昨日から今暁にかけての台風24号は猛烈な強風で、東京も被害が出た。シルバー就業で早朝2時間(隔日)学校の施設管理に従事しているが、今朝は強風で校庭の樹木が倒壊するなどしていて大変でした。“台風一過”の好天だったので、仕事を終えた後、新宿区内の坂めぐりに行ってきました。
今日の圧巻は、「大聖院」とその境内にある「梯子坂」「山吹坂」、そして太田道灌の山吹伝説に関わる「紅皿の墓(碑)」です。正直告白すると、山吹の里伝説に関しては、新宿中央公園の「永遠の像」や早稲田の「山吹の里」碑などは知ってましたが、今日行った「紅皿(べにざら)」の墓 (碑)」は初めて見ました。どうぞご覧ください。/ Atelier秀樹
地下鉄丸ノ内線「西新宿」(スタート)
①蜀江坂(しょっこうざか)(#688)
新宿区北新宿2丁目と1丁目の間。創価学会新宿池田文化会館の東側を南北に通じる坂。北に向かって上り。140m。緩やか。僅かにS字状に曲がる。坂上と坂下に新宿区が設置した標識がある。
→「蜀江坂 (しょっこうざか) かつてこの辺りが 蜀江山 と称されていたため こう呼ばれる。蜀江山の由来は,天慶の乱の時 平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから,あるいは江戸時代に3代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた時,紅葉の美しさを 蜀江の錦のようだと賞賛したからだという。 平成十三年三月 新宿区教育委員会」
燭江坂公園 / 池田文化会館
燭江坂の西 蜀江坂の東
②久左衛門坂(きゅうざえもんざか)(#689)
新宿区新宿7丁目。抜き弁天通りの“抜弁天”交差点から 西北西に入る道。坂上は南東に向かって,途中は東に向かって,坂下は東南東に向かって上る(?)。100m。緩やか。緩やかに左右に屈曲。
→「久左衛門坂 きゅうざえもんざか この坂は,徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため,こう呼ばれるようになった。 平成十一年三月 新宿区教育委員会」
抜弁天交差点
「久右衛門坂」の東。
「梯子坂」の南。
③梯子坂(はしござか)(#690)
新宿区新宿7丁目。“抜弁天”交差点から北へ狭い道を入り,永福寺の先で西に向かうと,途中から下りの石段になっている。東に上る。20m。急な階段。狭い階段 45段。
坂上に新宿区が設置した標識がある。
→「梯子坂 はしござか 『豊多摩群誌』によれば「梯子坂 久左衛門坂北方の裏通に在り,東へ登り十間許り,坂道急にして 恰も梯子を登るが如し,故に名付く」とある。 平成三年九月 東京都新宿区教育委員会」
坂が急で まるで梯子を登るようであったため,この名がついた。(標識より)。人通りも少ない裏道で,この場所を探すのに 一苦労する。こんな狭くて急な坂に名前がついて,今に残されているのはどうしてなのか,不思議ではある。命名時期:江戸時代。
<編注>
私も「此処だろう」と写真をとったが、いまひとつ得心できないので、地元の方に訊いたらやはり違ってました。「自信なくば必ず訊く」が鉄則のようです。この梯子坂はまさに「ハシゴを登る」が如き急坂でした。
西向天神社(にしむきてんじんしゃ)
旧東大久保村鎮守。社殿が西方(京都)を向いているため、西向天神と呼ばれる。別名:大久保天満宮、東の天神、夢想天神。新宿山ノ手七福神の一つ。「大聖院」に隣接。
④不動坂(ふどうざか)(#691)
新宿区新宿6丁目。山吹坂と同じ大聖院の境内。北側の参道階段。南に向かって上り。7m。急な階段。狭く短い階段。階段下の右側手前の石柱に「不動坂」の文字が刻まれているが,現在は石柱の風化が激しく,「不動坂の文字のある「と言われれば「そうか」と感じる程度に見えるだけである。
坂上の大聖院不動堂に因む坂名。「ガイドマップ新宿区の文化財」に大聖院について次のように書かれている。
→「天台寺門宗の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。本寺は不動院といって、西向天神社の別当寺であった。(中略)明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれたが,その際,同社に伝わった文書類を継承し、現在でもそれを所蔵している。(中略)境内は狭く,ほとんど古いものはみあらたないが,ただ一つ,太田道灌の山吹の里伝説で知られる「紅皿の碑」は有名である。この碑は、もとは同寺に隣接する法善寺の崖際にあったもので,崖崩れのために現在地へ移したといい,江戸中期にはすでに現在地にあったことが知られている。」
<編注>「
「不動坂」文字は確認できませんが、真ん中辺に「不」の字が見えます。その下の「動」の「力」もかすかに見え、「不動坂」と読める感じです。上掲の「ガイドマップ」の「あると言われればそうか」は至言ですね。
大聖院(だいしょういん)
⑤山吹坂(やまぶきざか)(#692)
新宿区新宿6丁目。西向天神社の西側から神社に上る かなり狭い石段。北東に向かって上る。15m。急な階段。短い階段坂。
石段の上(神社境内)に新宿区が設置した標識がある。
→「山吹坂 やまぶきざか この坂上の大聖院にある「紅皿の碑」にちなみ,こう呼ばれるようになった。紅皿は 太田道灌の山吹の里伝説で,雨具がないことを古歌に託して,道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。 平成十七年二月 新宿区教育委員会」
太田道灌の山吹の里伝説で「七重八重 花は咲けども山吹の・・・」と歌って 道灌に山吹の枝を捧げた女性の墓といわれる“紅皿の碑”があるため,この名がついた。(標識より)。
境内の北側から上る石段は「不動坂」と呼ばれる。
紅皿の墓(大聖院)
所在地 新宿区新宿6-21-11 (大聖院)
新宿区指定史跡
紅皿の墓(紅皿の碑) 平成18年(2006)8月4日指定
太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成される。
板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には
12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。平成18年(2006)10月 新宿区教育委員会
~東京新宿区の歴史 紅皿の墓(大聖院)tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp
<編注>
私も今日写真を撮ってきましたので、ご覧ください。上掲の新宿HPに記載があるように、12代守田勘弥など歌舞伎関係者の寄進で花立や石灯籠が建てられたそうで、守田勘弥の名も刻まれています。紅皿欠皿を主人公として、幕末ごろ、河竹黙阿弥によって歌舞伎狂言として登場。それが縁で守田勘弥の名が出ている由。
「守田勘彌」(守田かん彌=もりたかんや)の名前が見えます。手前の左右一対です。
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<参考>
坂めぐり第24回(2018-1-18)で、新宿区高田の「山吹の里」碑をたずねました。そお時の碑文と写真を再録しますので、ご覧ください。
<編注> 坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂 sakagakkai.org」に依拠。
坂名の直後の(#〇〇)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算坂数。写真撮影はAtelier秀樹。
『秀樹杉松』98巻2693号 2018-10-1 / hideki-sansho.hatenablog.com #333