坂名の魅力にせまる ~ 江戸っ子と都民が命名した坂の名前には、味わい深い庶民の生活感覚が反映しています! (第3回)【完】
「坂名の魅力にせまる」第3回【完】文京区・港区・目黒区の坂名です。文京区37坂(127坂のうち)、港区10坂(130坂のうち)、目黒区16坂(47坂のうち)、計63坂が対象です。一番坂数の多い港区が少ないのは、すでに「坂が俺を呼んでいる、待ってる」シリーズで、3回にわたって取り上げたからです。
坂の名前と坂名の説明などは坂学会「坂プロフィール」(www.sakagakkai.org)に全面的に依拠しています。坂プロフィールは、多くの部分が坂標識や坂学文献からの出典ですが、本稿への引用掲載においては、これらの出典の表示は省略させていただきます。
今回も坂学会坂プロフィールだけでなく、必要に応じて、<編注>(編者の注記)や、<横関書>(横関英一『江戸の坂 東京の坂』)の坂情報を挿入しております。ぜひお読みください。
前号でお知らせした通り、今月は坂の写真を多く掲載した結果、今月の割当て容量をオーバーしました。このため、今月中は写真アップできなくなり、本項は文章だけの構成とせざるを得ません。ご了解をお願いいたします。
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<文京区>
○油坂(あぶら)ー 揚場坂(あげば)
その名の起りは不明である。この坂は別名『揚場坂』といわれているが,その意味は,神田川の堀端に舟をつけて,荷物の揚げおろしをするため,町内地主方が,お上に願って場所を借りた 荷あげ場であった。この荷揚場に通ずる坂道を 揚場坂道と呼んだのが のちに『揚場坂』と言われるようになった。
<編注>
別名「揚場坂」の由来はわかりましたが「油坂」とは? ちなみに「油坂」でネット検索したら、「油坂峠」が出てきました。福井県と岐阜県を結ぶ峠で、名前の由来が2説あり、その一つとして
→「岐阜県側から峠までの標高差が約420mと険しく、峠を上る旅人がだらだらと脂汗をかいたことから「油坂」と名付けられた」。
研究書なら別ですが、気楽な坂愛好者の私の呟きとしてお聞き逃しください、「なるほど、脂汗か。当たらずといえども遠からじ?」
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○網干坂(あみほし)ー 網曳坂(あみひき)、氷川坂(ひかわ)
むかし,坂下の谷は入江で舟の出入りがあり,漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは 千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた 水田地帯であった。
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○異人坂(いじん)
坂上の地に,明治時代東京大学のお雇い外国人教師の官舎があった。
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○S坂 ー 権現坂(ごんげん)、新坂
根津神社の正面(南側)の大鳥居前から,東京大学野球場の裏側を上る道。本郷通りから, 根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため, 新坂と呼んだ。また, 根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
森鴎外の小説『青年』(明治42年作)に.「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。 ……右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲, 左は出来たばかりの会堂(注・教会堂 今もある)で, …… 坂の上に出た。 地図では知れないが, 割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ……」とある。
旧制第一高等学校の生徒たちが, この小説『青年』を読み, 好んでS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。
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○お化け階段
上りと下りで段数が異なることから「お化け階段」として知られる坂道。かつては幅が狭く,薄暗い道だったが,拡幅工事が行われ手すりもついてきれいな階段に整備された。
かつては狭く暗い石段で,下から上ると40段,上から下ると39段になるため「お化け階段」と称されていた。途中“く”の字に曲がるところの踏み石が浅く小さい石だったため,上りと下りの数が違ったのだと説明されている。現在は3倍ほどに拡幅されて明るい階段となり,「お化け」の雰囲気はまったくなくなっている。下半分は古い階段部分がそのまま残されているため,妙な形の階段となっている。
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○解剖坂(かいぼう)
病院の裏にあるためか。
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○切支丹坂(キリシタン)
坂上に切支丹屋敷があったため。鎖国令から4年後の 1643(寛永20)年,宣教師・ジョセフ・カウロ一行10人が九州に来て捕らえられて江戸に送られた。この坂上にあった宗門改役の井上筑後守政重の下屋敷に牢(切支丹屋敷)が造られ,ここに収容された。屋敷は1792(寛政4年)に廃止された。
<編注>
坂学研究者で坂学会会長の松本崇男氏は、坂学会研究会で「切支丹坂考」という研究発表を行いました。坂学会「この指とまれ」(坂歩き)では「切支丹坂探訪」もありました。坂学会入会したばかりの私は、どちらにも参加しましたが、「坂学会に入会してよかった!」と感動しました。
松本崇男「切支丹坂考」序説の一部を紹介します。
→
「切支丹坂の所在場所については異論がある。切支丹屋敷周辺のいくつかの坂あるいは場所が切支丹坂といわれ、あるいは否定されてきた。これらの坂は、現在は別の名で呼ばれている坂、廃道となり坂そのものが消滅したもの、明らかに間違いと思われる記録なども含まれている。
複数の坂が切支丹坂といわれた理由は、江戸時代に著された書籍の記述や地図の表記があいまいで不確かなことにあった。もっとも、江戸の坂は同じ名前の坂がいくつもある。また、一つの坂が別の名前で呼ばれることもあったことから、切支丹坂も複数存在したと見ることもできる。
こうなると切支丹屋敷の近くの坂、あるいは切支丹屋敷へ通ずる坂のいずれの坂が切支丹坂であってもいいようでもある。」
現代における坂研究の重要文献といえるこの研究報告は、坂学会「坂のプロフィール」www.sakagakkai.org の 文京区 切支丹坂 の 参考文献 に追加されています。興味のある方のアクセスをお勧めいたします。
なお、次の行をクリックすると今ここでアクセスできます。
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○金魚坂(きんぎょ)
この地で金魚の店を開店したのが350年前。店の横の路地が坂道であることから「金魚坂」と呼ばれるようになった。2003年ごろに喫茶店を併設して知られるようになった。
<編注>
2018年12月に「金魚坂」を歩いた時に、金魚の写真をいっぱい撮ってきましたが、(今月の写真割当量オーバーのため)お見せできないのが残念です。
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○鷺坂(さぎ)
この坂上の高台は,徳川幕府の老中職をつとめた 旧関宿藩主・久世くぜ大和守の下屋敷のあったところである。ために土地の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。この久世山も 明治以降 住宅地となり 堀口大学(詩人・仏文学者。1892~ ),その尊父 長城堀口九万一 も居住するようになる。
そして,近くに住む詩人の三好達治,佐藤春夫などによって、山城の久世の鷺坂と結びつけた鷺坂という坂名が,ごく自然な響をもって世人に受けいれられてきた。
足本の石碑は,久世山会が昭和7年7月に建てたもので,揮毫は長城堀口九万一によるが,一面には万葉仮名で,他面には今日風で「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」とある。文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
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○三百坂(さんびゃく)ー 三貊坂(さんみゃく)
主君が登城のとき,玄関で目見えさせ、後 衣服を改め,この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは,遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから,家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え,世人もこの坂名を通称とするようになった。
<編注>
貊=獣の名。(角川漢和中辞典)
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○樹木谷坂(じゅもくだに)ー 地獄谷坂(じごくだに)
徳川家康が江戸入府した当時は,この坂下一帯の谷は,樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで,樹木谷坂の名が生まれた。地獄谷坂と呼ばれたのは,その音の訛りである。
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○浄心寺坂(じょうしんじ)ーお七坂、於七坂(おしち)
浄心寺近くの坂なので,この名が付いた。また坂下に「八百屋於七」の墓所 円乗寺 があることから「於七坂」の別名もある。
<編注>
八百屋お七は、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、火刑に処せられたとされる少女。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。
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○昌平坂(しょうへい)
湯島聖堂と,東京医科歯科大学のある一帯は,聖堂を中心とした 江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を,ひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで,昌平黌を今に伝える坂の名である。
神田明神から見通しの坂であった。聖堂境内拡張により、境内に組み込まれて消滅。今はない。
○昌平坂(しょうへい)ー 昌平脇坂(しょうへいわき)、団子坂(だんご)
前項の昌平坂の消滅後、拡張された新聖堂の外囲いの坂(聖堂の東脇坂。団子坂)を、昌平坂と呼ぶばようになった。坂上に「古跡昌平坂」の石標が建っている。
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○相生坂(あいおい)ー 昌平坂
神田川を挟んで対岸の駿河台・淡路坂と並ぶので相生坂という。相生坂も後年、昌平坂とよばれるようになった。
<編注>
<横関書>では、昌平坂 ー 相生坂となってます。そして、昌平坂(昌平脇坂、団子坂)坂上の「古跡昌平坂」の石標に関して、「昌平坂という坂のうちでは、いちばん遅れて昌平坂という名をつけられたものである。……とにかく、現在のところの“古跡”はどう考えてもおかしい。」とクレームをつけています。
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○湯島坂(ゆしま)ー 明神坂(みょうじん)、本郷坂(ほんごう)
本郷通りの神田明神下交差点付近から,湯島聖堂の北側を通って,神田明神の参道入口付まで(旧中山道)。湯島聖堂・神田明神の間を通る坂であるため,湯島坂・明神坂の名がついたのであろう。
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○妻恋坂(つまこい)ー大超坂(だいちょう)、大長坂、大帳坂、大潮坂
この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは,坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後浅草に移り,坂の北側に「妻恋神社(妻恋稲荷)」が 旧湯島天神町から移ってきてからである。
<横関書>
ずっと昔は大超坂といった。のちに、大長坂、大帳坂、大潮坂、大朝坂などといろいろ書いた。同じ発音に、書き方がいくつもあるということは、その坂名の起因が、はっきりわかっていないからである。大超坂と書くのが本当で、他はみな当て字である。
江戸時代の初期、寛永の頃、この坂の南側に霊山寺というお寺があって、その開基を大超和尚といった。この開基の名大超が坂の名になったのである。
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○立爪坂(たてつめ)ー 芥坂(ごみ)
爪先を立てて上る坂という意味でこの名称がある。また芥坂の名は,近くにゴミ捨て場があったためだろう。
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○炭団坂(たどん)
名前の由来は「ここは 炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように 階段や手すりがないころは,特に雨上がりには 炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。
<編注>
炭団=炭の粉を丸め固めた燃料。火もちがいい。
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○団子坂(だんご)ー 潮見坂(しおみ)、千駄木坂(せんだぎ)、七面坂(しちめん)
「団子坂」の由来は,坂近くに団子屋があったともいい,悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また,「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり,ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
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○富坂(とみ)ー西富坂(にしとみ)、飛坂(とび)
かつて,旧水戸藩邸付近にトンビ(鳶)が多いたため“鳶坂”と呼ばれ,転じて“富坂”となった。また,春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで,東西に坂がまたがって飛んでいるため 飛坂ともいわれた。そして,伝通院の方を 西富坂,本郷の方を 東富坂 ともいう。
○東富坂(ひがしとみ)ー 東鳶坂(ひがしとび)、真砂坂( まさご)
本来の「東富坂」は,この坂の南を通る 地下鉄丸ノ内線に沿った 狭い急坂である。現在は,「旧東富坂」と呼んでいる。
もともとの坂は江戸の頃,木が生い繁り,鳶(とび)がたくさん集まってくることから「鳶坂」といい,いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになったという。
現在の東富坂は,本郷3丁目から伝通院まで,路面電車(市電)を通すにあたり,旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は,1908年(明治41)4月11日に開通した。現在,文京区役所をはさんで反対側にある坂を,「富坂(西富坂)」と呼び区別している。
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○猫又坂(ねこまた)ー 猫股坂、猫狸坂(ねこまた)
むかし,この辺に狸がいて,夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時,若い僧が,食事に招かれての帰り,夕暮れどき,すすきの茂る中を,白い獣が追ってくるので,すわっ,狸かと,あわてて逃げて 千川にはまった。そこから,狸橋,猫貍橋,猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
<編注>
猫又、猫股は、日本の民間伝承や古典の怪談、随筆などにあるネコの怪獣。大別して山の中にいる獣といわれるものと、人家で飼われているネコが年老いて化けると言われるものの2種類がる。(ウィキペディア)
猫股=猫の年老いて尾の二つに分かれたもの。化けて人を害するという。(角川漢和中辞典)
<編注2>
いま思い出しました。「徒然草」に確か、こんな文章がありました。
→「奥山に、猫又といふものありて、人を食らふなると人の言ひけるに、、、」。当時、猫又って何だろう?と思いましたが、その程度の関心に過ぎなかったです。
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○富士見坂(ふじみ)(本郷)
江戸時代は周囲に高い建物もなく,坂の西横方向に富士山が見えたのであろう。
○富士見坂(ふじみ)(大塚)
坂上からよく富士山が見えたのでこの名がある。 高台から富士山が眺められたのは, 江戸の町の特色で, 区内には同名の坂が他に二か所ある。
<編注>
2019年1月12日の坂学会坂歩き「この指とまれ」は、富士見坂めぐり 第2弾でした。日暮里、豊島区高田、目黒などの富士見坂と一緒に、この大塚の富士見坂へも行きました。
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○御殿坂(ごてん)ー 富士見坂、大坂、御殿表門坂
享保の頃,此坂の向ふに富士峰能く見へし故に,富士見坂ともいへり。
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○見送り坂(みおくり)
○見返り坂(みかえり)
江戸を追放された者が,この「別れの橋」で放たれ,南側の坂(本郷3丁目寄)で,親類縁者が涙で見送ったから 見送り坂。追放された人が 振り返りながら去ったから見返り坂といわれた。今雑踏の本郷通りに立って、500年の歴史の重みを感じる。
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○無縁坂(むえん)ー武縁坂(むえん)、武辺坂(むへん)
団子坂(汐見坂とも)に住んだ,森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで,多くの人びとに親しまれる坂となった。昔,坂上に無縁寺があったためこのように呼ばれた。森鴎外の「雁」や,さだまさし作詩・作曲の歌「無縁坂」で有名。
<編注>
さだまさし ♪「無縁坂」
母がまだ若い頃 僕の手を引いて / この坂を登るたび / いつもため息をついた、、、、
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○胸突坂 (むなつき)(目白台) ー 水神坂(すいじん)
胸突坂の坂名は,急な坂を上る時の姿勢から名づけられた。坂がけわしく,自分の胸を突くようにしなければ上れないことから,急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので,別名「水神坂」ともいわれる。
○胸突坂 (白山 ) ー 峰月坂(みねつき)、新道坂
急峻なり、よって此名を得。『胸突坂」とは急な坂道の呼び名で区内に3ヶ所ある。
○胸突坂(本郷)ー 菊坂
胸突坂の坂名は,急な坂を上る時の姿勢から名づけられた。かつては この坂が「菊坂」と呼ばれていたが,現在の菊坂の方に名前をゆずって,こちらは「胸突坂」となった。
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○薬罐坂(やかん)(めじろ台)ー 夜間坂,野豻坂,夜寒坂,射干坂(いずれも“やかん”)
やかん坂のやかんとは,野豻 とも 射干 とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。野狐のことを野罐(野豻)といった。野狐が出てひとをたぶあらかすような 、もの寂しいところなのでこの名がついたか。野罐から薬罐に転じた。
また,薬罐のような化物が転がり出た,とのうわさから,薬罐坂と呼んだ。夜間坂のおこりは,この地が「夜さむの里道」と,風雅な呼び方もされていたことによる。
○薬罐坂(小日向)ー 野豻坂(やかん)
野狐のことを野罐(野豻)といった。野狐が出てひとをたぶあらかすような もの寂しいところなのでこの名がついたか。野罐から薬罐に転じた。
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○湯立坂(ゆたて)ー 湯坂
昔この坂の下は川があって氷川神社に渡ることができなかったので,神社の氏子は川の手前で 湯花を捧げたため,この名がついた。(湯花とは,湯の沸騰時に上がる泡のこと。神社で巫女などがこれを笹の葉につけ,参詣人にかけ浄めた。この儀式を“湯立”と呼ぶ)
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○幽霊坂(ゆうれい)(女子大) ー 遊霊坂
日本女子大の西側を南北に通る坂。かつて坂の西側に本住寺があり,その墓地が竹垣の間から見えたため,この名がついた。坂の西側は江戸時代には旗本屋敷だったが,1901(明治34)年に“日本女子大学校”が設立された。
<編注>
「幽霊坂」は<横関書>によると、都内には8坂ある。私の歩いた記憶によると、幽霊坂の坂標識は見られなかった。名前が名前だけに、“知る人ぞ知る”感じで、地元の人に訊いても手応えはあまりなかった。日本女子大の西側の道路が「幽霊坂」だと知って、なんか複雑な思いでした。
坂標識がないので確かめる意味と、女子大生が知っているかの興味も加わり、すれ違った女子大生に「幽霊坂とはこの道でしょうか?」と、尋ねました。答えは(ある意味予想通り)NOでした。普通なら、自分の大学の敷地のすぐ隣の道の名称を、当然知っていておかしくないでしょう。知らないのは彼女だけなのか、それとも、、、。宣伝周知させるような坂名ではない?
戦後,細川家が整備し和敬塾に引き継がれた私道。大きな木立が両側にあり,あまり人も通らない寂しい坂道であった。この坂道を利用して,地域の人たちが肝試しを行ったため,幽霊坂と呼ばれるようになった。
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<港区>
○芋洗坂(いもあらい)
正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが,六本木交差点への道が明治以後にできてこちらをいう人が多くなった。坂の付近に芋問屋があったからという。
<編注>
この芋洗坂は、文字通り「芋洗い」のようです。一口坂(いもあらいざか)とは、無関係?
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○饂飩坂(うどん)
天明年間末(1788)頃まで 松屋伊兵衛という うどん屋があったために,うどん坂と呼ぶようになった。昔の 芋洗坂 とまちがうことがある。
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○榎坂(えのき)
この辺りは幹線道路が交差して大きな坂ばかりだが,昔はせいぜい荷車がすれ違う程度の道であった。おそらく一里塚の榎が立っていたのであろうがそれが何処かはわからない。
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○於多福坂(おたふく)
坂の傾斜が,途中でいったんゆるやかになって,また下ったので,顔のまん中の低い お多福面のようだと 名づけられた。
<編注>
おたふく=おかめ。鼻が低く頰が丸く張り出した女性の顔、あるいはその仮面。
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○転坂(ころび)
江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよく転んだために呼んだ。一時成徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。
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○サカス坂
TBS放送センターの再開発によって 2008年に造られた“赤坂サカス”の敷地内を南北に通る坂。坂上はさくら坂(サカス)にぶつかる。
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○さくら坂
2003年6月に開業した「六本木ヒルズ」の中。東西に通るメインストリート (けやき坂)の裏側(南側)を平行する坂。坂途中の南側には“さくら坂公園”がある。街路樹として桜の木が植えられ,春には美しい花をつける。これが坂名になったのだろう。
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○スペイン坂
六本木通りからスペイン大使館につながることから「スペイン坂」と名付けられた。
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○フランス坂
パリによく見かけるような小さな石段の坂道なので この坂名になった,という説があるが,詳しい事情は不明。
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○行合坂(ゆきあい)
下りの部分と上りの部分がある(双方から行き会う)ことからこの名になったのか。
<編注>
「乃木坂」の別名の一つも「行会坂」です。
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<目黒区>
○相ノ坂(あい)ー 合の坂
大坂と 新道坂の間にある坂なので「あいの坂」と呼ばれる。
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○石古坂(いしこ)
名前の由来には諸説あるが,一般的には石ころが多い坂だったので「石ころ」が転じて「石古坂」と呼ばれるという説が有力。
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○謡坂(うたい)
昭和の始め頃,この坂の近くに謡の好きな人が住んでいたので謡坂と呼ぶようになったといわれる。ここには 木製の標識(目黒区設置)と 石の標識(私設)の2種類が建っている。石の標識は 御影石製で,マンションの前に建っている。「謡」の字が崩して書かれているため,名前を知らないと読みにくいのが難点。
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○柿の木坂(かきのき)
坂の途中に人目につく大きな柿の木があったので,この名がついたといわれる。また,近所の子どもが,この坂を通る野菜を運ぶ荷車から 柿を抜き取ったため,「柿抜き坂」が変わって「柿の木坂」になったという説もある。
<編注>
歌謡曲ファンの私は、すぐに青木光一「♪柿の木坂の家」を思い出し、もしかしてこの「柿の木坂」かと思って、ネットで調べました。他にもそういう方がいらして、調べた結果がわかりました。
この「柿の木坂」は広島県廿日市市明石峠付にあるそうで、なんか、残念のような気がしました。ご存知でしたか、この歌謡曲を、私はいまでも大好きです。歌詞の冒頭だけ掲げます。
→「♪春には柿の花が咲き / 秋には柿の実が熟れる / 柿の木坂は駅まで三里、、、」
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○けこぼ坂 ー けころ坂
かつて,このあたりは急坂であったため,斜面を切り開く切り通しの工事が何回となく繰り返された。その結果,道の両側の土手はますます高くなり,風雨にさらされた土手からは,赤土のかたまりが ざらざらこぼれ落ちた。この状態を目黒の古い方言で“けこぼ”といい,土地の人々は,この坂を “けこぼ坂”と呼んでいた。
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○権之助坂(ごんんのすけ)
中目黒の田道に権之助という人物があった。悪党とも大人物とも言われているが,官憲に捕らえられて斬首されることになった。今生の思い出に我が家を見たいと願ったので,縛られたまま馬上からその願いがかなえられ,この坂は権之助坂と呼ばれるようになった。
<編注>
今この坂学会坂プロフィールの文章を写しながら、2017年12月に「権之助坂」を歩いた時のことを思い出しました。地元の人の話では、権之助は大きな功績があったと教わりました。帰宅してから調べて、ブログに長い文章を書いた記憶が蘇り、今慌てて2年余り前の「秀樹杉松」を調べたら、ありました!
権之助坂について書かれた目黒区の公式HP www.city.meguro.tokyo.jp からの引用です。ぜひお読みください!
→
「江戸の中期、中目黒の田道に菅沼権之助という名主がいた。あるとき、村人のために、年貢米の取り立てをゆるめてもらおうと訴え出るが、その行為がかえって罪に問われてしまう。なんとか助けてほしいという村人の願いも聞き入れられず、権之助は刑に処せられることになり引かれて行く。
「権之助、なにか思い残すことはないか」と問われて、「自分の住んだ家が、ひと目見たい」と答える。馬の背で縄にしばられた権之助は、当時新坂と呼ばれていたこの坂の上から、生まれ育ったわが家を望み、「ああ、わが家だ、わが家が見える」と、やがて処刑されるのも忘れて喜んだ。父祖の家を離れる悲しみと、村人の明日からの窮状が権之助の心を去来したかも知れないが、それは表情には現わさなかった。
村人は、この落着いた態度と村に尽した功績をたたえて、権之助が最後に村を振り返ったこの坂を「権之助坂」と呼ぶようになったといわれている。また、一説によると権之助は、許可なく新坂を切り開いたのを罪に問われたといわれている。
昔の道路は、江戸市中から白金を通り、行人坂をくだって太鼓橋を渡り大鳥神社の前に抜けていた。この道があまりにも急坂で、しかも回り道をしていたので、権之助が現在の権之助坂を開き、当時この坂を新坂、そして目黒川にかかる橋を新橋と呼んでいた。」
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○十七が坂(じゅうしち)
坂近くに 戸数十七軒からなった集落があったため。あるいは,この坂ですべってころぶと17歳になった時災いが起こるという言い伝えがあったため。
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○どぜむ坂ー どぜも坂
坂名の“どぜむ”は 堂前(どうぜん) の意味で,昔 このあたりの道端にお堂があったことから“どぜむ坂”と呼ぶようになったといわれる。
また,この土地の“土左衛門”なる人がひらいた坂なので“どざえもん坂”,それがなまって,“どぜも坂” “どぜむ坂”とよばれるようになったともいわれている。
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○なべころ坂
昔は鍋がころがるほどの急坂であったので,なべころ坂とよぶようになったといわれる。また,道に粘土が露出した状態を,方言で「なべころ」といったことから,坂名になったともいわれる。
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○馬喰坂(ばくろ、ばくろう)
目黒の古い方言で,風雨にさらされ地面に穴のあいた状態を「ばくろ」といった。この坂にはこの「ばくろ」が多かったので,ばくろ坂とよぶようになったといわれる。馬喰とはあて字であろう。
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○化坂(ばけ)
武蔵野台地の斜面に多い赤土層に砂礫層が露出し, 湧水が出る所を「はけ」といった。それが転じて化坂となったといわれる。また,この坂が衾(ふすま)と深沢の境を分けたので「分け坂」とも呼んだという。
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○兵庫坂(ひょっこ)ー しょっこ坂、蜀江坂(しょっこう)
坂側に兵器庫があったためと伝えられる。
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○別所坂(べっしょ)
この近くに 別所 という地名があったので,別所坂とよばれるようになったという。「別所」とはふつう 新しく開いた土地のことを意味するが,目黒では つきあたった所,行き止まりのことも「べっしょ」といっていたことが坂名になったともいう。
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○三折坂(みおり)ー 御降坂(みおり)
三つに折れ曲った形状から 三折坂とよばれるようになった。また,目黒不動への参詣者がこの坂を降りていくので,「御降みおり坂」とよんだともいわれる。
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○睦坂(むつみ)
この坂のある道は,昭和の初めの耕地整理によって新しく造られた道である。当時この付近に住んでいた人々が親睦を願って名付けた。
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○目切坂(めきり)
石臼の目を切る職人が住んでいたため目切坂となったと記されています。由来については諸説ありますが。
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<編集後記>
1)「坂名の魅力にせまる!」(1〜3回) が終了しました。これに先立つ「坂が俺を呼んでいる。待ってる!」(1〜3回)とあわせ、計6回にわたって、坂名を取り上げました。書き終えた今、「坂名二部作6号シリーズ」と名付けてみました。
2)私は坂学研究者ではもちろんありません。その面では、全くの素人です。坂歩き(坂めぐり)と、少しばかりの“お勉強”をしたに過ぎません。
3)今回の6号シリーズの動機は、①自分の坂巡りのレビュー、②坂に関心・興味のない方々に、坂と坂名の魅力を少しでもお伝えしたい、の2点でした。
4)下手すると、単なる私一人の「坂・坂名への思い入れ」と、坂愛好者の個人的な「呟き」に終わったかもしれません。
5)6号に及んだ「坂名シリーズ」が、どなたかのお目にとまり、「坂って面白そうだな」「いつか歩いてみようかな」という方の出現が夢です。
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(写真撮影:Atelier秀樹)(今回は掲載できませんでした。)
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『秀樹杉松』112巻2976号 2020.3.21/ hideki-sansho.hatenablog.com #616
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