第100回記念 秀樹杉松坂めぐり(2018.11.3)~石坂、おなかや坂、出口坂、薮の坂、つるし坂、大堂の坂、番匠免の坂。~青蓮寺、赤塚公園、赤塚城跡、乗蓮寺、東京大仏、赤塚植物園、松月院、松月院大堂、前八津川緑道。【板橋区成増・赤塚】。〜百回記念クイズ。。
今日は第100回記念の坂巡りでした。
これから4回に分けて、板橋区赤塚、徳丸の28坂を巡ります。東京23区では、港・文京・新宿の3区だけで370坂(23区の4割)あります。第4位の板橋区は、港区の半分の67坂。 以前歩いている板橋区ですが、この度の28坂めぐりは、“落穂拾い”とは言えない多さです。 / Atelier秀樹
<100回記念>
1)坂めぐりが、ちょうど100回目を迎えました。0(ゼロ)で終わる数字は区切りがいいので、10回・20回~90回は「記念特集」を組んできました。今回は特に考えていませんでしたが、「大台」でもあるので、無い知恵を絞りました。
因みに、このあと110回はあるでしょうが、120回はないと思います。
2)100回目だからといって、場所を選んだりはしません。大好きな言葉である邂逅(かいこう=思いがけなく出会う)に委ねます。今日の7坂は縁があってお会いし、歩かせてもらったのです。そして、どれも100回記念を飾るにふさわしい坂ばかりでした。
3)今日の7坂だけでなく、4回続けていく予定の板橋区内の28坂には、どれにも「坂標識」がありません。以前に歩いた同区の坂にあったかどうか、は覚えてはいませんが。「坂標識」を設置している区とそうでない区があります。各区がそれぞれの区政課題に取り組んでおり、区政の重点が同一でないことを理解しています。
4)その上での感想ですが、「坂標識がない」は「地図にも坂名が載らない」、「区民の坂道、交通、広くは歴史への関心が薄らぐ」ような感触を受けます。坂標識の設置、坂名の保存伝承は、文献に残すだけでなく、地域の文化歴史を形あるものとして現代に生かしてもらえれば、と切に思います。
<百回記念クイズ>
急遽「百回記念クイズ」を思いつきました。出題します。
→クイズ
~ 万は1万、千は1千のことを指しますが、百も1百でしょうか?
答え ①そうです
②違います
あなたはどちらを選びましたか。
正解は②とします。それには説明が必要でしょう。
単位としての百は「白」で、「一白」すなわち「百」が今の「一百」なそうです。
ちょっと込み入っているので、出題者自身がカルチャーショックを受けました。
この出題は、「百」のことを調べようと思って、漢和辞典に当たってみました。その結果、私が全く知らなかったことが書かれていたので、「よし、これをクイズに出そう」と思いつきました。
いくつか所蔵している中の『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹、藤野岩友、小野忍編 昭和61年)には、こうあります。
→百
一と白から成る。白が音を表し、親指の意のハク(壁の下部の土に替えて手を入れた漢字)からきている。親指一本で一百の数を表したのである。
古くは、単位としての百は白であり、今の一百が百であった。
「百が一個だから百」と単純に思っていましたが、「白が一個だから百、すなわち今の一百........。閑話休題。本題に入ります。 / Atelier秀樹
............................................................................
①石坂(いしざか)(#781)
板橋区成増4丁目と5丁目の間。音羽台レジデンス(老人ホーム)付近から南東方向に上る坂。南南東に上る。130m。緩やか。ほぼ直線。標識なし。
俗称「ドヤマ」の台地下から菅原神社(成増5-3)のある台地に上る坂で,成増4丁目と5丁目を分けている。この坂の名の由来は,成増村になる前の地名が石成村の小字成増であったので関係しているのかもしれない。(「郷土 板橋の坂道」による)
参考文献:「郷土 板橋の坂道」いたばしまち博友の会 平成10年
②おなかや坂(#782)
板橋区成増4丁目。青蓮寺の山門前から三園通りに出る坂。西南西に上る。120m。緩やか。緩やか。標識なし。
青蓮寺の東側に屋号を「おなかや」と呼ぶ田中氏の家があったことに由来。(「郷土 板橋の坂道」による)
青蓮寺
板橋区成増4丁目。「おなかや坂」の北にある。
赤塚公園(赤塚城址)
赤塚城は、康正2年(1456年)市川城から移った千葉自胤による築城。天正18年(1590)秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡し赤塚城は廃城となった。現在は赤塚城址として、板橋区史跡に指定されている。板橋区赤塚5丁目。
赤塚城本丸跡
「武蔵千葉氏と赤塚城」。赤塚公園の中にあります。
③出口坂(でぐちざか)(#783)
板橋区赤塚4丁目と5丁目の間。赤塚公園“城址地区”の西側の坂。南南西に向かって上る。320m。緩やか。西に凸状に湾曲する。
標識なし。この坂の上あたりが赤塚城が大手口にあたるので出口坂と呼ばれる。この坂名がある。(「郷土 板橋の坂道」による)
板橋区赤塚5丁目。浄土宗。「東京大仏」があり、寺の異称ともなっている。
乗蓮寺の境内にある。乗蓮寺は、昭和46年に板橋区仲宿から現在の赤塚に移転した寺院で、徳川家康から10石の朱印地を寄進された格式ある寺院です。境内にある東京大仏は、東京大空襲、関東大震災などの悲惨な戦災・震災が起きないように願いを込めて、昭和52年に建立されました。
高さが13メートルの青銅製で重さが32トンあり、新東京百景にも選ばれたほどです。
<編註>お母さんと一緒の小さなお子さん(2人)は、「だいぶつのオッパイ」と大騒ぎしていました。
④薮の坂(やぶのさか)(#784)
板橋区赤塚5丁目。乗蓮寺の西。不動の滝の前から南に上る狭い坂。南南西に向かって上る。100m。緩やか。ほぼ直線。
標識なし。不動の滝の前から赤塚城跡の台地と乗蓮寺の台地の間を通る狭間道で,笹の繁みが深い地域であることから藪の坂と呼ばれる。(「郷土 板橋の坂道」による)
赤塚植物園
板橋区赤塚6丁目。
⑤つるし坂(#785)
板橋区赤塚5丁目。赤塚植物園の南西。都道446号(長後赤塚線)から50mほど北に入り,そこから北東方向に向かって下り,次いで上る坂。坂の最低部にはかつて川が流れていた。北東に向かって下って上る。120m。かなり急な坂。ほぼ直線。
標識なし。現在は土盛りされて緩やかになっているが,かなりの急坂であった。この坂道は大堂の下の前谷津川に架かる“亀橋”に続いていたので「鶴嘴坂(つるしざか)」と呼んで鶴と亀との縁起をかついた。(「郷土 板橋の坂道」にる)
<編註>
「つるし坂」の「つるし」は鶴の嘴(くちばし)。「亀橋」との縁起なそうです。
⑥大堂の坂(だいどうのさか)(#786)
板橋区赤塚6丁目と7丁目の間。赤塚中央通りの松月院交差点から南に向かう坂。坂下は番匠免の坂につながる。坂の西奥に松月院大堂がある。北に向かって上る。170m。緩やかな坂。わずかに“く”の字に曲がりながら上る。
標識なし。坂の西側に“松月院大堂”があるためこの坂名になった。(「郷土 板橋の坂道」による)建武・延元の頃(14世紀)七堂伽藍を供えた大寺院であったため,村人は大堂と称していた。(「新編武蔵風土記稿」)
松月院(しょうげついん)
萬吉山(ばんきざん)宝持寺松月院。千葉自胤が1456年千葉県の市川城から赤塚城に移り、1492年に宝持寺を菩提寺に定め、松月院と改名させたのが始まり(Wikipedia)
松月院大堂
前谷津川緑道
前八津川は赤塚新町などの水源から出発し、赤塚、四葉、徳丸、西台、高島平の谷間を流れ、新河岸川に注いでいる。長さ5km余の小川である。...都市化とともに水量の少ない、コンクリートで仕切られた...どぶ川となった。1984年暗渠工事が完了し,川の流れを見ることはできない。その後緑道に整備され、現在の姿となる。
(takashima.pose.jp 高島平観光案内 前八津川緑道)
<編註>今日撮ってきた上の緑道写真は、赤塚7丁目です。
⑦番匠免の坂(ばんしょうめんのさか)(#787)
板橋区赤塚6丁目と7丁目の間。赤塚中央通りの前谷津川に架かっていた橋本橋から南に向かう坂。北側は大堂の坂につながる。南に向かって上る。南に向かって上る。緩やかな坂。ほぼ直線。
標識なし。旧小字“番匠免”に由来する坂名。かつての大寺“大堂”を建てたり維持に当たる大工を“番匠”といったが,この地域に番匠が住んでいて租税が免除されたことから番匠免の地名がついた。(「郷土 板橋の坂道」による)
...................................................................................
<編註>坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。
坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。
写真撮影はAtelier秀樹。
.....................................................................................
『秀樹杉松』99巻2719号 2018-11-3 / hideki-sansho.hatenablog.com #359