秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

坂が俺を呼んでいる。待ってる! ~坂/坂名の魅力と坂学会坂プロフィール(第2回)

 

坂が俺を呼んでいる、待ってる!(第2回) 

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前号に続き、二回目を投稿します。

「坂学会/東京23の坂」ファイルから、港区内の130坂(うち4坂は消滅)のうち、坂名と別名を有する坂、すなわち複数の坂名を持つ坂を取り上げています。

 

坂学会の坂ファイルの紹介がメインですが、<編注>で編者(私)の、876坂を歩いた経験と少しばかりの勉強?をふまえた、感想・思い出・呟きなどを、気軽に挿入しています。坂についての知識は素人、甘く見ても”半人前”、坂歩きの経験はマアマアの私です。専門的・研究的なものは、坂学会坂ファイルにお願いし、私の<編注>は、まさに“蛇足”です。

 

街中に坂がいっぱいあります。坂学会ファイルを集計すると、前号で紹介の通り、東京23区内には921坂(うち24坂は消滅)あります。坂は数え切れないほどあるわけですが、名前の有る坂(”有名famous坂”ではありません)に限ってのことです。私が今回のブログ投稿で意図するところは、坂学会坂ファイルを紹介しつつ、坂/坂名の魅力を書くことです。それによって坂/坂名への関心が少しでも広がり、「坂を歩いてみようか」につながれば嬉しい限りです。

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横関書横関英一著『江戸の坂 東京の坂』の「坂名の変化転訛」には、次のように書かれています。(p.37-38)

江戸っ子にとって、坂に名をつけることなどは、他人にあだ名をつけることよりも、もっとたやすいことであった。だから江戸の坂の名は、いつも固定していなかった。坂の変化転訛は、地形の変化、施設物の移転、誤って呼び違い、故意に呼び変え、京都などの模倣、本当の転訛、などの、6つの場合を挙げています。

 

<編注>

転訛=語の本来の発音が鈍って変わること(kotobank.jp

<横関書>がいうように、江戸っ子は面白いです。ですから、私の<編注>での呟きも、いい加減な独断偏見とは言えないかも。

 

それでは前号に続き、「坂が俺を呼んでいる、待っている!」の2回目に入ります。なお、坂名に冠した番号は、編集上の都合からで、意味はありません。また、別名のない坂も6つ取り上げましたが、今回対象とした坂と同名の場合などに限りました。結果として、57坂が63坂に増えました。

……………………………………………………………………

 

 

18) 牛坂牛鳴坂

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 *源基経や白金長者の伝説のある笄(こうがい)坂に続く、古代の交通路で、牛車が往来したためと想像される(港区坂標識)。

<編注>

坂ファイルでは、牛坂を坂名にして牛鳴坂は別名に回しています。この微妙な坂名の配置に、私は感じるものがあります。苦しくて鳴き声(泣き声)を上げる牛ではなく、黙々と歩く、あるいはのんびり「モー」と鳴く光景も想像されるのです。念のため「横関書」をひもといたら、この坂は「西から東へ下る坂」(p.458)とあります。下り坂なので、坂を上るようなキツイ負担は牛にかからなかったかも。

 

 

19) 永坂長坂

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 *麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいうが、その確証は得られていない。(港区坂標識)

 <編注>長坂氏がほんとうに住んでいたのか、それともナガサカ合わせか?

 

 

20) なだれ坂長垂坂

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 *流垂、奈太礼、長垂などと書いた。土崩れがあったためか。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった(港区坂標識)

<編注>いくつかの表記、別名があったようですが、坂学会の坂ファイルには長垂坂だけ記載。「奈太礼」は、変体仮名だと「なだれ」。「流垂」「長垂」、ダジャレ?

 

 

21) 南部坂(赤坂)ー 難歩(なんぶ)なんぽ坂

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 *江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい、「忠臣蔵」で有名。のち、険しいために難歩坂とも書いた(港区坂標識)。

<編注>同じ港区内に、もう一つの南部坂(麻布)があります。

 

 

22) 南部坂(麻布)ー(別名はないが、前項との関連で掲載)

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 *有栖川宮記念公園の場所が、赤坂から移ってきた盛岡城主南部家の屋敷であったために名付けられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂

<編注>

坂学会会長の松本崇男氏は、2018年の坂研究会で、「ふたつの南部坂」と題する研究発表を行いました。

→ 明暦2年2月、南部山城守の赤坂築地の中屋敷と、浅野内匠頭長直の麻布の浅野屋敷とが相対替になり、この時以降麻布の浅野屋敷は、南部屋敷に変わった。この南部屋敷のそばにあった坂に南部坂という名が生まれたのも、浅野屋敷がなくなってそのあとへ南部屋敷が移って来てからのことである。

 

<編注2>

いずれにしても、同じ港区内の、しかも遠くないところに、二つの「南部坂」があるのは紛らわしいですね。松本氏の講義では、実際間違われた例の紹介もありました。ただ私は南部藩出身ですから、なんか嬉しくなって、両方の南部坂へ二度も行き、遠く離れた故郷を偲んだりしました。ありがとう、二つの南部坂!

 

 

23)ひじり非知ひじり坂、竹芝の坂

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 *古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開き、その宿所もあったためという。竹芝の坂とも呼んだとの説もある。(港区坂標識)

<編注>

別名「非知坂」の「非知」は、なるほどヒジリですね。単なる語呂合わせを超えて、私には「お偉い聖様に比べて、私は何にも知らない(非知の)民です」に聞こえます。江戸っ子は面白いですね。(私も東京都民です)

 

 

24)ねずみいたち

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 *細長く狭い道を江戸ではねずみ坂と呼ぶ風があったという。一名鼬いたち。(港区標識)

 <編注>ネズミとイタチは違う動物ですが、「細長く狭い道」を、ネズミ、イタチが通ったのでしょうか?ちなみにネット情報によれば、ネズミ=ネズミ目、イタチ=ネコ目です。猫と鼠の関係とは面白いですね。漢字では、鼬も鼠偏ですが。

 

 

25) 薬園坂御薬園坂、御役人坂

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 *江戸時代前期、坂の西部に幕府の御薬園(薬草栽培所・小石川植物園の前身)があった。なまって、役人坂、役印坂と呼ぶ。(港区坂標識)

<編注>

幕府の薬園(やくえん)を、「役人」「役印」と呼んだ。この例は江戸っ子の面目躍如ですね!? ヤクエン/ヤクイン/ヤクニン。発音が似ているので、間違ったフリして、ワザとそう呼んだんでしょうか。意味も知らずに、三つの発音で呼んだ庶民がいたかも。

 

 

26) 日吉坂ひよせ坂、ひとみ坂、ひとせ坂

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 *能役者日吉喜平が付近に住んでいたためこの名がある。ほかに、ひよせ、ひとみ、ひとせ、などと書く説もある。(港区坂標識)

<編注>

ヒヨシを誤って、似た発音ヒヨセと呼んだか、それとも「日寄せ」の意味を込めてヒヨセと呼んだか、興味深いですね。ヒトミ、ヒトセは?

 

 

27)ほら法螺ほらぼら

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 *法螺坂、鯔坂とも書く。この辺の字(あざ)ほらと言った。昔ほら貝が出たとも、また窪地だから、洞という、など様々な説がある。(港区坂標識)

<編注>

むかし法螺貝がでたは、まさかホラではないでしょうね。鯔坂は単なる語呂合わせだけなのか、ボラと何か関係があったのか、興味あります。この坂を歩くときは、皆んな大ボラを吹きながらだったんでしょうか。

 

 

28) 名光めいこうなこう光坂、なこう坂

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 *坂名の由来は、昔この辺りが蛍の名所で「名光」の地名だったことによる。非常に寂しいところで、江戸時代の切絵図には坂の南下あたりを、「樹木谷」あるいは「地獄谷」と呼ばれたと書かれている(港区坂標識)。

<編注>

別名の那光(なこう)坂、名こう坂は、坂名・名光(めいこう)坂から?、それとも、、、。

 

 

29)やっこやっこ

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 *①竹ヶ谷の奴で谷小坂、②薬王坂の訛り、③奴が多く付近に住んでいた、の3節あり(港区坂標識)

 <編注>①の「竹ヶ谷の奴やっこで、谷小やっこ坂」は、ずいぶん考えたもんですね!

 

 

30)  葭見よしみ吉見坂

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 *葭(よし)原を見下ろす坂だったから(港区坂標識)。

<編注>

ヨシとアシ

Wikipediaによると、「ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭)は、イネ科ヨシ属の多年草。河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成する」。つまり、この4字はヨシともアシとも読むのです。ヨシはアシでもあり、アシはヨシでもあるのです。ともすれば我々は、二者択一を急ぎ、好悪(こうお。ヨシアシ)善悪(ぜんあく。ヨシアシ)を峻別し、黒白をつけたくなりますが、どうやら、善・好は悪に通じ、悪は善・好に通じるようです。物事・人物のヨシアシの判断は難しい、いや出来ない?

 

<編注2>

因みに、江戸日本橋近くの葭原よしはら遊郭は、明暦の大火後に日本堤へ移転して吉原遊郭と改称。前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだそうです。したがって、葭見坂吉見坂はすんなり入ります。

 

<編注3>

朝日新聞の題字の背景の絵は、北海道・東京版は「朝日ににほふ山桜花」の和歌にちなんで、サクラですが、名古屋・大阪・西部版は、アシです。当時の主幹・津田貞の創刊の挨拶にあった「難波津なにわづによしとあしとをかき分けて」という言葉からとったといわれています。(朝日新聞HP、asahi.com)。

なお、朝日新聞明治12年(1979)大阪で創刊、明治19年に東京へ進出して「東京朝日新聞」発刊。「大阪朝日新聞」「東京朝日新聞」時代を経て、昭和15年(1940)年に題号を「朝日新聞」に統一。大阪は朝日の創刊地であり、現在は本店所在地となっています。

 

 

31) 安鎮あんちん 権田原ごんたわら

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 *付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので、坂名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。(港区坂標識)

<編注>「横関書」には 安珍安鎮坂 と書かれています。別名には安鎮坂の他に、権太坂・権田坂・権田原坂権太坂、権太原坂・信濃が挙げられています。権太と権田、ごんた坂とごんた原坂の、微細な違いですが、箱根駅伝のコースで有名ですね。信濃坂はなぜ?

 

 

32) 一本松坂相生あいおい坂、大黒坂

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 *源経基などの伝説をもち、古来植えつがれている一本松が坂の南側にあるための名。(港区坂標識)

 <編注>別名の説明はないですが、相生坂というからには、もう一本の坂があったのでは。それと、大黒様が近くにあった?

 

 

33) 稲荷坂(赤坂7丁目)ー 掃除坂

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 *坂下北側に円通院があり、その境内の稲荷への門があったための坂名。坂上江戸城清掃役の町があり、掃除坂ともいう。(港区坂標識) 

<編注>

 稲荷坂は多い坂名で、23区内に9坂あり、ベスト5に入ります。

 

 

34) 稲荷坂(赤坂4丁目) ー (別名「掃除坂」となっているが、これは前項の稲荷坂の別名ですので、誤植と思われます。したがって、別名なし)

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 *薬研坂から黒鍬谷に下る坂。坂下一帯は江戸城の労役を担当する黒鍬組の屋敷があったため、“黒鍬谷”と呼ばれた。坂名は、末広稲荷があったことに由来。

<編注>

33)、34)の2つの「稲荷坂」は、今は途中道路で分断されてるが、元々はつながった一つの坂(稲荷坂)だったのでは、と私には思われてなりません。たが、坂ファイルによれば、4丁目の稲荷坂は末広稲荷に、7丁目の稲荷坂円通寺の境内にあった稲荷に、由来すると書かれています。この疑問を坂研究の権威・松本崇男会長にもつぶやいてみたのですが、まともに取り合っていただけませんでした。日本坂道学会の坂ファイルを見たら、33)の稲荷坂のみが載ってます。

 

  

35) 大横丁坂 富士見坂こうがい

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 *桜田の通りから西へ下る坂を長い横丁と呼んで、「大横丁坂」が生まれたのであろう。六本木通りが開通していない時代は、渋谷方面への重要な街道でもあった(「東京の坂風情」)。(標識なし)

<編注>

日本坂道学会坂ファイルには、次のように出ています。

外苑西通りからテレビ朝日通りへ西から東に登る比較的長い坂道です。坂の南側には、西(坂下)から順にルーマニア大使館、ギリシャ大使館、ラオス大使館があります。坂道の標識は設置されていませんが、(財)港区スポーツふれあい文化健康財団のウェブサイトには、「江戸時代、この坂を俗にいう大横丁と呼んでいたことから、この名がついた。富士見坂とも呼ばれていた。

 

<編注2>

横関書」には大横丁坂の名は見えない。坂学会と日本坂道学会の坂ファイルで、大横丁坂の別名とされている富士見坂とみなしているようです。富士見坂の説明はこうなっているからです。

→ 富士見坂 = 港区元麻布3丁目の専称寺前から、西麻布3−3辺を西に下る坂。坂下は昔の笄橋のあったところで、牛坂へ上る道筋である。笄坂とも。 

 

  

36) 青木坂 ー 富士見坂

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 *坂下に港区が設置した標識がある。

 → 江戸時代中期以後 北側に旗本青木氏の屋敷があったために呼ばれた。

<編注>

富士見坂は、もちろん富士山が見えたからでしょう。

 

 

37) 富士見坂芝公園)ー(別名はないが、富士見坂なので掲載)

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 *東京タワーから道路を隔てた小さな丘の上に”西向き観音堂”がある。この丘は富士見台と言われ、タワーの下から上がっていく細い道があった。今は観音堂へ上る数段の石段があるだけだ。木々に囲まれた小さな古びた堂の姿に風情がある。フジの眺めはすでにない(「今昔東京の坂」)。(標識なし)

<編注>

私が行った時は、工事中で立ち入りできせんでした。

 

 

38) 新富士見坂(麻布)ー(別名はないが、富士見坂なので掲載)

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 *江戸時代からあった富士見坂(青木坂)とは別に、明治大正ごろに開かれた坂で、富士がよく見えるための名であった。

 

<編注>

富士見坂」は各地にあり、「横関書」によれば、23区内には15の「富士見坂」と1つの「富士坂」が出てきます。昔は今のように高いビルもなく、東京の高いところからは富士山がよく見えたんでしょう。この際ですから、「横道書」によって、23区内に多い坂名を調べてみました。以下の通り集計されました。

 

23区内で多い坂名

 

新坂20、富士見坂15、暗闇坂12、稲荷坂9、地蔵坂9、幽霊坂8、潮見坂8、中坂7、女坂7、禿坂7、清水坂7、芥坂5+埃坂1+五味坂1=7、大坂6、男坂6、切通坂6、三年坂6、不動坂6、雁木坂4、行人坂4、乞食坂4、団子坂4、鉄砲坂4、鍋割坂4、八幡坂4、胸突坂4、夜鑵坂4、観音坂3、昌平坂3、蜀江坂3、鼠坂3、念仏坂3

 

1位の新坂は新しくできた坂をそう呼んだに過ぎず、具体名ではありません。具体的な坂名としては、富士見坂15がトップ。以下、暗闇坂12、稲荷坂9、地蔵坂9、幽霊坂8、潮見坂8の5坂が続きます。近くにお稲荷さんがある稲荷坂、お地蔵さんに見守られる地蔵坂、樹木で鬱蒼とした暗闇坂、寂しくて幽霊が出そうな(出た!?)幽霊坂、海が近くに望める潮見坂。どれもこれも、庶民生活に密着したいい坂名ですね

 

 

39) 我善坊がぜんぼう谷坂 稲荷坂

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 *我善坊谷は麻布台地の北の谷。龕善坊がんぜんぼう谷とも書き、寛永3年、二代将軍秀忠の室(お江与)の葬礼が芝増上寺で執行され、葬列の途中にあたるこの坂の下に仮御堂が置かれた。この御堂を龕善坊堂と呼ばれ、後にこの谷筋は龕善坊谷と呼ばれ、我善坊谷に転訛したという(「江戸の坂道散歩」より)。(標識なし)。

<編注>

日本坂道学会の坂ファイルでは、稲荷坂我善坊谷坂横関書には「稲荷坂=我善坊谷より麻布六本木一丁目へ上る坂」とあり、我善坊谷坂は出てきません。

<編注2>

前項38)の集計の通り、稲荷坂(9)の坂名は多く、ベスト3に入っています。

 

 

40) 狐坂 ー 大隅

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 *元麻布三丁目の通称大隅山サウディアラビア大使館(現イスラーム学院)前から東へ、狸坂の麓まで下る坂。狸坂に対して狐坂としたもの(江戸東京坂道辞典)。(標識なし)

<編注>

昔はさびしいところで、狐が時々人を化かしたということである(江戸伝説)。(横関書)

 

 

41) 北坂姫下ひめおり坂、根津坂

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 *以前は立山墓地の脇を通る狭い坂を指していたようだが、現在は根津美術館の脇の坂北坂と呼んでいる。石川禎二「東京坂道事典」にも、「根岸美術館の東脇を西麻布二丁目に下る坂。元青山南町五丁目の通称長者丸という辺から笄町へ至る道路であった」と書かれている。北坂は笄坂の北にある坂の意味(「東京の坂風情」より)。(標識なし)

 

<編注>

横関書では、「姫下坂」の本文 (p.171-172)に章をもうけています。

→ 青山に姫下(ひめおり)坂という古い坂があった。渋谷長者(黄金長者)のお姫様と、白金長者の若息子とは恋仲で、いつも笄橋こうがいばしで落ち合っていたという伝説もある。渋谷長者の娘は、時によると、乗り物から下りて、この坂を、そっと一人で歩いて行くこともあるというのである。これが、姫下坂のいわれである。長者ヶ丸の姫の屋敷から笄橋までの間の坂らしい坂は、今の「北坂」の通りだけである。

巻末の坂名索引には「港区西麻布二丁目、長谷寺、大安寺の北外囲の辺にあった坂。今の「北坂」がその跡であろうか」と書かれ、北坂ー姫下坂よりも、姫下坂ー北坂、という感じです。

 

<編注2>

坂学会坂ファイルに「以前は立山墓地の脇を通る狭い坂を指していたようだが、現在は根津美術館の脇の坂を北坂と呼んでいる」と記され、姫下坂は現在の北坂とは別のところにあったことに言及しています。すなわち、姫下坂は北坂の別名ではなく、今の北坂の北東にあったと考えられる。こうした立場で、調査研究されている方々が実際いるのです。

 

→ お姫様が恋人に会いに行く時、沢で石がゴロゴロして危ないため、ここで駕籠(かご)を下りたという「姫下坂」。古い地図・文献で調べたところ、一致すると思われる坂があった。長者丸通に続く坂で、根津美術館の「北坂」から見て北東の方角だ。(定年時代 teinenjidai.com 坂のある街 伝説と一致の場所 姫下坂/港区) 

 

<編注3>

3月に予定されていた 坂学会坂歩き「この指とまれ「古の恋路」を辿り【姫下坂】へ 

が、コロナ対策で中止・延期となりました。この坂歩きを私は楽しみにしています。姫下坂を歩くからです。今回の企画・案内担当の井手のり子さんから、次のような案内が会員に届いています。

 

→「白金長者の息子銀王丸と黄金長者のお姫様が恋に落ち、逢瀬を重ねたと伝わるのが笄橋こうがいばしです。その道筋となった笄川(暗渠)に沿った坂を訪れながら、浪漫の道を辿ります。「姫下坂」がどこにあったのかは諸説あり、現在のところ3カ所が考えられていますが、おおよそこの坂であったとの考察をいたました、、、」。

さて井手さん考察の「姫下坂」はどこなのでしょうか、当日が楽しみです。

 

<編注4>

研究論文ではないので、平易な短い文章を心がけましたが、この「北坂」と「姫下坂」の関係、すなわち両坂が同じ場所(北坂ー姫下坂)なのか、少し離れた別々の坂なのか、の問題が絡み、少し複雑な長文となってしまいました。入り組んだものを「丁寧に説明」すると、一定の長さはどうしても必要でした。

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編注

さて、今回(第2回)は以上の24坂で終わります。残る22坂は次号の第3回に回します。今回の「複数の坂名を有する港区の坂」(坂学会坂ファイルより)」の紹介は、次号が最終回となります。では、次回をお楽しみに。

 

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(写真撮影:Atelier秀樹)

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『秀樹杉松』112巻2971号 2020.3.3/ hideki-sansho.hatenablog.com #611