猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』新版(中公文庫)を読む ~昭和16年8月16日、平均年齢33歳の内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていた(本書「プロローグ」p.7)
今日8月9日は長崎、3日前の6日は広島への原爆投下から75年。
猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』をやっと読了したので、そのことを取り上げます。昭和16年は開戦の年なのに、どうして敗戦? 不勉強の私は、新聞広告(ちっぽけな)でこの本を読んでみようと思ったのです。ご存知の方は「だらしない!」と思われるでしょうが。
著者は猪瀬直樹氏。作家で、東京都副知事・知事をされたことは知ってますが、それ以上のことは全く。今回猪瀬さんの『昭和16年夏の敗戦』を読む機会に恵まれたのは、ラッキーでした。「プロローグ」で、この本の書名の意味と内容が大体わかりました。
→ 昭和16年12月8日の開戦よりわずか4ヶ月前の8月16日、平均年齢33歳の内閣総力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていたのである。ある秘められた国家目的のため全国各地から、「最良にして最も聡明な逸材」(BEST & BRIGHTEST)が、緊急に招集されていた。、、、(本書p.7)
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もしかしたら、小説かもしれない? 無知な私は、念のため「総力研究所」をネット検索しました。次のような、古めかしい?文章が出てきました。
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「総力戦研究所とは、大日本帝国において1940年(昭和15年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設された内閣総理大臣直轄の研究所である。」(ウイキペディア:jam.wikipedia.org )
作り話ではなく、実在した歴史的な事実に、私は驚きました。こんな組織があったことを、不勉強な私は知りませんでした。さらに驚いたのは、この「総力戦研究所」が出した日米戦争「日本必敗」の結論と、それを政府が無視したことです。
Yahoo News ~7/24(金)12:12配信 (news.yahoo.co.jp)
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日本は必ず敗戦する……エリート集団「総力戦研究所」の予言が生かされなかった理由
日本の敗戦を予言していた「総力戦研究所」。正確なシミュレーションがなされていたにもかかわらず、なぜその分析はいかされなかったのか。猪瀬直樹氏の著書『昭和16年の夏の敗戦』には経緯が詳細に描かれている。日本的意思決定の欠陥を指摘する名著として、折にふれ話題になってきたが、新型コロナウィルスをめぐる諸問題にも繋がるようで……」(婦人公論)
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第三次近衛内閣は7月に組閣を終えたが、総力戦研究所の<窪田角一内閣>は6日前の7月21日にスタートした。現実の内閣と、模擬内閣は、ほとんど同時に発足し、対照的な結論に向かって歩を進めていく。
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昭和16年8月16日......首相官邸大広間、午前9時 ー 。二つの内閣が対峙した。いっぽうは第三次近衛内閣。もう一つは平均年齢33歳の総力戦研究所研究生で組織する〈窪田角一内閣〉である。
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16年夏、彼らが到達した彼らの内閣〈窪田角一内閣〉の結論は次のようなものだったからである。
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12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから、日米開戦はなんとしても避けねばならない。(第二章 イカロスたちの夏 p.83)
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総力戦研究所〈窪田内閣〉閣僚名簿
内閣総理大臣 窪田角一
内閣書記官長 岡部史郎
外務大臣 千葉 皓
(以下省略)
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単行本 1983年8月 世界文化社刊
文庫 1986年8月 文藝春秋刊
文庫 2010年6月 中央公論新社刊
新版 2020年6月 初版発行
2020年7月 再販発行
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「第三章 暮色の空」から、私の関心を引いたエピソード二つを紹介します。
◉昭和20年9月11日、東條(英機)は拳銃自殺を図った。弾丸はわずかに心臓をそれた。(中略)東條は自決のために世田谷区・用賀の自宅で周到な準備をしていた。隣家の医師を尋ね、心臓の位置を確かめてそこに墨でマル印をつけていた。風呂に入り、墨が薄くなると再び書き加えた。そうしながら、彼は迷っていた。9月8日に下村定陸将が東條を呼び、こう説得していた。
「戦争責任の追及が始まった場合、あなたがいなければ、天皇に累が及ぶ」
東條は「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず…」をひき、「自分がそう言ってきた手前、当然、その言葉に拘束されなければならない」と主張した。東條は天皇への忠誠と「戦陣訓」の間で揺れていた。(p,217~218)(後略)
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◉<内閣書記官長>役の岡部史郎は、8月6日朝、中国地方総監府に出勤の途中、白島電車停留所近くで、原爆の直撃を受けた。(中略)10日目の午後、隣組の人から、日本は全面降伏したらしいとの知らせを受けた。(中略)翌日、同僚の配慮で、広島市郊外のの五日市町の産報道場に収容され、一命を取り止める。のち国会図書館の副館長になった。(p.251)
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『秀樹杉松』115巻3039号 2020.8.8/ hideki-sansho.hatenablog.com #678