秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

95回 秀樹杉松坂めぐり(2018-10-19   文京区)~小篠坂、希望の坂、幽霊坂、鉄砲坂、鳥尾坂、鼠坂。~青柳小、目白運動公園、和敬塾、東京音大附属高、獨協学園、椿山荘。

 文京区内の8つの坂を巡ってきました。今日も幽霊坂がありましたが、現代風の「希望の坂」もありました。相変わらず、坂の近くには学校が多いですね。ご覧ください。/ Atelier秀樹

 

地下鉄有楽町線護国寺駅(スタート) 

 

小篠坂(こざさざか)(#756)

   ~別名:小笹坂(こざさざか)、乞食坂こじきざか)

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 文京区大塚5丁目から豊島区雑司が谷1丁目まで。不忍通りの“護国寺西”交差点から 護国寺の墓地沿いに広い道路が分かれた部分。緩く長い上り坂。上空を 首都高池袋線が通り,地下には 地下鉄有楽町線が通っている。このあたりは 文京区豊島区が 複雑に入り組んでおり,坂は両方の区にまたがっている。標識は文京区が建てたものがある。北北西に上る。310m。緩やか。首都高沿いの坂道。ほぼ直線。

 坂下の歩道橋付近に,文京区が設置した標識がある。

→「小篠坂 こざさざか (小笹坂)   豊島区と境を接する坂である。この坂道は,江戸のころ,護国寺の北西に隣りあってあった“幕府の御鷹部屋御用屋敷”から,坂下の本浄寺(豊島区雑司が谷)に下る道として 新しく開かれた。往時は笹が生い繁っていたことから,この名がついたものであろう。坂下一帯は,文京の区域を含めて,住居表示改正まで,雑司が谷町 とよばれていた。

 近くの目白台に長く住んだ「久保田空穂」は,次のようによんでいる。

 雑司が谷 繁き木立に 降る雨の/降りつのりきて 音の重しも  東京都文京区教育委員会 平成元年3月」

 この坂道が開かれた当時は 笹が生い繁っていたことから,この名がついたのだろう。(標識より)。命名時期:江戸時代。

 

希望の坂(きぼうのさか)(#757)

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 文京区大塚5丁目。不忍通りの“護国寺西”交差点付近。“区立アカデミー音羽”の西側から青柳小学校校門に突き当たる道。北北東に上る。140m。やや急な坂(高低差7m,平均斜度2.9度)。直線。

 坂上の校門前に,文京区が設置した標識がある。

→「希望の坂 きぼうのさか 文京区大塚5丁目40  この坂の名は青柳小学校のみなさんからの募集により,昭和53年(1978)につけられました。青柳小学校は大正3年(1914)旧西青柳町に開校し,町名を校名としました。小学校は昭和35年(1960)高速道路建設のため,現在地に移転されました。坂上には新校舎記念碑が立ち,坂道は子どもたちがたのしく学べる通学路であり,希望にみちた子どもたちの将来を願って,坂の名を「希望の坂」としました。平成6年(1994)開校80周年記念に「希望の坂」の歌の発表がありました。

 “希望の坂の上から元気な声が聞こえる 青い空に 白い校舎 明るく歌う声緑に囲まれた 青柳小学校 この坂道は ぼくの宝だ いつまでも忘れない”    文京区教育委員会 平成12年3月」 

 公募による坂名。希望にみちた子どもたちの将来を願って,この名になった。(標識より)。小学校内の通学路というマイナーな坂に 公式の標識がついているのは珍しい。命名時期:1978(昭和53)年

 

青柳小学校

 「希望の坂」の坂上右。

坂道は子どもたちがたのしく学べる通学路であり,希望にみちた子どもたちの将来を願って,坂の名を「希望の坂」としました」(坂標識の文章)

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幽霊坂(ゆうれいざか)(和敬塾)(#758)

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 文京区目白台1丁目。新江戸川公園の西側から,目白台運動公園和敬塾の間まで。北に上る。130m。かなり急坂。ほぼ直線。標識なし

 戦後,細川家が整備し和敬塾に引き継がれた私道。大きな木立が両側にあり,あまり人も通らない寂しい坂道であった。この坂道を利用して,地域の人たちが肝試しを行ったため,幽霊坂と呼ばれるようになった。(「ぶんきょうの坂道」による)

 命名時期:昭和(太平洋戦争後)。参考文献:「ぶんきょうの坂道」文京ふるさと歴史館 平成20(2008)年改訂版

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         細くて長い坂、しかも今なお鬱蒼と樹木に覆われ、まさに「幽霊坂

 

 <編注>「幽霊坂は500mばかり離れた日本女子大目白台2丁目)の西脇にもあります。以前行った時に同大女子大生に聴いたら「知らない」。やはり名前が名前ですから、PRはないのでしょうか。そう言えば、どちらにも坂標識無しです。

  

和敬塾(左)/ 目白運動公園(右)

 「幽霊坂」の東西に位置。

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鉄砲坂(てっぽうざか)(#759)

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 文京区目白台3丁目と関口3丁目の間。目白通り東京音大付属高校目白通りの’目白台3丁目’交差点を東に入り,首都高速池袋線の下から,東京音大付属高校の北を通って西に向う道。西に上る。110m。かなり急坂。わずかに左右に曲がる。

 坂下の首都高下に,文京区が設置した標識がある。

→「鉄砲坂 てっぽうざか 文京区関口3丁目と目白台3丁目の境。この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽大学学生寮のあたりは,江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂ということで「鉄砲坂」とよばれるようになった。 文京区教育委員会 平成4年3月 」  命名時期:江戸時代。

 

東京音大附属高校(左) /  関口台公園(右)

 「鉄砲坂」と「鳥尾坂」の間に位置。          

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鳥尾坂(とりおざか)(#760)

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 文京区関口3丁目。獨協学園高校東京カテドラル聖マリア大聖堂の間の道。坂下は西に,坂上は西南西に上る。170m。急な坂。わずかに左に曲がりながらる。 

 坂下の関口台公園の前に,文京区が設置した標識がある。

→「鳥尾坂 とりおざか この坂は 直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は 獨協学園,右側は 東京カテドラル聖マリア大聖堂 である。明治になって,旧関口町192番地に 鳥尾小弥太 (陸軍軍人,貴族院議員,子爵) が住んでいた。西側の鉄砲坂は 人力車にしても自動車にしても 急坂すぎたので,鳥尾家は 私財を投じて坂道を開いた。地元の人々は 鳥尾家に感謝して「鳥尾坂」と名づけ,坂下の左わきに 坂名を刻んだ石柱を建てた。 文京区教育委員会 平成9年3月」

 命名時期:明治時代

 

 獨協学園(左) /  椿山荘(右)

 「目白新坂」の坂上

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 ⑥目白新坂(めじろしんざか)(#761)

 ~別名:新坂(しんざか)、椿坂(つばきざか)

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 文京区関口2丁目と3丁目の間。音羽通りの“目白坂下”交差点から椿山荘近くまで。坂下は西に,坂上は北西に上る。約450m。緩やか。弓なりに曲がる,長い坂。

 坂の途中に,東京都が設置した標識がある。

→「目白新坂 めじろしんざか この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして,明治20年代の半ば頃 新しくつくられた坂で,古い目白坂 にたいして 目白新坂という。明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽8丁目と同9丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という,近年開創する所,坂名は椿山の旧跡に因むなり,里俗又 新坂ともいへり,道幅広く,傾斜緩なり」とあり,椿坂,新坂ともいう。」

 命名時期:明治20年

<編注>「目白坂」へは既に行っています。

  

鼠坂(ねずみざか)(#762

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 文京区音羽1丁目と小日向3丁目の間。音羽の谷から小日向の台地に上る 長い階段状の坂音羽通りの‘文京福祉センター前’交差点から少し東に入り,ここから50m北を 東に上る。東に向かって上る。110m。あまり急ではない階段。階段。

 坂の途中に,文京区が設置した標識がある。(2001年に設置されていた古い標識とは内容が変化している)

→「鼠坂 ねずみざか 音羽一丁目10と13の間 音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。鼠坂の名の由来について『御府内備考』には「鼠坂音羽五丁目より新屋敷へのぼるの坂なり, 至てほそき坂なれば鼠穴などといふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。

 森鴎外は「小日向から音羽へ降りる鼠坂と云ふ坂がある。 鼠ではなくては上がり降りが出来ないと云ふ意味で付けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論, 空車にして挽かせて降りることも出来ない。 車を降りて徒歩で降りることさへ, 雨上がりなんぞにはむづかしい...」と小説『鼠坂でこの坂を描写している。

 また, “水見坂”とも呼ばれていたという。 この坂上からは, 音羽谷を高速道路に沿って流れていた弦巻川の水流が眺められたからである。  文京区教育委員会 平成17年3月」

 鼠ではなくては上がり降りが出来ないという意味で付けた名。空車の人力車でも降りることも出来ない。 (標識より)

 

地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅(ゴール)

  

<編注>坂名と坂解説は、

「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。

  坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。

 

 『秀樹杉松』99巻2707号 2018-10-19/  hideki-sansho.hatenablog.com #347