坂名の魅力に迫る! 江戸っ子と都民が命名した坂の名前には、味わい深い庶民の生活感覚が反映しています!(第2回)
坂名の魅力にせまる!(第2回)~新宿区・杉並区・墨田区・世田谷区・台東区・千代田区・豊島区・練馬区 ~
2回目の「坂名の魅力にせまる」をおどどけします。お読みいただければ幸甚です。
1)まずお詫びしますが、今月はブログ「秀樹杉松」に写真をいっぱい投稿した結果、たったいま作業の途中で、はてなブログさんから「写真のファイル利用量をoverしました」と連絡が入りました。毎月の写真掲載の容量が決まっていて、今月は満杯になったということです。(有料にすれば、容量がもっと多くなるのですが、、、)
そこで、今回は写真のある坂とない坂とになりました。「坂名の魅力に迫る」のタイトルですので、本来は写真がなくても構わないのですが、坂の写真があるとないでは違います。写真なしの坂をご了承ください。なお、本シリーズはあと1回の3号編集ですので、次号も坂の写真は掲載できませんので、ご了解ください。来月からまた、写真復活します。コロナとは違い、期限がはっきりしています。
2)23区のアイウエオ順に編集していますが、今回(第2回)は新宿区〜練馬区の8区の坂です。“坂名の魅力にせまる”ためにも、<編注>(編者=私の注記)の文章を少し増やしました。
具体的には、<新宿区>の 相生坂(あいおいざか)、逢坂(おうさか)、団子坂の別名馬の首団子坂、<千代田区>の 二合半坂・小半坂(にごうはんざか・こなからざか)、一口坂(いもあらいざか)の5坂です。冗長な文章もありますが、是非ぜひお読みください。
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<新宿区>
○相生坂(あいおい)[東側の坂] ー 鼓坂(つづみ)
相生坂は 東西2つの“双子の坂”。並行する二本の坂。
約50m西にもう一つの坂(西側の相生坂)がある。
『続江戸砂子』によると「相生坂,二つ並びたるゆえの名也という」とある。
『新撰江戸誌』では 鼓坂 とみえ「二つありてつづみのごとし」とある
○相生坂(あいおい)[西側の坂]ー 鼓坂(つづみ)白銀坂(しろがね)
約50m東にもう一つの坂(東側の相生坂)がある。
<編注>
この相生坂に最初に行ったのは、坂めぐりを始めて間もない2017年12月9日(第11回)でした。その頃はまだ、地図帳に坂名が載っている坂だけを歩いていました。この日は、地図に「相生坂」と書いてある坂に行ったのです。
坂めぐりが本格化するにつれて、ネットの坂情報も活用するようになり、地図には載っていない坂がいっぱいあることが判明しました。このため、一度行った地域を再度訪れるケースが続出しました。
こうした一連の過程の中で、私が行って来た「相生坂」に並行して、もう一本の相生坂があることを知りました。正確にいえば、相生坂は「二本で相生坂」だったのです。「相生」の意味は知ってはいたのですが、まさかそんな坂名があるとは! 言われてみれば、二本の道が並行しているから「相生坂」な訳ですが、地図の片方にだけ坂名があったので、全く気が付きませんでした。
なにせ無手勝流に始めた坂めぐり。やっと気づき、10ヶ月後に再度訪れました。そして、前回寄らなかった「西側の相生坂」さんに「こないだは寄らずに済みませんでした。遅ればせながら会いにきました」とお詫び。前回行った「東側の相生坂」さんには、「そんなわけでまた来ました。再会できて嬉しいです」と旧交を温めました。こんな次第で、双子の東西相生坂の写真を念入りに撮ってきました。その時の写真です、どうぞご覧ください。
横関栄一『江戸の坂 東京の坂』(<横関書>)
江戸時代から現代までの相生坂を並べてみると、おおよそ、つぎの三つに分類することができる。
A. 坂路が途中でY字型に分かれているもの
B. 二つの坂が並行しているもの
C. 二つの坂が離れて向き合っているもの
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○一の坂 ~八の坂
中井地区は“一の坂”から“八の坂”まで番号のついた坂が並んでいる。地元の町会がつけたナンバー坂。2009年に新宿区が「道路通称名」を一般公募し、 67路線の道路通称名が決定。
<編注>
新宿区の「道路通称名」決定に伴い、例えば「六の坂」だった道路に「六の坂通り」という道路名(通り)の表示が出ています。写真でご覧のように、以前に町会が設置した手製の坂標識(板に墨で書いた)「六の坂」が残っています。だが、町会の坂名標識がなくなっている箇所もありました。区は道路に「〇〇通り」の名を一律につけ、町会がつけた「六の坂」も「六の坂通り」となってしまったのです。なんか、寂しい気持ちにもなりました。
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○歌坂(うた)
雅楽坂とも言う。一説には「善知鳥 [うとう] (海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であるからともいう。つまり「うとう」が「うた」になり歌坂に転じたものであろう。
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○鰻坂(うなぎ)
坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ,という意味から鰻坂と呼ばれた。
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○逢坂(おう坂)ー 大坂、美男坂
昔,小野美作吾(みさご)という人が武蔵守となり,この地に来た時,美しい娘(注:さかねづら)と恋仲になり,のちに都に帰って没したが,娘の夢により この坂で再び逢ったという伝説に因み,逢坂とよばれるようになったという。
<編注>
横関栄一『江戸の坂 東京の坂』(横関書)より、逢坂にかかる説明を紹介します。少し長いですが、坂名の由来・魅力が余すところなく書かれている、興味深い解説です。どうぞ、是非お読みください。本項の圧巻です。
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江戸には、大坂といいう坂が六つあったが、逢坂と書いたものは少ない。しかも、その逢坂も明らかに大坂に当てられた逢坂である。
……突然美作吾(みさご)は、勅命によって奈良の都へ帰らねばならなくなった。不幸な美作吾は奈良へ帰るとそのまま病の床に臥す身となり、病は重く、さかねづらのことを思いながらも、ついにあの世に旅立ってしまったのである。
一方、さかねづらはそんなこと夢にも知らない。もろもろの神仏に再会を祈願する。ある夜の夢に、この坂のほとりにゆけば恋しい男に逢うことができると、お告げがあって、目が覚めた。彼女は心もうきうきと、急いでこの坂に来て見れば、果たして美作吾に逢うことができた。嬉しさのあまり男の胸に抱きつくと、無言の男の姿は煙のように消えうせる。呆然とした彼女は、そこで初めて美作吾の世になきことを知ったのである。やがて、生きて甲斐なきわが身とかこち、この辺りの淵瀬に身を投げて、はかなき恋を結んだという。
かくて、美作吾は死に臨んで、なきがらを武蔵国へ送り、さかねづらの住むあたりに葬ってくれと遺言したのであったが、遺族の人たちはそれもできず、せめてもの美作吾の霊を慰めるつもりで、若草山のふもとに葬ってやり、そこを武蔵野と名づけたということである。
なるほど、今日でも奈良には武蔵野というところがある。嫩草山(わかくさやま)の麓のお休み所や売店のある一帯が武蔵野と呼ばれていて、そこにはかつて武蔵野屋という旅館もあったことを覚えている。
こうした物語から、この坂を逢坂と呼んだのであろう。
名にし負はば/逢坂山のさかねづら/人にしられでくる/よしもがな
という三条右大臣の歌が、ふと思い出されて、、、この手の凝った物語には感心させられる。
今から約一千年以上も前のことになる。江戸っ子の先祖がつけた名は、ただの大坂で、何の理屈もないのである。それを後世、付会(編注:牽強付会、けんきょうふかい=強引に理屈をこじつける)好きの閑人階級の詩人たちによって、まことしやかな物語が作り出されたわけなのである。……坂からの見晴らしは、すばらしい。眼下には、さかねかづらが身を投げたという深淵が静かな水面を見せて、坂下にまでせまっている。
こんな情景を思い浮かべ、逢坂のあたりを歩いていると、作りごととは知りながらも、ふとさかねづらと美作吾の伝説の中へ、いつの間にか溶け込んでしまうのである。なお、逢坂の別名を美男坂とも言うのだが、これもやはり美作吾とさかねづらのロマンスに結びつけてできた名称であろう。それに、玄及藤(さかねずら)を美男蔓(びなんかずら)というから、美男坂はおもしろいと思う。」
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以上長々と<横関書>p.75~79から紹介しました。さすがは横関さんですね。坂学研究の大家ですが、小説家になっても成功していたかも。
これをお読み都内にお住いの方、おついでの時にでも、美しくも儚い伝説の「逢坂」(市ヶ谷駅から1km足らず)をのぞいてみてください。私も2017年12月にこの坂を歩きました。横関さんの足元にも及びませんが、20分近く思いに耽りました。
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○神楽坂(かぐら)
坂名の由来については,
1)坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから,
2)津久戸明神が移転したきた時にこの坂で神楽を奏したから,
3)若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから,
4)この坂に赤城明神の神楽堂があったから,
などの説がある。
<横関書>
牛込の奥へ行く道は、この坂に並行した軽子坂が、この裏にあった。「かるこざか」という坂の名は有名であった。その発音の珍しい呼び方が、やがて「かぐらざか」を作り、さらに「神楽坂」を生み出したのであろう。特別に神楽の伝統にもなんにも関係なくできた名前かもしれない。
かるこざかーかぐらざか、ちょっと似たような面白い呼び名である。
<編注>
神楽坂は有名なので、坂に関心のない方でも、名前はご存知かと思います。また、東京には地下鉄の「神楽坂」「牛込神楽坂」の2駅があります。私はいまこれを書きながら、昔の芸者歌手・神楽坂はん子さんの「ゲイシャ・ワルツ」を思い出しています。
<編注2>
神楽坂は、全国的にも稀な「逆転式一方通行」となっており、自動車などの進行方向が午前と午後で逆転する。(ウイキペディアja.m.wikipedia.org から)
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○合羽坂(かっぱ)
昔この辺りは湿地帯で,近くの池から河童(?)が出たため,河童坂となり,転じて合羽坂となった。
<横関書>
この坂は尾張藩のものの合羽干し場になっていたので、合羽坂の名ができたと言われるが、坂下に大きな古沼のあることを考えてみると、本当の意味は河童坂であろう。
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○瓶割坂(かめわり)ー かめわり坂
かめわり坂のかめは“瓶”で、おなか(腹)のことを言う。腹が割れるというのは、子供が生まれることを意味する。厚生年金会館前、靖国通りにかってあった坂。
<編注>
「瓶割り」が子供が生まれる事だとは知りませんでした。
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○軽子坂(かるこ)
船荷を軽籠(かるこ)に入れて運搬する人が、この辺りに住んでいたことによる。
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○禿坂(かむろ)ー蜘蛛切坂(くもきり)
昔,この坂下の自証院の横に小さな池があり,水遊びに来る禿頭(おかっぱを短く切り揃えたような髪形)の童たちの姿が見られたことから,禿坂と呼ばれるようになった。
別名「蜘蛛切坂」は、渡辺綱が妖怪の土蜘蛛を退治したことに因む。
<編注>
この禿坂はおかっぱの童という意味ですが、これとは別に、「河童がいろんなものに化けて出て人にいたずらをする」坂を「禿坂」と言います。
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○暗坂(暗闇坂)(くらやみ)ー くらがり坂
四谷北寺町へ出る道で,坂の左右に樹木が繁って暗かったためこの名がついた。 「くらがり坂」 ともいう。 江戸時代,坂上一帯は多くの寺院が並び,四谷北寺町と呼ばれていた。
<編注>
坂名の「暗」は「くらやみ」と読む。そのせいでしょうか(暗闇坂)も併記されます。因みに、同じ新宿区に次項の「闇坂」(くらやみ)もあります。
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○闇坂(くらやみ)ー 乞食坂(こじき)、茶の木坂
この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り,薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。闇坂は「くらやみざか」と読む。新宿区内には 他に「暗坂(くらやみざか)」があり, 他の区にも 同じ読み方の坂が多数あって まぎらわしい。
<横関書>
乞食坂という坂は、必ず寺院の多い場所で、その横町とか裏道とかにある。今日でもそうだが、昔はことに、寺院の門前は乞食の稼ぎ場所であった。
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○浄瑠璃坂(じょうるり)
この地であやつり浄瑠璃が行われたため,近くにあった寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため,などの説がある。
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○蜀江坂 (しょっこう)
かつてこの辺りが 蜀江山 と称されていたため こう呼ばれる。蜀江山の由来は,天慶の乱の時 平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから,あるいは江戸時代に3代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた時,紅葉の美しさを 蜀江の錦のようだと賞賛したからだという。
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○聖母坂(せいぼ)
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○袖摺坂(そですり)
狭い坂道で,通る人が互いに袖を摺り合わされるほどだったため。
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○団子坂(だんご)ー馬の首団子坂(うまのくびだんご)
昔このあたりは低湿地だったため,歩くたびに泥だんごのようになった。
<編注>
別名「馬の首団子坂」が気になりいろいろ調べたが、坂関係ネット情報では「不詳」とするものがが多い。ネット検索を執拗に続けた結果、「馬の首」で次の情報にアクセスできました。
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→吉川西庄田上厩 馬の首「昔々西庄田上厩の馬引き
(馬子馬方)が、馬市から買ってきた「賢く美しく力強い」馬が年寄り歩けなくなり、寝たきりとなった。床擦れができその痛さに苦しむ愛馬を見るに耐えられなくなり、なくなく首を切って手厚く葬り、小社を建てて祀りました。村人は小字寺屋敷の馬の首の葬られた一角を「馬の首」と呼びました」。…….苦しみから救ってやる方法は安楽死しかありません。馬引きの馬が東の寺小屋の藪の中に埋められたとされます。その藪を馬の首と呼ぶそうですが、字(あざ)を含め、馬の首の行政地はありません。(okayamayaso.jimdofree.)
→引用した上記の文章は、平成31年3月31日「『岡山「へそのまち」の民話 追補版 ー 岡山県吉備中央町の採訪記録 立石憲利 吉備中央町図書館 吉備中央町教育委員会』が発行されました。p.57の「古庵坊主」の中で「馬の首」が紹介されています」。
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何かヒントになるかと、参考までに掲げました。論文ではないので、気楽につぶやきますが、私には大きいヒントのような気がします。
馬の安楽死(首切り)は実際に各地で行われ、首を埋葬した藪などが、現実に存在した可能性は否定できないのでは?
泥団子ようになった坂道で、馬が滑って足を骨折したとしたら、馬の首を 切り落として安楽死させ、藪に埋めたことでしょう。馬が滑って負傷するほどの泥んこ坂なのだから、単なる団子坂ではなく「馬の首団子坂」と呼ばれたことはうなづけます。あるいは、首を埋めた藪が坂の近くにあった、なども考えられます。
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「馬の首」検索で、もう一つ次のような「ウイキペディア」(ja.m.wikipedia.org)情報も出てきました。
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「首切れ馬 日本各地に伝わる馬の妖怪。首なし馬ともいう。首なしというのは幽霊によく見られる怪異であり、この首切れ馬についても、かつて死んだ馬や殺された馬が首のない幽霊となって現れるといった伝承がよく見られる。」
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*やはり、安楽死させられた馬はあったんですね。「安楽死」といっても、昔は首を切り落としたんでしょう。馬が滑って転んで足を負傷する、首を切って安楽死させる。雨が降ると泥団子のようになる「団子坂」を「馬の首団子坂」といったかも知れない、、、、。
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○鉄砲坂 (てっぽう )
このあたりに鉄砲組屋敷があり,鉄砲訓練場や鉄砲鍛冶場などもあったため。
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○夏目坂(なつめ)
夏目漱石の父でこの辺りの名主であった、夏目小兵衛が自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にも載るようになった。
<横関書>
豊島坂ともいう。喜久井町という町名は、夏目家の家紋「井桁に菊」からとったものである。
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○梯子坂(はしご)
坂が急で まるで梯子を登るようであったため,この名がついた。
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○比丘尼坂(びくに)
このあたりに比丘尼が住んでいたという。比丘尼姿の私娼が住んでいたの ではないかとの説もあるが,とくに根拠はない。
<編注>
比丘尼(びくに)= 1. 尼 2. 尼の格好をした私娼(ウイキペディア)
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○瓢箪坂(ひょうたん)
坂の途中がくびれているため, その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。
<横関書>
江戸時代の瓢箪坂は、東京にはたった一つしか残っていない。そのために、どういう理由でひょうたん坂といったのか、それがわからない。東京に唯一つの瓢箪坂は、新宿区神楽坂六丁目と白銀町との境を、南から来て西に上る坂である。
瓢箪坂は転びやすい坂が、転ばぬ坂というまじないを込めた坂の名となったのである。転ばないようにと、険しい坂みちに、その安全を祈って瓢箪という名をつけたのではないだろうか。
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○見晴坂(みはらし)
むかし,この坂上からの眺望はすばらしく,特に富士山の雄大な姿は抜群であったという。坂下の水田地帯は 古来より 落合蛍 の名所として知られた。坂名はこれらの風景に由来するものであろう。
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○女夫坂(めおと)ー夫婦坂
下り坂と上り坂が連続しているため、女夫坂または夫婦坂と呼ばれる。
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○焼餅坂(やきもち)
昔,この辺りに焼餅を売る店があったため。
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○山吹坂(やまぶき)
太田道灌の山吹の里伝説で「七重八重 花は咲けども山吹の・・・」と歌って 道灌に山吹の枝を捧げた女性の墓といわれる“紅皿の碑”があるため,この名がついた。
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○庾嶺坂(ゆれい)
江戸初期,この坂のあたりが美しい梅林であったため,二代将軍秀忠公が 中国江西省の梅の名所 大庾嶺 にちなみ命名したと伝えられる。
別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。
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<杉並区>
○御女郎坂(おじょろう)
坂名の由来は不明。
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○お見合い坂
お互いに向こうから来る人が遠望できることに因む。
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○尻割坂(けつはり)
急坂なので力を入れて登り降りすることから、腰の筋が張るという意味の「けつはり」に由来する。
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○ころころ坂
この坂下のそう遠くないところに「どんぐり山公園」があるが、それに因んだ名前。
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○十貫坂(じっかん)
付近から十貫文の入った壷がでてきたという話と、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあります。
<横関書>
いわゆる鍋屋横丁の坂。
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○縄文坂(じょうもん)ーどき坂
このあたりから井草式土器が出土した。別名の「どき坂」は井草遺跡から土器が出土したことによる呼称か。
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○すみれ坂
坂道に野菫が咲く事に因む。
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○たぬき坂
田抜けの転。杉並区でも緑の多いこの地域では、たぬきを見かけることも。
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○道灌坂(どうかん)
坂名は 今は暗渠になった井草川に架かっていた“道灌橋”に由来する。
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○薬罐坂(やかん)
昔 雨の夜毎に,坂の中程に薬罐が転がっている不思議な事があって,この名が付いた。雨のある夜,八丁通りで一杯飲んで,家に帰る途中,ほとんど人家のない下り坂を歩いていると,真赤に焼けた大きな薬罐が道路のまん中に転っていた。一杯ひっかけて良い機嫌なので,じゃまなその薬罐を足でけとばすと,真赤な薬罐は,ころころと下り坂を転がり落ちていった。
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<墨田区>
東京スカイツリーの下はビルの4階の高さの人工地盤になっていて,ここに展望台への入口ゲートがある。東(ソラミ坂)と西(ハナミ坂)から階段(+エスカレータ)で上る。
○ソラミ坂
東京スカイツリーの東側(イーストタワー側)からイーストタワーの4階レベルまで上る,合計約120段の階段。横に並行してエスカレータが併設されている。
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○ハナミ坂
東京スカイツリーの西側(すみだ水族館側)からウェストヤードの4階レベルまで上る,合計約110段の階段。横に並行してエスカレータが併設されている。
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<世田谷区>
○行火坂(あんか)
勾配が急なため,土地の人はこの坂を上るだけで身体が熱くなるので「あんか坂」と呼んでいた。
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○座頭ころがし坂(ざとう)
坂名は直接的であるが,目の見えない人が歩けないほどの勾配と、雨に荒れたはげしい凹凸に難渋していたのであろう。
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○瀬田夕日坂(せたゆうひ)
ここ瀬田地区は 地理的には 国分寺崖線上に位置し,西に向かって大きくひらけている。周辺は閑静な住宅街で,地域住民と学校関係者らによる「せた文教サミット」が 生活環境の整備,生活の安全等を図る活動をしている。その一環として 地域内の道路の愛称や この「瀬田夕日坂」という坂名を決め標識を設置したという。
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○そよ風坂
この道の「愛称」は そよ風坂 です。桜上水5丁目自治会 「道の会」
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○弔い坂(とむらい)
昔 土葬のころ,死者を乗せた輿を 近隣の若者たちが担いで,安穏寺へ運んだみちだったから。
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○八季の坂路
砧公園「八季の坂路」の両側には,季節を八季に分類して園路沿いの季節感をより豊かにするよう試みました。坂路の両側には,花の咲く花期と実の付く植物を植栽しております。
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ハケをその方向に沿うように長く斜めに上下しているためこの坂名になった。/ 世田谷区の「ビール坂」の名称は,かつて坂下にサッポロビールの工場があったことによる。
この坂は,調布市と世田谷区の境界にあり,調布市側では「ハケの坂」,世田谷区側では「ビール坂」と呼ばれている。
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○無名坂 (むめい)
無名塾があって その前を通る坂道だから 「無名坂」 になったと思われる。
無名坂
若きもの/名もなきもの/ただひたすら/駆けのぼる
ここに/青春ありき/人よんで/無名坂
1975年始まる 無名塾 仲代達夫
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○テコテン坂
「月夜にタヌキが出没してテコテンと踊ったというのでその名がつき」とある。
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<台東区>
○あかじ坂ーあかぢ坂、明治坂(あかじ)、赤字坂(あかじ)
明治の財閥・渡辺治右衛門の邸宅が石垣の上一帯にあったことに因る。渡辺治右衛は日本橋で「明石屋」という乾物屋を営んでいたので,通称・明石屋治右衛門といった。それが略されて「明治[あかじ]」と呼ばれ,坂ができたときには明治坂(あかじざか)の名を持っていた。
赤字坂の名は,渡辺治右衛門が破産したころにつけられた町の人々の皮肉な呼び名「」である。
上記のように坂名の由来は2説ある。現地に設置された台東区の説明板では「明治坂」を採っている。
<編注>
「明治」は「めいじ」だとばかり思っていたので、ビックリ。明大出身者はご存知ですか?「あかじ・あかぢ」とカナ書きするのは、「メイジ」と呼ばれないため?
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○衣紋坂(えもん)
土手通りの“吉原大門”交差点から南東に下る坂。坂名は遊客が遊廓入口の大門にむかうとき,風姿を整える衣紋直しからつけられた。
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○化粧坂(けわい)
山谷堀の船からあがった遊客は,今の地方橋(じがたばし)付近から日本堤の土手にあがって吉原の大門にむかった。25軒ほどの遊客たちに貸す編笠屋があった。一種の風俗習慣であろうが,客は笠をかぶり扇子で顔をかくして大門をくぐった。つまり化粧をする坂の意である。
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○三崎坂(さんさき)
駒込・田端・谷中の三つの高台にちなんで「三崎」という地名が由来し,坂名はこの地名にちなむ。
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○忍坂(しのぶ)ー 女坂
台東区上野公園。不忍池から五条天神社の東脇を北へ上り,花園神社上まで。精養軒の前あたりは“忍ヶ岡”と呼ばれ、坂名の由来となっている。
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○天狗坂(てんぐ)
待乳山(まつちやま)聖天の本堂東側は,昔は樹木が鬱蒼と茂って 天狗が出そうな森だったため,この坂の名前になったと思われる。
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○蛍坂(ほたる)
坂下は蛍沢と呼ばれる蛍の名所だった。坂名はそれにちなむ。
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○紅葉坂(もみじ)
坂道周辺の紅葉が美しかったので「紅葉坂」と命名されたのだろう。
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<千代田区>
○淡路坂 ー 相生坂(あいおい)、一口坂(いもあらい)、大坂(おお)
この坂の上に大田姫稲荷, 道をはさんで鈴木淡路守のこの坂には, 相生坂、大坂、 一口坂 (いもあらいざか) などの名称がつけれれている。 この坂の上に大田姫稲荷, 道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり, それにもとづき町名, 坂名がついたといわれます。
一口坂については太田姫稲荷が通称一口(いもあらい)稲荷といったためとされています。 大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。
<編注>
この坂の北(文京区)の坂(旧昌平坂、現相生坂)が、神田川をはさんで東西に並行する坂なので、2坂を相生坂と呼んだ。
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◯三年坂(さんねん)ー三念坂、三枝坂
現在は“三年坂”と呼ばれることが多いが、正しくは“三念坂”。むかし三念寺という寺があった。
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○一口坂(いもあらい)
この坂を一口坂 (いもあらいざか) といいます。「麹町区史」には 『一口坂の一口は,大阪のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで, 電車 一口坂停留所 から北へ九段電話局前を 新見附へ降る坂である』 と書かれています。疱瘡(ほうそう)を“いもがさ”とか“へも”とよんで, 疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社が どの辺にあったのかということは不明です。(千代田区標識)
「一口」は「イモアライ」と呼ぶのが正しいらしいが,誤って「ヒトクチ」と呼ばれることが少なくない。 現に, ここの交差点の信号機にも「hitokuchizaka」と書かれている。
<横関書>では、
「一口坂」の旧称を「いもあらい坂」としています。(現状の「ひとくち坂」を認めた上で。“正しくは”ではなく、“旧称”としてあります。)
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○御厩谷坂(おんまやだに)
徳川将軍家の厩舎があったために御厩谷と呼ばれ,御厩谷にかかる坂ということにより坂名となった。
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○茱叟坂(ぐみ)
道の両側にグミの木があったため この名がついた。
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○甲賀坂
かつてこの辺りに甲賀組の者が多く住んでいたため,甲賀町と呼ばれ,坂名はここから来ている。
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○鍋割坂(なべわり)
ふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がついた。
<横関書>
なべわりは鍋を割ったのではなく、鍋を割った形なのである。鍋を逆さにしたような小山を割いて通ずる切通型の坂路を鍋割坂と言ったのである。
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○二合半坂(にごうはん)ー 日光半坂、こなから坂
名前の由来は複数ある。
①西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え,その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になる ②急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうという説も。
<編注>
別名「こなから坂」。
<編注>
なから(半ら・中ら)=およそ半分
こなから(小半・二合半)=半分の半分、4分の1。特に、米や酒で一升の4分の1、すなわち二合五勺(2合半)
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○冬青木坂(もちのき)ー餅木坂(もちのき)、万年坂(まんねん)
この坂の横に名前の不明な古い常磐木があった。一見もちの木と見間違えたため,坂の名になった。
<編注>
地図で見つけたこの坂を、私は「ふゆあおき坂」と読みましたが、2017年12月8日に現地で坂標識に「Mochiokizaka」とあるのをみて、驚き恥じました。あなたはご存知でしたか?
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○幽霊坂(ゆうれい)
もとは紅梅坂と続いていましたが,大正十三年(1924)の区画整理の際,本郷通りができたため二つに分かれた形となりました。「東京名所図会」には,“紅梅坂は 往時樹木鬱蒼にして,昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりを,今は改めて紅梅坂と称す”とかかれています。
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<豊島区>
○宿坂(しゅく)ー砂利場坂(じゃりば)、浅間坂(あさま)、暗闇坂(くらやみ)
中世の頃「宿坂の関」と呼ばれる関所が設けられていたことにちなむ。昔,練馬方面から江戸に来るとき,ここで一泊しなければならなかったため,坂名がついたという説もある。
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◯のぞき坂ー 胸突坂(むなつき)、急坂(きゅう)
坂下の半分は緩やか。坂上側は非常に急な坂(高低差9m,平均斜度2.5度)。まさかとは思うが、崖になっているように見える。途中まで行かないと坂下が見通せないので「のぞき坂」となった。
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○日無坂(ひなし)ー 東坂(ひがし)
ごく狭い坂で,両側の樹木の枝葉で日光も差さなかったので,日無坂という。
<横関書>
豊島区と文京区との境を南に下る坂。
<編注>
別名の東坂の発音が日無坂に似てますね。日無坂は坂上で富士見坂(次項)から東へ分岐するので東坂とも呼ばれたのか、それとも単に、ヒナシを間違えてヒガシと呼んだのか、興味があります。しかし、どこにも書かれていません。
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◯富士見坂
豊島区と文京区が接する所。車で上るのも苦労しそうな 非常に急な坂。坂上で 日無坂 が分岐している。坂上の民家の塀に,地元自治会(?)が設置した,石板状の標識が埋め込まれている。
昔 坂上から富士山が見えたからその名がついた,と説明されているが,坂は南南西向きなので 見えるとすれば右の方向であろう。現在は全く見えない。富士見坂の途中に西向きの枝道があり,そこから富士山が見えた と説明する人もいる。
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○のぞき坂ー胸突坂、急坂、めがねざか
坂下の半分は緩やか。坂上側は非常に急な坂(高低差9m,平均斜度2.5度)坂上から坂の途中・坂下にかけて急に角度を変えているので,坂上からの見通しができない。まさかとは思うが崖になっているように見える。途中まで行かないと坂下が見通せないので「のぞき坂」となった。
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<中野区>
○相生一番坂(あいおいいち)
中野区本町1丁目 坂下の民家のブロック塀に「相生一番坂通り」の標識が表示されている。
<編注>
町会掲示板には、(相生1番坂)と出ています。
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○相生二番坂(あいおいにばん)
同上。坂途中の“本一高齢者会館”近くの壁面に「相生ニ番坂」の標識が掲示されている。
<編注>
町会掲示板には、(相生二番坂)と出ています。
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○レンガざか
“標識”は無いが、坂下と坂上の道路面に「レンガざか」と記載された歩道タイルが埋め込まれている。
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<練馬区>
○おさる坂
以前この坂の左手の丘の上に草に埋もれた二基の庚申搭があった。庚申塔には三猿など猿が描かているものが多く、ここをおさる坂と言ったといわれている。それがこの坂の名前になったのでは。この呼び名から、祝儀の際、花嫁が通ると離縁になるといわれ、通らないようにしたという。なぜなら「さる=去る」
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○どんぶり坂
真ん中が窪んでいる直線の短い坂。坂の周囲の地形がどんぶり状としているものと思われる。
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(写真撮影:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』112巻2975号 2020.3.17/ hideki-sansho.hatenablog.com #615