坂名の魅力にせまる ~ 江戸っ子と都民が命名した坂の名前には、味わい深い庶民の生活感覚が反映しています!(第1回)
複数の坂名を持つ港区内の坂について、<坂が俺を呼んでいる。待ってる。>と題して、先般3回に分けて投稿しました。坂名の魅力は奥深いので、「これはご紹介したい」と思う東京23区内の坂名を、<坂名の魅力に迫る>と題して、新たにブログ投稿することにしました。
坂名の説明は、坂学会「坂のプロフィール」www.sakagakkai.orgに依拠しました。なお、必要に応じて、<編注>(編者わたしの注記)を挿入しました。
多い坂名の傾向を見てみると、おおよそ以下のように分けることができそうです。(あくまでも、坂愛好者としての私見・試見に過ぎません)
1)坂そのものに関わる坂名
①新しくできた坂=新坂、②二本の坂の間にできた坂=中坂、③大きな坂=大坂、④きつい坂=胸突坂、団子坂、急坂 ⑤坂の形=鍋割坂、薬罐坂、切通坂、雁木坂、女夫(夫婦)坂
2)坂周辺の施設などからの命名
=稲荷坂、八幡坂、観音坂、不動坂、地蔵坂
3)神社の坂
=男坂(石坂)、女坂
4)見る(見える)坂
=富士見坂、潮見坂、江戸見坂、八景坂
5)暗く鬱蒼とした坂(何か出そうな、出た?坂)
6)念ずる坂
=念仏坂、三年(念)坂
7)ちょろちょろ
=ネズミ坂、イタチ坂
8)家畜
=牛坂、馬坂
9)環境
=清水坂、ゴミ坂
10 ) その他
=乞食坂
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坂名の魅力に迫る(第1回)〜足立区・荒川区・板橋区・大田区・北区・江東区。品川区・渋谷区〜
<足立区>
この地域には工場があったが、1996(平成8)年に 住宅用地として、 住宅都市整備公団に譲渡された。隅田川と荒川に挟まれて“島”状態になっている 足立区の新田地区。現在は“ハートアイランドshinden”の一番街・二番街・三番街と名付けられた分譲マンションが完成している。
○さくら坂
その一角の“ハートアイランドshinden「一番街」と「二番街」の間に,細い遊歩道「さくら坂」が荒川堤防上に続いている。
○ふじみ坂
その一角の“ハートアイランドshinden「二番街」”の東側に,道幅は狭いが爽やかな遊歩道が荒川堤防上に続いている。この坂は 団地内に造られた遊歩道につけられた愛称である。
<編注>
足立区にはこの2坂しかない。それも、17年前にできた団地内に作られた遊歩道。わたしは、2018年5月に、ともに二つの坂しかない足立区と江東区を訪れて、初めて知りました。
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<荒川区>
○芋坂(いも)
坂名は 伝承によると,この付近で自然薯(山芋)が取れたのに因むという。正岡子規や夏目漱石,田山花袋の作品にもこの芋坂の名が書かれている。
○道灌山坂(どうかんやま)
荒川区と北区の境界に沿って 道灌山の高台に通じる坂。この坂は 2006年に,地元の町会から要望があって「道灌山坂」と名付けられた 新しい坂。
○ひぐらし坂
地元から要望により,「ひぐらしの里」(日暮里)に因んで 愛称として命名された。
○夕焼けだんだん
夕焼けが美くしいことと、下町情緒か感じられる名前として、谷中に居住する森まゆみ氏が命名した。(日暮里三丁目町会の公募)
日暮里駅と直線で結ばれる比較的広い道で、石段で区切られているため、坂の上下は車が通れず、自然の歩行者天国になっており、屋台の店が出たり、不思議なのんびりした雰囲気をかもしているいる。これが“だんだん”という名前のもとになっているかもしれない。西に向かって 40~50段ほどの石段で 高さが結構あるので,夕方は西日が当たり,天気のよい冬の日には ひなたぼっこができそうな場所である。
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<板橋区>
○岩の坂ー縁切坂(えんきり)
かつて坂の左側に榎の大木が聳え奥に第六天社があった。今は反対側に移され“縁切榎”と呼ばれる。坂の両側から覆いかぶさる樹木により昼なお薄暗く,不気味な坂であったので「いやな坂」が訛って「いわの坂」と呼ばれた。
縁切檜
○馬坂(うま)
下赤塚地域に伝わる大正末期の俗謡「ヨカヨカあめうり唄」に出てくる坂の名。坂名の起こりは,台地上に住む赤塚の人たちが,農作業で低地の田圃に行き来する馬のために開いた坂。
馬や牛が通れない「しったり坂」の代わりに新しく開削した坂。
○しったり坂
昔,大門の農家の人たちが徳丸田んぼ(高島平)へ通うため諏訪神社の西裏手の崖から下りる坂をいう。坂名の語源は明らかでないが,①非常な急坂なので,農耕の道具や収穫物を運ぶのは大変な苦労で,腰を落として後押しをする姿から「尻垂れ坂」になった。②坂の中程から「清水が湧き垂れる」からとか,③湿気がひどいので「湿ったり」の音転とも言われる。
○魚藍坂(ぎょらん)
昔,小豆沢の台地下の荒川で漁業をしていた村人が農業に転じた時,勝手に漁を行わないように,それまで使用していた多くの「びく」(魚藍) を,坂上に埋め塚(八百漁藍塚)を築いた。この側を通る坂なので魚藍坂という。
○だらだら坂
向原小学校の南側を上る曲がりくねった坂道。だらだらと長いのでこの名が付いた。
○つるし坂
現在は土盛りされて緩やかになっているが,かなりの急坂であった。この坂道は大堂の下の前谷津川に架かる“亀橋”に続いていたので「鶴嘴坂(つるしさか)」と呼んで鶴と亀との縁起をかついだ。
○峡ノ坂(かい)
かつて徳丸石川通りから直接弧を描いて上る坂があり,その一部(北側)が残ったもの。崖下(峡下)から上ったので峡ノ坂と呼ばれた。
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<大田区>
○相生坂(あいおい)
すぐ近くを並行する一組(2本)の坂道は“相生坂”と呼ばれることがある。ここの相生坂も、新幹線を挟んで両側に,2つの坂が並んでいる所から,この名前がついた。
○鐙坂(あぶみ)
梶原景季の愛馬磨墨が,鐙を谷に落としたところという“鐙谷”の地名から名づけられた。
○おいはぎ坂
坂名は、かつて通行人がたびたびおいはぎの被害にあったことから生まれたといわれている。また、この坂は、牛洗戸坂ともよばれたらしい。
○車坂 (くるま)
江戸時代にはすでに荷車が使用されるようになったから,“荷車を通す坂”ということで「車坂」と呼ばれるようになったと考えられる。
○鸛の巣坂(こうのす)
鸛(こうのとり)の巣があったということから,この付近を鸛の巣山(こうのすやま)と呼んでいた。 坂名は,それに由来する。また,坂下に今でも残る水路は,鸛の巣流れといわれている。
○蝉坂(せみ)
耕地整理以前からの古い道。坂名は,付近一帯が「池上村蝉山(せみやま)」と呼ばれていたことから名づけられたものと思われる。上池台三丁目41番と42番の間の「洗足流れ」という水路にかかる橋は蝉山橋と名づけられているが,これも蝉山の地名によるものだろう。
○ぬめり坂
『大森区史』は「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが,のめって上れなかった。付近の豪邸に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い,自ら望んでその坂に生埋(いきうめ)となった。以来その坂の通行は容易となり,大いに付近は繁栄したという」と記している。
○八景坂(はっけい)ーやけい坂、薬研坂(やげん)
その昔,この坂上からの眺めは素晴しく,近くは大森の海岸,遠くは房総まで一望のもとに見渡すことができたといい,そこから八景坂と呼ばれるようになったといわれる。昔は相当の急坂で,雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研のようになったため,薬研坂と呼ばれた。
<編注>
薬研坂=中央が窪み両側の高い形が、薬を砕く薬研に似ている。
○夫婦坂(めおと)ー女夫坂(めおと)
この坂は,北馬込1丁目品川境から,環七通りを挟んで 上池台4丁目地先に連なる坂で,その向い合うさまを夫婦にたとえて呼ぶようになったといわれている。
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<北区>
○飛鳥大坂(あすかおお)
今はきわめてゆるやかな勾配だが「東京府村誌」には「飛鳥山坂,本村(滝野川村)にあり,飛鳥橋の方に下る。長さ1町12間3尺,広さ3間,坂勢急なり」と記されているように都内でも有数な難所であり,荷車の後押して手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の,日光御社参の行列もここを通った。
○大坂 (おおさか)
この坂は,赤羽駅西口から赤羽台団地へ登る坂で, 古くから往来が多い坂です。昔は赤羽から上の台(うえんだい)に登り,旧板橋街道に抜ける坂でした。 大坂の名は,その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは,狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで,狸坂とも呼ばれます。また政右衛門(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます。
○かなくさ坂
鉄分を多く含む湧水により土が赤錆色に染ったことを“かなくさ”と表現したとの説がある。
○庚申坂(こうしん)
坂上の字・庚塚(かのえづか)へ通ずるところからこの名が生れた。
○牛蒡坂(ごぼう)
この辺りはゴボウ・ニンジンの生産が盛んで,坂名は“滝野川牛蒡”にちなんだもの。
○三平坂(さんぺい)
坂名の由来は,江戸時代の絵図にある 三平村の名からとも, 室町時代の古文書にある 十条郷作人三平の名からともいわれている。
○蝉坂(せみ)
かつて攻坂(せめざか)と呼ばれたものが 訛って“蝉坂”となった。
○念仏坂(ねんぶつ)
かつては細い寂しい坂であった。坂上に真頂院の墓地がある。坂の名はその故か。
○蛇坂(へび)
この坂は蛇のようにくねっているところから名がついた。
○幽霊坂(ゆうれい)
北側の塀のうちは墓地である。もとは墓地や樹叢の間を通る脇道であったから,短い坂ではあるが,日が暮れて一人で通るのはちょっとした勇気を必要したであろう。
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<江東区>
ディアラ江東(江東公会堂)
○ドレミ坂
江東公会堂(ティアラこうとう)構内 北東側。“ティアラこうとう”が竣工した時に命名されたようだが,詳細は不明。
○ピッコロ坂
江東公会堂(ティアラこうとう)構内 南東側。“ティアラこうとう”が竣工した時に命名されたようだが,詳細は不明。
<編注>
江東区には、区公会堂構内に作られた2つの坂しかない。団地内に2坂しかない足立区とともに、まさに現代が生んだ坂。
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<品川区>
◯江戸見坂 (えどみ)
坂上から江戸市中が見渡せたため、この名がついた。大正初めごろは、まだこのあたりは一面の耕地であったが、この坂から東京市中がよく見え、東京方には大井・大森方面の海が見わたせた。
◯清浦さんの坂 ー 清浦坂(きようら)
大森駅前池上通りから山王の高台に続くこの坂道は、第二十三代内閣総理大臣「清浦奎吾」にちなんで、「清浦さんの坂」と呼ばれていました。清浦は山王に長く住み、邸宅前の坂を清浦坂といわれるほどであった。
○木芽の坂 Konome-no Slope
この坂のある通りは,江戸時代は間部下総守の下屋敷の横の通りで,南側は崖になっていて下には泉があった。若葉の頃が美しかったのでこの名称がつけられたという。標識には「木芽の坂」と書かれているが,品川区HPや一般の地図などには「木の芽坂」と書かれることが多い。
○さいかち坂(皀莢)
坂名の由来は,坂の右手に「さいかち原」があったからとも,両側に さいかちの木があったからともいわれる。
○百反坂 Hyakutan Slope
この,現在「ひゃくたんざか」と呼ばれている坂は,古くは「ひゃくだんさか」と呼ばれていた。このあたりは,目黒川に向かって傾斜している台地の端にあたり,その傾斜が段々になっていることから名づけられたという。「百」とは,「数が多いこと」を意味することばで,「段々が多いこと」から「百段」になり,のちに「百反」に転化したとも考えられている。
○平和坂(へいわ)
大正十年に大改修が行われ現在の坂名に改められました。平和坂の由来は,改修当時,東京上野で開催されていた平和博覧会からとったそうです。
○ヘルマン坂
ドイツ人のヘルマン・スプリット・ゲルベルト氏がこの坂の途中に居住していたことから,こう呼ばれる。
かつては道の両側に大きな樹木がしげっていて、うす暗く寂しい場所だったために、この名称がついたといわれている。
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<渋谷区>
◯観音坂(かんのん)
坂名は、聖輪寺の本尊であった如意輪観音像に由来。
○勢揃坂(せいぞろい)ー源氏坂(げんじ)
後三年の役 -- 永保三(1083)年に 八幡太郎義家が奥州征伐にむかうとき,ここで軍勢をそろえて出陣して行ったといわれ,この名が残されております。
○天狗坂(てんぐ)
岩谷天狗商会を興した岩谷松平が晩年この地に住んだことから,この坂名が生れた。
○ネギ山坂
ネギ山坂という坂名は 昔このあたリにネギ畑があったことに由来するらしい。
○ネッコ坂
坂の形が木の根っこのように曲がっていることからこの名ができたらしい。
○フランス坂
この通りはイエローストリート,バスティーユ通りとも呼ばれる。坂名の由来は不明。
○やりくり坂
昭和4年(1929)ごろ,付近の住民が坂をつくるのに必要な費用を,やりくり算段して出しあい.また労力を奉仕して開通させたことに由来する。
○夕やけ坂
長谷戸小学校の正門前に建つ“夕やけこやけの碑”にちなんで名づけられた。
夕やけこやけの碑
草川信先生は 大正六年三月に音楽学校を卒業, 同年四月より長谷戸小学校の若き音楽教師として着任。 昭和二年四月までの十余年勤務されました。
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(写真撮影:Atelier秀樹)
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『秀樹杉松』112巻2974号 2020.3.14/ hideki-sansho.hatenablog.com #614