秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

門井慶喜『銀河鉄道の父』を読む ~ 宮沢賢治、銀河鉄道の夜、雨ニモマケズ、風の又三郎、春と修羅、永訣の朝、注文の多い料理店、イーハトヴ(イーハトブ)、よだかの星、どんぐりと山猫、セロ弾きのゴーシュ、花巻農学校、本郷区菊坂町……

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       門井慶喜銀河鉄道の父』

         (講談社 2017年刊。第158回直木賞受賞作)

 

 石川啄木宮沢賢治は、私の高校(当時は中学校)の偉大なる大先輩です。郷土の天才ですから、経歴・生涯・作品は一応は知ってるつもりでした。だが、先日書店で購入した『銀河鉄道の父』(門井慶喜著)は、書名も内容も斬新異色でした。いつもの表現で恐縮ですが、宮沢賢治とその父に感動し感銘を受けました。 

「賢治」についての私の知識が浅はかなもので、まして父親の偉大さは全然知らなかった。経済的に恵まれた家庭環境と有識者の父親の存在、の反面、その父の反対で旧制高校に進学できなかったことや、結核などの病気に罹り、僅か37歳の短命に終わった。

 宮沢賢治は死後に高く評価されて、日本文学史に燦然と輝く功績を残しているが、夭折により才能が十分に開花できなかったという意味では、不遇・不運な人生であった。こうしたことは、賢治が中学の同窓・郷土の先輩として尊敬した石川啄木を含め、当時の天才たちの生涯に共通したことかもしれません。

 本誌『秀樹杉松』は、この2581号から93巻にはいります。それに相応しい内容にしようと頑張りました。/ Atelier秀樹

 

 1)宮沢賢治を知らない人は居ないと言ってもいいでしょうが、先ずはウイキペディアの記述から紹介します。

 →宮沢 賢治(みやざわ けんじ。1896年8月27日 - 1933年9月21日)は、日本詩人童話作家。仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行い、創作作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ (Ihatovo) 等とも)と名付けたことで知られる。生前彼の作品はほとんど一般には知られず無名に近かったが、没後草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。そうした経緯もあって日本には広く愛好者がおり、出身地である岩手県花巻市は彼の故郷として有名である

 

 2)この小説についての専門家の記述を見てみよう。

 <あらすじ> (T-SITE Lifestyleより)

 宮沢賢治祖父の代から続く富裕な質屋に生まれた。家を継ぐべき長男だったが、賢治は学問の道を進み、理想を求め、創作に情熱を注いだ。勤勉、優秀な商人であり、地元の熱心な篤志家でもあった父・政次郎は、この息子にどう接するべきか、苦悩した―。生涯夢を追い続けた賢治と、父でありすぎた父政次郎との対立と慈愛の月日。

 

 3)小説本の表紙帯のPR文

 父であり過ぎる父親が 宮沢賢治に注いだ無常の愛感動の「親子」小説!

 第158回 直木賞受賞作

 天才の父は大変だ!

 岩手県イーハトヴにし、銀河に鉄道を走らせた宮沢賢治は、いかにして想像力豊かな詩人・童話作家になったのか。賢治の父・政次郎は、「質屋に学問は必要ねぇ」と自分の父から言われ、進学を断念して店と家を守ってきた。だが、家業を継ぐべき賢治は学業優秀で、上の学校へ行きたいという。苦悩する父と 夢を追い続けた息子の、対立と慈愛の月日

 

 4)専門的な文章の後で恐縮ながら、拙文の蛇足(私の感想)を加えます。

 

 イ)賢治一家は皆秀才であったことに、驚くとともに「なるほど」と感心しました。

 ○賢治の父・政次郎・・・小学校卒業時の席次は一番。父・喜助の「質屋に学問必要ねぇ」で中学校(旧制)への進学断念。

 ○賢治・・・小学校卒業時すべて学科が「甲」で、その優秀の故をもって、校長より賞品を授与された。盛岡中学校(今の盛岡一高)を受験し、受験者334名の中の合格者134名に名を連ねた。盛岡中卒業後、進学(旧制高校、私大)を希望したが、父親の「質屋に学問必要ねぇ」との反対で、盛岡高等農林学校(今の岩手大学農学部)へ進学。志願者312名中、合格者は89名で、賢治は首席で合格した。

 ○賢治の妹・長女のトシ・・・高等女学校を首席で卒業し、東京目白の日本女子大学校(今の日本女子大)へ進学。病気で夭折。

 

 ロ)小説の中に故郷の方言が含まれており、懐かしさと嬉しさが込み上げました。

 →宮沢はん、ありがとがんす、泣ぐな、お腹減ったんだべ、んだなハ(そうですね)、わかってるべ、これで何ぼすか、なすて(何故)気づまりか、痛くねぇが?、痛くながんす、どうだべ、まっごど(本当)か、あの川には行(え)ぐな、ほんとだべが、ほんとだじゃ、ゆんべ、へば(それなら)おらが聞くべ、なすて?(何故)、どうすべ(しよう)、ぺっこ(少し)、んだべがな(そうなのかな)、んだ、何だべ、だしてけで(出してください)、……。

 

 (編集註)子供の頃聞きなれた方言なので、私にはスラスラ入った。一つだけ、「ぺっこ」は初耳であった。最初見たときは「べご(牛)」かと思った。

 作者の門井慶喜氏は会話の一部にだけ岩手方言を入れ、それ以外は現代語を多用している。私はこれに好感を持った。東北出身でない人もわかる共通語を使って、誰でもが読解できるように配慮したのは大変に素晴らしい。

 小説の中には(いや殆どが)終始方言で満ち溢れているものがある。故郷の方言に当たる人々は喜んで読むだろうが、異郷の人々にはなんとなく違和感、時には疎外感も出てくるのでは?。例えば、九州方言が長々と続く小説には、東北出身の私は正直言って戸惑うことがある。(九州出身者は、東北弁を同様に感じるかも)

 学術論文や歴史書など、方言表記が不可欠な場合は別として、現代小説においては、方言の使用は適正範囲にとどめ、現代の共通語を中心とした文章を私は歓迎したい。もちろん必要に応じて、方言を使用するのは当然としても、終始一貫方言だらけの文章は、田舎の方言で育った私ですら読みにくさはある

 もちろん自分の故郷である東北弁なら、懐かしさもありスラスラ読めるが、しかしこれはあくまで個人的な嗜好に過ぎない。反対に、異郷の方々には違和感があるのではないか。この故郷・異郷による受け止め方の違いが、私だけのことなら致し方ないので、引き下がりますが。

 本稿の前文で私はこの作品を「書名も内容も斬新異色」と書いた理由の一つはこのことで、小説内容だけでなく、この小説を高く評価する所以です。小説を書く能力がゼロで、単なる小説のリーダー(読み手)にすぎない人間が、不遜なことに言及してすみません。小説愛好者の皆さんはどうお考えでしょうか。

 

 ハ)賢治の死の直前(小説の最終盤)から、どうしても部分引用したい文章

 

病室での、父と賢治の会話

 しばらくして、こんどは政次郎が、/「すまなかったじゃ」/「何したのす」/「お前は中学校を出るとき、さらに上の学校へ行きたいと。私はにべもなく『ダメだ、質屋に学問は必要ねぇ』と。あのとき進学を許していれば、お前はもっと…….」/ 「とんでもねぇ」/ 賢治は天井を凝視しつつ、老人のような声で、/ 「一年遅れだだったども、結局、高等農林に行かせてくれたでねぇすが。あそこでおらは、物理や化学や地学のことばを知ったんじゃ。だからこそ」/ と、そこで咳の大波が来た。賢治はぴょこんと身を起こし、ごーっと息を吸ったあと、のどから砲声を連発した。(p.375)

 

未発表の原稿と手帳を弟に託す

 「今日は何だい、兄さん。バッハ?ブラームス?」/ と聞くと、賢治は身を起こしたまま、ゆっくり首をふって、/ 「あれ」/ ふとんから手を出し、左足の先を指さした。/ 部屋のすみには、例のトランクが置かれている。清六はそっちを向いて、 /「あれが、なにしたのす」/「お前にやる」/「え」/ 清六が、賢治を見た。/ 笑みが消えている。そこになにが入っているか、無論熟知しているのだ。兄は淡々と、/ 「どんな出版社 (ほんや)でも、出したいところがあったら出してけでこれも」/ 清六へ、手帳をさしだした。/ 清六は慌てて賢治のそばへいざ寄り、受け取った。遠慮したのか、ページを開いてみることはしない。/ 「う、うん」……。(p.381~382)

 <編集註>弟の清六に託したトランクには、大量の原稿用紙に書かれた童話・詩歌・小説などが、手帳には有名な雨ニモマケズ、風ニモマケズが書かれてあった。(上掲写真参照)

 

宮沢賢治の臨終

 「体を、ふこう」/ イチは、従順な母親だった。かたわらに置いてある金属性の薬箱のふたをあけ、小さなガラス瓶ををつまみ出し、ちぎった脱脂綿へとろとろと無色透明な液体をしみこませた。オキシフル過酸化水素水溶液である。独特のすっぱいような臭いにイチは顔をしかめつつ、右手を出し、脱脂綿をにぎらせてやった。賢治はそれで左手を拭き、首をふいて、/ 「いい気持ちだ」/ それが、最後の言葉だった。/ きゅうに目を閉じた。右手をVの字なりに折り、首の横で脱脂綿をつまんだまま。/ ー眠った。/ イチはそう判断し、ほほえんだという。/ 「ゆっくり休んでんじゃい」/ 部屋を出ようとしたところ、ほとりと音がした。/ 脱脂綿が落ちている。賢治の呼吸が変化していたまるでセロか何かの演奏者が指揮者にそう指示されたかのように、正確に、ひといきごとに、音を小さくしている。/ そこだけふっくらとした耳たぶが、ふいにゆれた。とともに、音はあっけなく終わった。/ 「賢さん!賢さん!」........。(p.395)

 

 (賢治三回忌の前月、政次郎が来訪の孫たちへ読み聞かせ

 「んだば、ひとつ詩を読むべがな。なに、むつかしくない。おととし死んだお前たちの叔父さんが書いたものだからな」/ 立ったまま最初のページをひらき、そこに貼りこんである新聞の切り抜きを朗読した。一年前「岩手日報」夕刊が賢治一周忌に寄せて掲載したものだった。

 雨ニモマケズ/風ニモマケズ

  (註=以下この有名な詩を全文朗読するが、編集の都合上割愛)。(p.399~400)

 

 「よし。んだば」/ 政次郎はスクラップ・ブックをぱたりと閉じ、ことさら芝居がかった口調で、/「別のを読もう。今度は童謡だ」/ 仏壇の前へそれを置き、かわりに横の三冊一組の本のたててあるほうへ手をのばした。

宮沢賢治全集』全三巻。

 版元の文画堂書店は東京本郷、東京帝国大学前に店があり、間違っても自社の商品を古本屋へながしたりしない信頼できる出版社だった。

 宮沢賢治。/ 詩人・童話作家としてのその姓名は、本人の死後、にわかに注目を浴びている。

 地元岩手はもちろん中央文壇からも賞賛者があいつぎ、わずか一年にして全集刊行のはこびとなった。

 編纂者には高村光太郎草野心平というような一流詩人などのほか、流行作家の

 横光利一までもが名を連ねたのである。……。(p.403)

 

 ニ)賢治が住んでいた本郷区(今の文京区)菊坂町

  郷里の政次郎からは、たびたび手紙が来た。/ 賢治からは何の連絡もしなかったのだが、賢治の友人にでも聞いたのだろう。/ 本郷区菊坂町七五 / 稲垣様方 / と宛先が正確に書かれた茶色の封筒がが半月に一度ほで、ときには三、四日おきに、賢治の机に置かれていたのだ。/ 開封すると、必ず小切手が入っていた。額面のところには金五十円とか金百円とか。/ (ガリ切り、何百ページ分だろう)......。

 

 <編集註>これを読んで私の「坂めぐり」を思い出した。今確かめたら、第20回 (2018-1-3)に「菊坂」を歩き、「宮沢賢治旧居跡」の標識看板を撮影してきました。

 写真はこれですが、そういえば、すぐ近くに樋口一葉金田一京助の旧居跡もありました。↓

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                    『秀樹杉松』93巻2581号 2018-4-1,  #blog<hideki-sansho>221

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