秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

秀樹杉松91回坂めぐり(2018-10-12=千代田区) ~小栗坂、皀角坂、男坂、女坂、錦華坂、文坂、吉郎坂、富士見坂。 ~ 金華公園、日大理工学部、御茶の水小、夏目漱石文学碑、明治大学、「御茶の水」碑。

今日は千代田区の“学生街神田駿河台界隈の8つの坂めぐりでした。この辺は坂が多いので2回に分けました。次回は残りの7坂に出かける予定です。この地域の15坂で坂名が地図に載っているのは、水道橋に近い「小栗坂」と「皀角坂」だけなため、第二次坂めぐりに持ち越されしました。どうぞご覧ください。 / Atelier秀樹

 

地下鉄丸ノ内線御茶ノ水駅」(スタート)

 

小栗坂おぐりざか)(#727)

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 千代田区三崎町1丁目~猿楽町2丁目の間。“庭のホテル東京”の前から神田川(JR中央線線路)際までの短い坂。北北西に上る。130m。緩やか。直線。

 坂下に千代田区が設置した標識がある。

→「小栗坂 この坂を小栗坂といいます。 『江戸惣鹿子名所大全』には「小栗坂 鷹匠町にあり,水道橋へ上る坂なり, ゆえしらず」とあり, 『新撰東京名所図会』には「三崎町一丁目と猿楽町三丁目の間より水道橋の方へ出づる小坂を称す。 もと此ところに小栗某の邸宅ありしに因る」とかかれています。 明暦3年(1657)頃のものといわれる江戸大絵図には, 坂下から露地を入ったところに小栗又兵衛という武家屋敷があります。 この小栗家は「寛政重修諸家譜」から, 730石取りの知行取りの旗本で, 小栗信友という人物からはじまる家と考えられます。  昭和五十年三月 千代田区

 かつて小栗家の邸があったため。(標識より) 

 

皀角坂(さいかちざか)(#728)

 ~別名:皀坂(さいかちざか)、皀萊坂(さいかちざか)

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 千代田区三崎町1丁目から神田駿河台2丁目まで。JR水道橋駅から中央線の南側を 線路沿いに御茶の水方向に向かう坂。右手に“東京デザイナー学院”という学校があるあたりの 坂道。西北西に上る。240m。やや急な坂。

 坂途中の東京デザイナー学院前に,千代田区が設置した標識がある。

→「皂角坂 さいかちざか この坂を皀角坂といいます。「新撰東京名所図会」には「駿河鈴木町の西端より土堤に沿いて,三崎町の方に下る坂なり」とかかれています。名称については「新編江戸志」に,「むかし皀角樹多くある故に,坂の名となす,今は只一本ならではなし」とかかれています。「イカ」とは野山にはえる落葉高木で,枝にとげが多く,葉は羽状形で,花も実も豆に似ています。」

 これとは別に,坂下の日本医事新報社ビル前に,自然石に坂名を刻んだ小型の石碑がある。

→「さいかち坂 昭和50年1月 駿河台町会 中島 萬」

 「さいかち」の漢字は,標識には "白"の下に"七"(皂角)という文字と,"白"の下に"ヒ"(皀角)の文字が混用されている。辞書を見ると「皂角」が正しい表記のようだ。

 

東京デザイナー学院

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 千代田区神田駿河台2丁目。「皀角坂」の南。

 

男坂(おとこざか)(#729)

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 千代田区猿楽1丁目と2丁目の間。水道橋駅から さいかち坂を経て 明治大学に通じる道を進むと,明治大学付属高校の横に右側(猿楽町方面)に降りる石段がある。ここが 男坂で, 女坂とは200mほど離れている非常に急な石段が 直線的に 下りている。北東に上る。30m。急な階段。短い階段

 石段中間の踊り場に千代田区の設置した標識がある。

→「男坂 おとこざか この坂を男坂といいます。駿河台二丁目十一番地の端から猿楽町へ下る石段の坂「女坂」に対して名付けられたものです。この坂のできたのも比較的新しく, 大正十三年(1924)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。男坂は同一場所, あるいは並行してある坂の急な坂を, 女坂はゆるやかな坂というように区別されて名づけられています。 昭和五十年三月 千代田区

 これとは別に 石段の上に「男坂」と書かれた背の低い石碑がある。いつごろ設置されたものかは不明。“男坂”から150m程北東に“女坂”がある。男坂は急な坂を,女坂は比較的緩やかな坂を指している。(標識より)

 坂下の猿楽町に設置された“町名由来板”に 次のように書かれている。

→「・・・ ところで, 猿楽町と駿河台の間に, 男坂・女坂と呼ばれる二つの坂があります。いずれも大正13年(1924)の区画整理でつくられた坂で, 男坂は73段, 女坂は82段を数えます。どちらの坂も 一気に上ると息が切れるほどの急傾斜ですが,女坂の途中には踊り場があり 中休みできるのに対して, 男坂のほうは踊り場がなく,より厳しい上りを強いられます。そのため, 73段の坂は「男」,少し緩やかで長い坂は「女」と呼び習わされるようになりました。 猿楽町町会」

 

女坂(おんなざか)(#730)

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 千代田区猿楽町2丁目と神田駿河台2丁目の間。水道橋駅お茶の水駅のほぼ中間。さいかち坂から明治大学に通じる道を進むと, 右側(南西)に降りる石段がある。ここが 女坂。この辺りは 上(神田駿河台)と 下(猿楽町側)との高低差がかなり大きく,したがって 急な長い石段となっている。い石段となっている。30m。急な階段。途中 右に曲がって上り, 途中の踊り場はやや広めにできている。

 中間の踊り場に千代田区の設置した標識がある。

→「女坂 おんなざか この坂を女坂といいます。駿河台一丁目七番地の端から 猿楽町に下る石段の坂。「男坂」に対して名づけられたものです。男坂が一直線の急坂であるのにくらべ,中途で中やすみするようになっているので「女坂」と呼ばれています。この坂のできたのは, 大正十三年(1924)八月 政府による区画整理委員会の議決により作られたものです。 昭和五十年三月 千代田区

 坂下の猿楽町に設置された“町名由来板”に 次のように書かれている。

 <編注>男坂と同文につき割愛。

 

錦華坂(きんかざか)(#731)

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 千代田区猿楽町1丁目と神田駿河台1丁目の間。山の上ホテルの裏手。お茶の水小学校((旧「錦華小学校」)前から錦華公園の東側を通って,日大理工学部2号館に上る坂。北に向かって上る。150m。かなり急な坂。ほぼ直線状。

 坂途中の錦華公園入口付近に,千代田区が設置した標識がある。

→「錦華坂 きんかざか この坂を錦華坂といいます。 名前は坂下に錦華小学校があるからです。 この 坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。  この坂は大正十三年(1924)八月政府による区画整理委員会の議決により新しく作られたものです。「議決要項の志」には, 「南甲賀町より袋町三番地を横断して猿楽町二番地先錦華小学校裏側に通ずる六米道路を新設す」とあります。昭和五十年三月  千代田区

 坂の途中,山の上ホテルの曲がり角に,小型の石碑が置かれている。千代田区が設置した標識より前に地元の町会が設置したもの。

→「錦華坂 昭和五十年一月 駿河台西町会 廣瀬瑞枝書」

 坂下に(旧)錦華小学校があったため。(標識より)

 

<編注> 錦華小学校(現お茶の水小学校)

「錦華坂」名前の由来となった「錦華小学校」は明6年開校、夏目漱石の出身校。平成5年、小川小学校、西神田小学校と統合して「御茶の水小学校」となる。旧錦華小の場所に存続。錦華公園、錦華坂、錦華通りに、いまだに名前が残る。御茶ノ水小前、卒業生・夏目礎石の文学碑がある。(http://ribf.riken.jp より)金華公園

 千代田区神田猿楽町1丁目。「錦華坂」の西。

 

お茶の水小学校千代田区立)旧錦華小学校

 千代田区神田猿楽町1丁目。「錦華坂」の西。前項のように、錦華小、小川小と統合して「御茶の水小学校」となる。旧錦華小の場所に存続。

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夏目漱石の文学碑

 御茶の水小(旧錦花小)前。

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吾輩は猫である 名前はまだ無い 明治十一年 夏目漱石錦花に学ぶ

 

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                        先輩 夏目漱石 略歴 (第104回卒業生一同)

 

錦華公園

 千代田区神田猿楽町1丁目。「錦華坂」の西。

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 ⑥文坂(ふみざか)(#732)

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 千代田区神田駿河台1丁目から神田小川町3丁目まで。明大通りの,明治大学大学会館付近から“駿河台下”交差点まで。北北東に向かって上り。280m。緩やか。

 坂の途中,明大リバティータワーの前に小型の石の標識がある。

→「文坂 ふみざか 昭和五十年一月 駿河台西町会 坂内熊治」

 坂名の由来は不明。

 

明治大学

 千代田区神田猿楽町1丁目。「文坂」(明大通り)の西。

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日本大学理工学部

 千代田区神田猿楽町1丁目。「金華坂」の東。

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吉郎坂(きちろうざか)(#733)

 ~別名:甲賀(こうがざか)、胸突坂(むなつきざか)

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 千代田区神田駿河台1丁目。明大通りから明治大学リバティタワーの北を透って山の上ホテルに向かう坂。西北西に上る。75m。やや急な坂。

 坂下の明大通りとの角に小さな石の標識がある。

→「吉郎坂  昭和五十年一月 駿河台西町会 久保正夫」

 坂名の由来は不明。

 

 ⑧富士見坂(ふじみざか)(#734)

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 明大通り明治大学リバティータワーの 1ブロック南側を南西に曲がり,靖国通りまで。北東に上る。90m。緩やか。直線の短い坂。狭くごみごみした商店街で,現在は とても富士山など見えない。 

 坂上千代田区が設置した標識がある。

→「富士見坂 ふじみざか この坂を富士見坂といいます。『東京名所図会』には,“駿河台南甲賀町の内,袋町に通づる筋より南へ,猿楽町1丁目と小川町との間を下る坂,富士見坂と呼ぶ。風景賞すべきの地にはあらざるも,遠く富士を望むを得べし。富士見坂の名もこれに基きしか” とかかれています。

 富士見坂という名の坂は千代田区だけでも 3か所あります。富士見町と九段の間,紀尾井町と永田町2丁目の間にあります。 昭和五十年三月  千代田区

 かつて 遠くに(わずかに)富士山を望むことができた。 (標識より)

 

御茶の水

坂巡りを終えて御茶ノ水駅へ向かったが、駅のそばに「御茶の水」の碑があった。 

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f:id:hideki-sansho:20181012141112j:plain(碑文)お茶の水 千代田区神田駿河台2−3ー1

“聖堂の西比井名水にてお茶の水にもめしあげられたり
神田川掘割の時ふちになりて水際に形残る 享保十四年 江戸川拡張の後川幅を広げられし時 川の中になりて 今その形もなし(再校 江戸砂子 より)
慶長の昔、この邊り神田山の麓に高林寺という禅寺があった ある時寺の庭より良い水がわき出るので将軍秀忠公に差し上げたところお茶に用いられて大変良い水だとお褒めの言葉を戴いた。それから毎日この水を差し上げる様になり この寺をお茶の水高林寺と呼ばれ、この邊りをお茶の水と云うようになった。
其の後、茗渓又小赤壁と稱して文人墨客が風流を楽しむ景勝の地となった。時代の変遷と共に失われ行くその風景を惜しみ心ある人達がこの碑を建てた。
 お茶の水保勝会 坂内熊治
 高林寺    田中良彰
 昭和三十二年九月九日”

(文章は「東京都千代田区の歴史」tokyochiyoda.blog.shinobiより。写真はAtelier秀樹撮影)

 

 

JR中央線御茶ノ水駅」(ゴール)

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<編注>坂名坂解説は、

「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。

  坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。

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 <編注>『秀樹杉松』は本号(2701)から第99巻となりました。 

『秀樹杉松』99巻2701号 2018-10-12 /  hideki-sansho.hatenablog.com #341