令和(2019)

 

「和」が前に来るのは冒頭の「和銅」だけで、他の全部は「○和」というように後ろにきます。「和」がこれだけ多用されているのは、やはりこの字義、意味からきているのでしょう。また、「しょうわ」が、三つ(承和・正和・昭和)あることも分かりました。

 

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備え付けの漢和辞典etc.  

 

「和」漢和辞典によって説明は多様ですが、「やわらぐ・やわらか」、「なごむ・なごやか」に収斂されるようです。なるほど、昭和の次が令和となるのも宜(ムベ・ウベ)なるかな。

 

今回調べて「おや?」と感じたことがあります。それは「和」の解字・原義です。私はこれまでは、和は「禾へんに口」だと思っていました。禾偏は実った穂が垂れ下がる意味なので、それと関係すると思い込んでいたのです。

 

調べて驚いたことに、何と!「和」は禾偏ではなく、口部の漢字で、元の字は、口(左側)+禾(右側)となっているのです。手許にある三つの漢和辞典等の記述は、次の通りです。

 

<角川漢和中辞典>

形成語。カが音を表し、加えるの意の語源(加)からきている。人の声に応じて合わせることを原義とする。ひいて、心を合わせてやわらぐことの意。「口+禾」は本字

 

<学研漢和大字典>

は粟(あわ)穂のまるくしなやかにたれたさまを描いた象形文字カ(丸い穴)とも縁が近く、かどだたない意を含む。和は「口+音符禾」の会意兼形成文字口+禾は、和の異体字

 

何だか、両辞(字)典で違いますね。共通しているのは元の漢字は「和」ではなく、口+禾(口が左で、禾が右)だということです。その場合でも、その字を角川は「本字」だとし、学研は異体字だとしています。また、「和」を角川は「形成語」とし、学研は「会意兼形成語」としており、漢和辞典の説明・解字は意外と違いが見られるようです。

何れにしても、「和」はいい漢字にはちがいなく、20回も元号に登場するのは納得できます。

 

<字統白川静平凡社

最後に手元の「字統」を、念のために見たら、こう書かれています。

会意(か)ととに従う禾は軍門に立てる標識で、左右両禾は軍門の象。口はさい祝祷を収める器で、この字においては軍門で盟誓し、和議を行う意である。故に和平の意となる。

(注:ここでは「平和」「和平」の意味ですね。)

 

それにしても、同じ漢字でも、辞典等によってこうもニュアンスが異なるものですね。ですから、私は漢和辞典の類は、複数備え付けております。

 

『秀樹杉松』106巻2842号 2019.4.22/ hideki-sansho.hatenablog.com #482

「令和」改元。坂学会「坂研究会」に備え、大田南畝『改元紀行』、ドナルド・キーン『百代の過客』を読む。「享和改元」(1801年3月19日)と「令和改元」(2019年5月1日)、118年後に「和」で一致しました!

 

 間もなく、新天皇が即位し、令和時代が始まります。

10日後の5月1日には、皇太子様が天皇に即位され、雅子さまが皇后になられ、新しい「令和時代」がはじまります。待ち遠しいですね。

 

さて、私は昨年の暮れに「坂学会」に入会し、学会の諸先輩と坂歩きや坂勉強会に参加していますが、来月の「坂学会研究会」は次のような内容です。

○テーマ:大田南畝改元紀行』と東海道の坂・峠

○講師:松本崇男 坂学会「坂研究会」座長(坂学会理事長) 

○内容(松本座長からのメール)

改元紀行』と他の文献との比較をしながら、南畝が歩いた東海道の坂について検証します。改元紀行』は、支配勘定役だった大田南畝が享和元年(1801)二月に、一年間の予定で大坂銅座詰となって赴任した際の東海道旅紀行です。

南畝はこの旅の準備に『東海道名所記』『東海道名所図会』『東海道分見絵図』などを読んでいたようで、東海道の坂について多くの記述が見られます。(名前のある坂 43坂+2)

改元紀行』に記載された坂のみを扱うため、『改元紀行』の読み方としては偏っています。本文に興味のある方は、以下を参考にしてください。

1、『改元紀行』は、大田南畝全集第八巻(1986年岩波書店刊)に掲載されています。

2、ドナルド・キーン著『百代の過客』(日記に見る日本人)(講談社学術文庫所収)でも『改元紀行』を取り上げています。短い文章ですので一読をお勧めします。(松本座長からの坂学会会員宛メール)

 

このほかメールには『東海道の坂一覧』が添付されています。これらの予備知識を踏まえた予習が促されています。松本座長の「研究会」は、このように充実したものになっています。早速に私も予習を始めているところです。

 

大田南畝改元紀行』 

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大田南畝

本号の目的は、次回の坂研究会で取り上げる大田南畝改元紀行』についてです。10日後には「令和改元」となりますが、大田南畝蜀山人)の著書にいう改元「享和改元のことで、今回の「令和改元と漢字が似ているので、私(Atelier秀樹)の注目を引きました。もう一つは、当時は辛酉革命に当たると改元しており、寛政13年2月5日(グレゴリオ暦 1801年3月19日)に享和と改元されたようです。改元された享和元年に任地の大坂へ旅立つ紀行なので、改元紀行』と名付けたのでしょう。

奇しくも2世紀を隔てて、同じ「和」のつく元号になりました。

 

ドナルド・キーン『百代の過客』(はくたいのかかく) 

松本先生からのメールにあった、ドナルド・キーン『百代の過客』(日記に見る日本人)を紀伊国屋で購入しました。講談社学術文庫で正・続2冊の文庫本で4千円でしたが、おかげさまで未読だった本書を読んでいます。坂研究はこのように、単なる坂研究にとどまらない勉強もできるので、坂学会に入ってよかったです。

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『百代の過客』ドナルド・キーン著)(講談社学術文庫

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『秀樹杉松』106巻2841号 2019.4.21/ hideki-sansho.hatenablog.com #481

東北楽天、10勝一番乗りで、パリーグの単独首位! 〜頑張れ!平石洋介監督、イヌワシ軍団 

 

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                                      『日刊スポーツ』2019.4.18
 

4月8~10日、遅ればせながら、3.11のお見舞い岩手県三陸海岸へ行ってきました。発生から8年を経過した、大震災による被災の傷痕と復興の状況を垣間見ました。復興のシンボルともいえる、全線開通の三陸鉄道リアス線(全線)に乗り、途中宮古で下車して、絶景の浄土ヶ浜も見てきました。この慰霊と復興の旅は、本ブログ『秀樹杉松』に3号にわたって投稿連載しました。

 

4/12の本ブログで、今年のプロ野球昨年最下位の楽天が首位(パ)、優勝の広島が最下位(セ)でスタート、を取り上げ、単なる開幕初頭の現象・春の珍事に終わるかも知れないが、「今年のプロ野球は面白くなりそうだ」と書きました。

 

まだ16試合しか消化していませんが、4/17現在、セリーグではヤクルトが首位、巨人・中日が2位で、広島は首位から6.5ゲーム差の最下位パリーグでは、楽天が首位、1ゲーム差でソフトバンクが2位です。両リーグとも昨年とは大違いで、いつまでこの状況が続くか注目されます。楽天ファンの私は、できるだけ長く続いて欲しいと願っていますが、連敗が続いて、あれよあれよとという間に定位置の最下位?に陥落するかもしれません。

 

東日本大震災(2011)の2年後の2013年に、球団創設9年目の東北楽天ゴールデンイーグルスは、闘将・名将の星野監督のもとで、パリーグ優勝と日本シリーズ制覇を成し遂げました。

今年は、西武ライオンズから浅村を迎えて打線が強化され、平石洋介監督(39歳、PL学園同志社大卒)率る犬鷲(イヌワシ)軍団は、果たしてどこまで戦えるか?

 

 新進気鋭の東北楽天 平石洋介監督

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翔け!犬鷲(ゴールデンイーグルス)軍団

ゴールデンイーグル はイヌワシ(タカ目タカ科イヌワシ属)。 

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『秀樹杉松』105巻2840号 2019.4.18/ hideki-sansho.hatenablog.com #480

平岩弓枝『御宿かわせみ傑作選』(4冊)を読む

 

平岩弓枝御宿かわせみ傑作選』(文春文庫)1〜4

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 同書 蓬田やすひろ 

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歴史小説・時代小説が好きな私ですが、やはり男性作家の作品を読むことが多い。そもそも、女流作家(いまでは女性作家という?)の小説は、古くは山崎豊子、最近では宮部みゆき以外はあまり読んだことがないのです。

女性活躍社会とかいわれるので、もう一人ぐらい読まなくてはと思い、調べたら平岩弓枝さんにたどり着きました。もちろんお名前は知ってましたが、経歴を調べてびっくりしました。

 

平岩弓枝の経歴

→昭和7(1932)年生まれの87歳。日本女子大国文科卒。直木三十五賞(1959)、NHK放送文化賞(1979)、吉川英治文学賞(1991)、紫綬褒章(1997)、菊池寛賞(1998)、文化功労者(2004)、毎日芸術賞(2008)、文化勲章(2016)。作品は御宿かわせみなど多数。

 

御宿かわせみ(オンヤドカワセミ)で思い出しました、だいぶ以前にNHKで数回視聴したことを。今調べたら、NHK水曜時代劇で、全24回(1080.10~1981.3)放映。

そういえば、私は最初「新宿かわせみ」と読んだり、「おんじゅくかわせみ」と読んだり、いい加減なものでした。改めて現物とウイキペディアで調べたら、「おんやどかわせみ 」ですね! 平岩さん、すみませんお許しください。

 

ちなみにウイキペディアによれば、『御宿かわせみ』は、

→「平岩弓枝作の連作時代小説シリーズ。旅籠「かわせみ」を舞台にした人情捕物帳」です。

 

30冊を超える大連作シリーズですが、とても全部を読む気にもなれないので、4冊にまとめられた御宿かわせみ傑作選』~①初春の客、②祝言、③源太郎の初恋、④長助の女房~を、図書館から借り出して読みました。

各冊に7~8編の短編が収められており、読みやすく、内容も素晴らしかったです。感想は省略しますが、間違いなく一読に値します。未読の方には、この傑作選4冊をお薦めいたします。

蓬田やすひろも素晴らしいですから。

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『秀樹杉松』105巻2839号 2019.4.16/ hideki-sansho.hatenablog.com #479

3.11慰霊と先祖墓参の旅を終えて ~中学時代の教師と感激の再会。生徒・教師が一丸となった「新制中学校づくり」を思い出しました。

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4月8日から10日にかけて、東北地方へ行って来ました。直接には「急用」ができたからですが、先祖の墓参と、3.11東日本大震災の慰霊、被災地・被災者へのお見舞い、の旅でもありました。これについては既に、本ブログ『秀樹杉松』の前号(4/13)と前々号(4/12)へ投稿済みですので、お読みくださった方もおられるでしょう。

実を申しますと、ブログに書かなかった大切なことがありました。それは、中学校時代に教えを受けた恩師にお会いできたことです。懐かしさを通り越した、感激の対面でしたので、どうしてももう一稿を起こすことにしました。68年ぶり?の師弟の感動的な再会の記録です。

戦後の学制改革によて、昭和22年に義務教育の新制中学校が誕生しました。しかし当初の何年間は校舎もなく、中学校は小学校に併設され、小学生が下校した後の教室を中学生が使うなど、大変な思いをしました。新校舎ができたのは、確か中3(もしかして中2?)の頃だったように思い出します。新しくできた校舎に、先生も生徒も一体となって、学校づくりに励んだものでした。

今回久しぶりでお会いした中学時代の恩師:古舘久功先生は、2年ばかり前に田舎の神職六十二年 思い出づること』という著書を出版されたばかりで、私に寄贈してくださいました。帰京後早速読みましら、「晴山中学校奉職時代を想う」の項に、次のような文章があります。

→「生徒会の活動も活発になり、当時の〇〇〇〇生徒会長から「校旗をほしい」と、申し出があった訳です。「二万円も校旗に出すより、クラブで使用する物が欲しいのでは?」と、話した処 「学校のシンボルが先である」といい、全校生徒が栗拾いをやり、見事購入された校旗。すばらしい事だと称賛した次第であります。

つまりは、新校舎が完成し、新制(新生)中学校が本格的にスタートするに際して、まず何を優先して備えるか、が問題になったのでした。学校側(校長先生)と生徒会の意見が一致しなかったのです。実は「〇〇〇〇生徒会長」は私だったので、よく覚えております。古舘先生がお書きになっているように、生徒会は校旗と校歌が大切と考え、校歌はできていたので、校旗の作成(購入)を優先すべきだと主張し、図書などを揃えたいとする学校側と“対立?”したのでした。

さて、私も今から12年前の平成19年(2007年)3月に、自分史の最初として『子供の頃の想い出』を書きました。<晴山中学校の時代>の項に、次のような文章を認めています。

→「中学校入学は昭和24年4月だった。校舎がないため、最初は小学校の低学年の教室を使用した。小学生が帰ってからということで、午後から授業を受けた記憶がある。机の高さが低いため、膝の上に乗っけて勉強した」

→「校舎は確か、2年生の時に完成した。場所が遠くなったので、通うのは大変だった。校長先生が、新校舎を期して図書を購入したい意向だったが、生徒会長の自分は未だ校旗がないので、先ずは校旗の作成を、と逆提案してそれが実現した。

:校舎の完成時に私が中二だったか中三だったか、今となっては自信がありません)

70年近くも昔のことなので、「記憶にございません」部分もありますが、校旗の作成(購入)を主張した生徒会は、自分たちで栗拾いをやって稼いだお金を校旗購入に充てたのでした。そのことを先生はご著書で「全校生徒が栗拾いをやり、見事購入された校旗。すばらしい事だと称賛した次第であります。」と記述されておられるのに、正直びっくりしました。学校側の提案に反対して校旗を購入させた経緯に照らし、生徒会、その会長だった私は学校側に嫌われたのかと思っておりましたが、「すばらしい事」と評価されていたとは!

以上でお分かりのように、新制中学校の新校舎の完成は、学校当局(諸先生)だけでなく、当然当時の生徒たちに大きな課題を突きつけたのでした。私は生徒会長として、先生・生徒一丸となって自分たちの中学校づくりに当たるべきだと考えました。そのためには、教師・生徒の立場を踏まえつつも、その違いを超えて、「新しい中学校を創建する」、すなわち共同して「新たな歴史をつくる」。、、、もちろん今だからこそ、このように理論化できるが、中学生の頃どこまで分かっていたかは不明ですが、学校側・先生方と一緒に「新制中学校の歴史づくり」に参加できたのは、本当に幸せな事でした。

 

今回の東北行きは、如上の成果をも含む有意義な旅でした。

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『秀樹杉松』105巻2838号 2019.4.15/ hideki-sansho.hatenablog.com #478