〈読書の軌跡〉~番外編~ 私の蔵書、、、。
Facebookへの投稿を始めて、「ブックカバーチャレンジ」があることを知りました。自分にも順番が回ってきそうになり、(そこから逃げる気持ちも込めて)自分独自の〈読書の軌跡〉を、ブログ「秀樹杉松」に投稿、Facebookへのシェアをはじめました。
〈読書の軌跡〉の「秀樹杉松」への投稿は、29回の連載(5/15号~7/5号)に発展し、結果的に、私の “蔵書目録”となりました。私の読書は「図書館利用」が主流で、自分で購入するのは新刊本などに限っています。しかし気がついたら、いつの間にか蔵書数も一定量に達していたようです。今回の〈読書の軌跡〉執筆は、その確認にもなったのです。
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私の”読書好き”は小学生時代からでした。今と違って、読む本は皆無で、仕方なく教科書ばかり読んでいました。おかげで教科書の文章は、(国語だけでなく)全部暗記しました。だから、試験勉強などはしたことがなく、答えは暗記した教科書の文章を書くだけでした。おかげで、成績は抜群?で、「勉強ができる子」でした。
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やはり小学生時代の思い出ですが、読むものがないので、親・長兄が読んでいると思われる、婦人雑誌「主婦之友」の付録に目をやったら、菊池寛の「第二の接吻」と、久米正雄の「破船」が収録されていました。漢字が多い(確か仮名は振ってあった?)大人用の小説でした。「第二の接吻」を読みましたが、「接吻」の意味は全く知らなかったので、難解そのものでした。(今の小学生なら、キッスを知らない子はいないでしょうが)
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さて、全貌が明らかになった私の蔵書に、とりあえず「秀樹杉松文庫」と名付けましたが、これをどうするか少し考えを巡らせました。日頃から、「残された者に迷惑かけないよう、方(かた)をつけておけ」「売れるうちに、bookoffででも処分すれば」、、、などと言われてきました。
正直な心境を漏らせば、「我が精神を司ってきた本」「俺と一心同体の蔵書」には、一切手をつける気持ちはありませんでした。しかし、「何かの機会に何かしなければならないかな?」の気持ちも、最近出てきたことも否定できません。
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そこで急遽浮かんだのが、「図書館への寄贈」の模索です。寄贈するほどの値打ちがないかも知れないが、もしかすれば、それなりの価値を秘めた蔵書、かもしれない、、、。自分は東京都民、S区民ですが、自分が生まれ育った故郷への気持ちは、間違いなく人一倍、強く持っています。
できたら、故郷の図書館へ寄贈したい、多少はお役に立つかもしれない、、、。
私は旧南部藩、東北地方の出身で、このことに大きな矜恃を持っています。戦時中に東北の寒村で育った自分が、本がなくて(もちろん図書館もない!)悲しい思いをしたのを思い出し、自分が買って読んだ本が、少しでも役立つなら、故郷の図書館に寄贈したい。そういう気持ちで、その実現を模索している昨今です。
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(写真:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』116巻3044号 2020.8.22/ hideki-sansho.hatenablog.com #684
9月いっぱいで閉店となる「ともしび新宿店」 ~ 8月19日の<お昼のうたごえ>へ行ってきました。
「ともしび」HPによれば、うたごえ喫茶ともしび新宿店は9月いっぱいで閉店し、新しい店を開店するまでしばらくお休みするそうです。「歌声喫茶ともしび」を存続するためのやむを得ぬ措置。残念ではありますが、「うたごえの灯・ともしび」を消さないため、頑張ることにしましょう!
久しぶりで、新宿ともしび<お昼のうたごえ>(毎週 水・木・金・土 13:50~16:00)へ行ってきました。ともしびは、コロナのため長期間休業してましたが、最近<お昼のうたごえ>に限って再開しました。(夜の営業は今もやっていません)
20名定員の予約制で人数を制限し、店内は厳格・万全のコロナ対策が講じられていました。(具体的なことは省略しますが、ここまでやるのか・さすがともしびだ、と思いました。)
きのう8月19日の<お昼のうたごえ>は、司会 = 金指修平・丸山りか、pf伴奏= 長嶋真美 の皆さんでした。これに司会応援として清水正美さんがつくという、豪華・ベストメンバー。さらにこの日は、斉藤隆店長、今枝大作副店長も参加し、ともしびオールスターズの感じでした。いい時に行った私は、たいへん幸運でした。
(写真:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』116巻3043号 2020.8.20/ hideki-sansho.hatenablog.com #683
三たび 「終戦75年に関する朝日新聞の報道」を取り上げます。
国民学校初等科(今の小学校)3年生の、昭和20年(1945年)8月15日に終戦を迎えました。”戦争世代”にとって、今から75年前の、広島・長崎への原爆投下と”大東亜戦争敗北”(やっと終戦!)は、絶対に忘れることはできないのです。
終戦の日のきのう8月15日の、「朝日新聞朝刊の1面報道」を本ブログで批判的に取り上げ、夕方には、同紙夕刊について「さすが朝日」と書きました。1日にブログを2号書いての投稿は、もしかして初めてだったかもしれません。
そして翌日のきょうは、8月16日付の朝日新聞朝刊の1面報道と、社説などを紹介します。コメントは省略。呟くだけ、「私の愛読紙は健在なり!」
『秀樹杉松』116巻3042号 2020.8.16/ hideki-sansho.hatenablog.com #682
8月15日の朝日新聞夕刊の「終戦の日報道」を見る
今朝書き込んだ前号で、きょう8月15日の朝日新聞朝刊の「終戦の日報道」を、批判的に取り上げました。夕刊に注目していましたが、いま配達されたばかりの夕刊の1面を紹介します。「これぞ本来の朝日」との思いを込めて。
それにしても、天皇陛下のお言葉「深い反省」と、塩梅辛酸騒狸の素通りした式辞。あまりに「重大な隔たり」を感じます。今上天皇も平成天皇と同じく「国民とともに」歩みつつあり、嬉しいことですね!
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(写真:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』116巻3041号 2020.8.15/ hideki-sansho.hatenablog.com #681
8月15日、「今日は何の日?」
「俺も少しは歳をとったかな?」の思いがする昨今。今朝何を食べたかは、まず答えられない。今日の日にち、曜日も出てこない、、、。こんなことは、今や日常茶飯事。
ですがどういうわけか、「今日は8月15日、終戦の日だ」は、朝起きた時から覚えていた。他のことは忘れても、思い出せなくても、75年前の終戦(実感は敗戦でした)は、前の日の昨日から覚えていた。4分の3世紀前の昭和20年真夏の8月15日、国民学校初等科3年生の私は、日本の敗戦を知ったのでした。何から何までその日のことを覚えており、忘れることができないからです。
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「海の日」「スポーツの日」「山の日」など、新しい休日がどんどんできました。ところで、「今日8月15日は何の日?」と、慌ててカレンダーを見たら、何の日でもない!「終戦の日」でも、ましてや「平和の日」でもなく、ただの普通の日。
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新聞にはどう書かれているか、と、「朝日新聞」を郵便受けから取り出した。ところが、1面に「終戦」の文字は見当たらない。「あれ?今日は8月15日ではないのか」。この日だけは忘れない、間違えないと信じてきた自信が、大きく揺らいだ。こんな大切な日を間違えるということは、俺の加齢も深刻なところまで来ているんだ。「朝日」が1面のトップで終戦75年に触れないわけはない、、、、。
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このブログをお読みの方で、朝日愛読者はすでにお気づきでしょうが、私もやっとのことで、気がついたのです。私が最初に見たのは、1面の上部でした。新聞は大型なので、必ず上下に折られていますが、私が見た1面上部は(写真のような)別の記事でした。
昨日のプロ野球の記事を見ようと、1面をいっぱいに広げたら、下部に(写真のような)「きょう終戦75周年 コロナ受け追悼式縮小」の記事を発見したのです。
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「朝日が1面で扱わないはずがない」と即断したのは、早とちりだったわけですが、正直申して、こんなところに、こんな大切な記事が埋もれている?とは、私には考えも想像も及ばなかったのです。朝日さん、ごめんなさい。私は朝日読者です。下部とはいえ、1面に掲載したのは評価しますが、「1面トップ」を期待したのは、期待しすぎでしょうか。「読者の声」として、冷厳にお受け止めください。
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さあ、となれば、朝日の「社説」。社説欄を開いて、「さすがは朝日だ!」と呟きました。内容には敢えて触れませんが、期待通りの社説に、私は大満足です。写真を載せましたので、見出しをご覧ください。社説陣はしっかりしてるんですね!
→ 戦後75年の現在地 不戦と民主の誓い、新たに
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ちなみに、同じページの「かたえくぼ」と、「朝日川柳」もなかなかいいので、紹介します。
<かたえくぼ>
『国会の先生 長い夏休み』
宿題が多いだろうな ー 子どもたち
(松本・若年寄)
<朝日川柳> 山丘春朗選
国会を無きものにして終戦日
東京都 三井 正夫
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(写真:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』115巻3040号 2020.8.15/ hideki-sansho.hatenablog.com #680
猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』新版(中公文庫)を読む ~昭和16年8月16日、平均年齢33歳の内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていた(本書「プロローグ」p.7)
今日8月9日は長崎、3日前の6日は広島への原爆投下から75年。
猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』をやっと読了したので、そのことを取り上げます。昭和16年は開戦の年なのに、どうして敗戦? 不勉強の私は、新聞広告(ちっぽけな)でこの本を読んでみようと思ったのです。ご存知の方は「だらしない!」と思われるでしょうが。
著者は猪瀬直樹氏。作家で、東京都副知事・知事をされたことは知ってますが、それ以上のことは全く。今回猪瀬さんの『昭和16年夏の敗戦』を読む機会に恵まれたのは、ラッキーでした。「プロローグ」で、この本の書名の意味と内容が大体わかりました。
→ 昭和16年12月8日の開戦よりわずか4ヶ月前の8月16日、平均年齢33歳の内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていたのである。ある秘められた国家目的のため全国各地から、「最良にして最も聡明な逸材」(BEST & BRIGHTEST)が、緊急に招集されていた。、、、(本書p.7)
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もしかしたら、小説かもしれない? 無知な私は、念のため「総力研究所」をネット検索しました。次のような、古めかしい?文章が出てきました。
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「総力戦研究所とは、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研究所である。」(ウイキペディア:jam.wikipedia.org )
作り話ではなく、実在した歴史的な事実に、私は驚きました。こんな組織があったことを、不勉強な私は知りませんでした。さらに驚いたのは、この「総力戦研究所」が出した日米戦争「日本必敗」の結論と、それを政府が無視したことです。
Yahoo News ~7/24(金)12:12配信 (news.yahoo.co.jp)
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日本は必ず敗戦する……エリート集団「総力戦研究所」の予言が生かされなかった理由
日本の敗戦を予言していた「総力戦研究所」。正確なシミュレーションがなされていたにもかかわらず、なぜその分析はいかされなかったのか。猪瀬直樹氏の著書『昭和16年の夏の敗戦』には経緯が詳細に描かれている。日本的意思決定の欠陥を指摘する名著として、折にふれ話題になってきたが、新型コロナウィルスをめぐる諸問題にも繋がるようで……」(婦人公論)
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第三次近衛内閣は7月に組閣を終えたが、総力戦研究所の<窪田角一内閣>は6日前の7月21日にスタートした。現実の内閣と、模擬内閣は、ほとんど同時に発足し、対照的な結論に向かって歩を進めていく。
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昭和16年8月16日......首相官邸大広間、午前9時 ー 。二つの内閣が対峙した。いっぽうは第三次近衛内閣。もう一つは平均年齢33歳の総力戦研究所研究生で組織する〈窪田角一内閣〉である。
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16年夏、彼らが到達した彼らの内閣〈窪田角一内閣〉の結論は次のようなものだったからである。
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12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから、日米開戦はなんとしても避けねばならない。(第二章 イカロスたちの夏 p.83)
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総力戦研究所〈窪田内閣〉閣僚名簿
内閣総理大臣 窪田角一
内閣書記官長 岡部史郎
外務大臣 千葉 皓
(以下省略)
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単行本 1983年8月 世界文化社刊
文庫 1986年8月 文藝春秋刊
文庫 2010年6月 中央公論新社刊
新版 2020年6月 初版発行
2020年7月 再販発行
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「第三章 暮色の空」から、私の関心を引いたエピソード二つを紹介します。
◉昭和20年9月11日、東條(英機)は拳銃自殺を図った。弾丸はわずかに心臓をそれた。(中略)東條は自決のために世田谷区・用賀の自宅で周到な準備をしていた。隣家の医師を尋ね、心臓の位置を確かめてそこに墨でマル印をつけていた。風呂に入り、墨が薄くなると再び書き加えた。そうしながら、彼は迷っていた。9月8日に下村定陸将が東條を呼び、こう説得していた。
「戦争責任の追及が始まった場合、あなたがいなければ、天皇に累が及ぶ」
東條は「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず…」をひき、「自分がそう言ってきた手前、当然、その言葉に拘束されなければならない」と主張した。東條は天皇への忠誠と「戦陣訓」の間で揺れていた。(p,217~218)(後略)
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◉<内閣書記官長>役の岡部史郎は、8月6日朝、中国地方総監府に出勤の途中、白島電車停留所近くで、原爆の直撃を受けた。(中略)10日目の午後、隣組の人から、日本は全面降伏したらしいとの知らせを受けた。(中略)翌日、同僚の配慮で、広島市郊外のの五日市町の産報道場に収容され、一命を取り止める。のち国会図書館の副館長になった。(p.251)
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『秀樹杉松』115巻3039号 2020.8.8/ hideki-sansho.hatenablog.com #678
宮部みゆき『きたきた捕物帖』を読む。 ~「私がずっと書きたかった捕物帖」(著者)
『三島屋変調百物語』の第一期(1~5巻:角川文庫)を読み切ったので、最新刊の宮部みゆき『きたきた捕物帖』(PHP研究所)を一気に読みました。
宮部さん自身が「ずっと書きたかった捕物帖」(表紙帯)、流石に面白い傑作です。内容には立ち入りませんが、一つだけ「白状」します。書名の「きたきた」から、捕物がやって「来た来た」とか、「弥次喜多」などを連想していました。つまり「きたきた」の意味が不明でした。
本書には第一話~第四話が収録されていますが、主人公(の一人)らしき「北一」が第一話の冒頭から登場し、第三話に「喜多次」が登場します。そこで、「あれ?キタが二人?」と気づきましたが、そこまででした。
本書の最終:第四話のラストシーンは、「北一」と「喜多次」の二人きりとなり、「この捕物帖は、この二人を中心に展開しそうだ」、とやっと気づきました。しかし鈍い私は、これが書名と関係するとは、ちっとも思いませんでした。
ブログ<秀樹杉松>に本書を取り上げるべく、表紙カバーと帯の写真撮影をしました。その時「帯」に「新シリーズ始動!」と大きく書かれ、その下に小さな字で、
江戸は深川、二人の「きたさん」が事件を通して成長していく
と書かれているのを発見したのです。
「きたきた」は「北一 & 喜多次」であることにやっと気づいたのです。自分の「鈍感・想像力貧困」に呆れるばかりです! 因みに、「キタ一」と「キタ次(二)」の1・2番コンビの今後の活躍を期待します!
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なお、本書の捕物舞台は「本所深川」です。3年前に私は東京都内の37の中小河川を歩き、「親川記」(しんせんき)と題して29回、「秀樹杉松」に投稿しました。本書「きたきた捕物帖絵図」には、その時歩いた仙台堀川・小名木川・竪川・横川、高橋・新高橋・扇橋・猿江橋・小名木川橋などが掲載されています。本書を読みながら、3年前の「川歩き」にも思いを馳せました。
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一読をお勧めします。
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『秀樹杉松』115巻3038号 2020.8.8/ hideki-sansho.hatenablog.com #678