今回は「榎坂」です。横関氏の原著は、榎坂を榎地名、街道などと絡めた研究ですが、本項では榎坂に焦点を当てた内容としました。「秀樹杉松坂めぐり」で歩いた時の写真を添えました。 / Atelier秀樹
榎坂(えのきざか)と榎地名というものは、いつも街道にある。古い榎坂、古い榎地名は古い街道に並ぶ。江戸時代の榎坂は、江戸以前の街道を示している。榎坂のそばには必ず榎があり、または榎のあったところである。場合によると、古い鎌倉街道、奥州街道、中仙道(木曽街道)、甲州街道、日光街道、東海道などを、密かに知らせてくれるものと考えてよい。
江戸時代の榎坂の残っているところは、次の4箇所であるが、これらは他の榎地名とともに、昔の主要な街道を有効に示している。
榎坂 (港区赤坂)
港区赤坂一丁目、アメリカ大使館前辺(嶺南坂下)から西の方(旧福吉町)へ下る小さな坂。『江戸名所図会』の「溜池」のところに、次のような説明がある。
→「池の堤に榎の古木二、三株あり、是を印(しるし)の榎と名づく。昔、浅野左京大夫幸長、鈞名を奉じて此所の水を築止めらる。其臣矢島長雲是を司り、堤成就の後、其功を後世に伝んため、印にとて栽けるとなり。此是より麻布谷町の方へ下る坂を榎坂といへるも、前に述る所の榎ある故とぞ。」
↑ 第73回秀樹杉松坂めぐり(2018.8.22 写真:Atelier秀樹)
台東区池之端(旧茅町)二丁目の「境稲荷」の前を少し行くと、東大病院の東門に出る。此門を入って西北方へ上る坂みちが昔の榎坂に当たると思う。坂上に榎の枯れた木が朽ちたままで立っている。
『十方庵遊歴記』を見ると、「下谷池の端松平淡路の神(松平出雲守)の上やしきに、昔、奥州街道たりし節の一里塚と云物有りて壊(こぼ)もせで古跡を残して今に存せり」とある。
ここに一里塚があったということや、榎坂という名が残っていることは、ここが古い奥州街道であったということを裏書きしている。
<編注>現存しない。
榎坂(港区麻布)
港区麻布飯倉二丁目(現麻布台)の「四辻」から西へ六本木の方へ上る坂。坂の上に左側にソヴィエト大使館がある。『江戸砂子』には「榎坂かはらけ町四辻より六本木通りへ上る坂也、大木の榎ありしゆへとぞ、古江戸地図に榎町とあり」と記す。
↑ 第3回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.25 写真:Atelier秀樹)
前の「四辻」から反対の方向、芝公園の東京タワーの方へ上って行く坂である。『紫の一本』が、その位置を丁寧に説明してくれる。「榎坂、増上寺の裏門の左、切通しより金地院前を通り、牧野飛騨の守の屋敷より下る坂を云…」
<編注1>この榎坂は、坂学会情報では「坂名:永井坂、別名:榎坂、切通坂」となっています。
<編注2>(3)と(4)は桜田通りで分断されているが、元々は一本のつながった「榎坂」だったかも?
↑ 第3回秀樹杉松坂めぐり(2017.11.25 写真:Atelier秀樹)
榎坂は以上のように、榎のあるところの坂であって、その榎も一里塚の榎の場合が多い。だから、江戸時代の榎坂と榎地名または、それに関係するものを東京図に記して、それらをつなぎ合わせることによって、昔の街道を浮かび上がらせることができる。(略)
榎坂(渋谷区千駄ヶ谷)
次の榎地名を求めて行くことにする。千駄ヶ谷八幡(編注:鳩の森八幡)東北方の「榎店」と「榎坂」の「お万榎」であろう。千駄ヶ谷八幡まえのあたりに、小な「鎌倉道」と呼ぶところがあった。だから、ここから北へ行けば奥州街道であり、南へ行けば鎌倉街道となる。
渋谷区の標識
「かって,榎の巨木があったことから「榎坂」と名づけられたといわれており,現在は鳩森八幡へ向かうこの道の右手に商売繁盛・縁結び・金縁・子授かりや子供の病気平癒などの信仰を集める榎稲荷があります。」
↑ 第81回秀樹杉松坂めぐり(2018.9.20 写真:Atelier秀樹)
お万榎(おまんえのき)(榎稲荷)
「お万榎」の名は、千寿院を創建した、紀州徳川家初代の徳川頼宣の生母であるお万の方が、この木を信仰したことによるそうです。
↑ 第81回秀樹杉松坂めぐり(2018.9.20 写真:Atelier秀樹)
榎坂だけをつなぎ合わせても、はっきりした街道は浮かんでこないが、いろいろの榎地名または街道地名を結びあわせることによって、その時代には正しい街道が浮き上がってくるものであると信じている。
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『秀樹杉松』103巻2787号 2019-1-25/hideki-sansho.hatenablog.com #427