鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(8)~ ◉“アラハバキの末裔”と称する安倍一族とは?ー奥州武士団のルーツ、 ◉安倍一族は平家一家と結びついていた?ー鉱山経営と海外貿易。 <付録>「安倍宗任と安倍晋三」ほか(再録)
『古代みちのく101の謎』(鈴木旭著)の読書ノートも、8回目を迎えました。あと2回ぐらいで、このシリーズ終える予定です。
さて今回は”アラハバキの末裔”と称する安倍一族(奥州武士団のルーツ)を取り上げます。
実は、本シリーズ第1回(10/15号)で取り上げた「アラハバキ連合の大征戦」との関係もあり、同号の末尾に<参考資料>(1)(2)(3)を載せました。
この<参考資料>を本号の末尾に再録しましたので、必要な方はお読みください。
86 “アラハバキの末裔”と称する安倍一族とは? ー奥州武士団のルーツ
1)アラハバキ最後の酋長アテルイが刑死した後、古代東北には、過去に連なるアラハバキ族の栄光は地に落ちて影もなく、華やかな都の文化に憧れ、卑屈に隷従する他に道がなくなっていた。その兆候は半世紀も遡る時代から表面化しつつあった。
2)道嶋嶋足という、牡鹿軍の蝦夷族長出身から中央に進出した新興官僚は、孝謙天皇の側近くに侍り、道教と通じて藤原一族と対抗し、恵美押勝を押し付けた功によって異例の出世を遂げた。しかしその晩年は哀れである。二人の蜜月は終わり、失脚すると同時に歴史上からも消え去った。
3)しぶとく奥州に土着し、独自の生き方を貫く一団もあった。アテルイの刑死から半世紀後の頃である。本拠である津軽の地まで退却していたアラハバキ族の末裔たちは「安倍姓」を名乗る豪族集団として生き残っていた。
(会津若松城跡にて、2019年10月)
4)岩木山の北に広がる津軽平野の再開墾に努めながら、十三湊を活動拠点として対宋貿易に取り組み、「農武皆兵」という独特な制度を編み出して再起に燃えていた。農民イコール兵士という思想は、関東平野における武士団の発想と似ている。『東日流外三郡誌』に「斉衡甲戌元年(854)安倍一族再び奥州を征握す」と記されている。
5)倭国では律令制度による国家支配が、貴族中心の荘園制土地支配によって空洞化しつつあり、その在地勢力(代理人)の中から武士団が誕生してきた。もはや、国のために行動するのではなく、有力な貴族のために私的に奉仕する集団ー武士団が活躍する時代に移ろうとしていた。
6)津軽にお押し込められた安倍一族は武士団のルーツ的存在であったと言っても間違いがなかろう。安倍一族 ーそれは遠い、遠い過去のアラハバキの伝統を背負っているばかりでなく、後世になって登場する武士団の形を先取りした集団として立ち現れた人々だったのである。
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(会津美里町にて 2019年10月)
87 安倍一族は平家一族と結びついていた?ー鉱山経営と海外貿易
1)津軽の片隅に追いやられたアラハバキの末裔は「安倍一族」という在地豪族(武士団のルーツ)に姿を変えて再生する。それは、倭国における律令制度の崩壊によって、荘園の管理人や開発領主という形で誕生する武士団に通じるところがあった。それが、歴史上、初めて登場するのが元慶の乱(878)。
2)津軽の地の夷狄(安倍一族)が再び歴史のキャスチングボートを握る位置に浮上。かつてのアラハバキ族が分裂して互いに敵味方に分かれて戦う事態になり、もはや、アラハバキ族などは有名無実のものとなり、倭国における在地豪族と何ら変わるところがなくなっていった。
3)これをきっかけに、安倍一族は本拠の津軽に留まらず、今の青森県一帯、それに胆沢、江刺、和賀、稗抜、志和などの岩手県中南部まで勢力圏を拡大する。かつての山岳ゲリラ集団は、鍛えられた戦争プロフェッショナル集団に変身していた。武力にものを言わせて陸奥国の公領となったアラハバキの故地を開放していく。
4)永正二年(1051)前後、アテルイの故地、衣川を南に越えて仙台平野を望まんとした時のこと。多賀城に陣取る陸奥国守の藤原登任の逆鱗に触れ、ついに正面衝突の時を迎える。史上名高い「鬼切部の戦い」である。安倍一族は官軍をものともせずに撃退し、胆沢城などの周辺諸城と柵を支配下に収める。もはや、軟弱な文官などは到底及ぶべくもない強力な戦闘力を備えるに至った。
(会津美里町にて 2019年10月)
5)源氏の棟梁、源頼義と八幡太郎義家の親子が奥州征伐に乗り出すが、「治安の回復」という大義名分の他にもう一つ、隠された目的があった。金銀を豊富に産出する鉱山開発と鉄資源の奪取である。鉱山開発で莫大な富を築いた源氏一族ならではの発想であった。奥州制覇にこだわる源氏一族の執念は、そこから出発している。
6)それを背後から見守っていたのが、平家一族。この平家一族が対宋貿易に熱心であり、それを独占することで莫大な利益を得ていた。注目されるのは、輸出品の中心を占める金や硫黄、漆などがどこから運ばれてきたのか、という点である。その産出地となっていたのが、安倍一族の支配する奥州であった。
7)平家一族と安倍一族の交流が、かなり前からあったことを示す「願文」が十三湖の辺りにある日吉神社に残されており、それに平朝臣清盛、左兵衛重盛らの名が記されている。源氏と対抗するエネルギーの源は、やはり、平家との結びつきを考慮に入れておかないと合理的な回答が得られないように思われる。
8)源氏一族との対抗上、源氏と対立する安倍一族の対宗貿易を黙認するか、バックアップする。そうした背景がなければ、安倍一族の対宗貿易も源氏一族との戦いもあり得なかったのであ
る。
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( 再 録 )
本シリーズ第1号(10/15)に載せた、<参考資料> (1)〜(3)を、再録掲載します。安倍一族の参考になるかと思いますので。
◉<参考資料 1>
~「河北新報」ONLINE NEWS(9/3)デスク日誌) kahoku.co.jp
退陣を表明した安倍晋三首相は遊説で東北を訪れると「自分のルーツは東北」とよく口にした。前九年の役で敗れ、西国に流された安倍宗任の44代目を自任。宗任が拠点とした岩手県金ケ崎町の「鳥海柵(とのみのさく)跡」が2013年に国史跡に指定された際には「大変喜ばしい」と祝電を寄せている。
その「ルーツ東北説」に、「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」の関係者が関わっていたことを最近、知った。
「外三郡誌」は五所川原市の農家で見つかった「古文書」群。古代津軽に大和朝廷と対立する王朝が存在したと説き、一部歴史ファンの支持を得た。全て発見者の男性の偽造だったことが今は定説となっている。
でたらめぶりを暴いた元地元紙記者の著書には、「古文書」が本物だと主張し、偽史を論拠に数々の文章を発表した大学教授が、首相の父晋太郎氏を「安倍一族の末裔(まつえい)」と持ち上げ、晋太郎氏も「その気になっていた」との記述がある。
長州(山口県)出身の首相が「蝦夷の末裔」ならば、興味深い話ではある。ただ、外三郡誌関係者が関与しているとすれば、とたんに眉唾ものの臭いがしてくる。
(青森総局長 大友庸一)
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◉<参考資料 2>
釜石の日々(blog.goo.ne.jp)
①東北の歴史では一般に平泉文化を生み出した奥州藤原氏、奥州安倍氏が良く知られているが、藤原氏や安倍氏を支えた経済的背景には現在の青森県五所川原市の十三湖の日本海への開口部にあった十三湊(とさみなと)の存在があった。
②安倍貞任の弟、安倍宗任は捕らえられて、四国の現在の今治市富田地区に流され、3年後さらに九州筑前国宗像郡の筑前大島に流され、そこで1108年に亡くなった。この安倍宗任の三男安倍季任は肥前国の松浦氏の娘婿となり松浦三郎大夫実任と名のり、その子孫が松浦水軍を興す。
③松浦実任(安倍季任)の子孫である松浦高俊が源平合戦で平家方の水軍として敗れ、山口県長門市油谷に流された。松浦高俊の娘は平知貞に嫁ぎ、源氏の追及を逃れるために安倍氏を名乗った。この安倍氏の子孫が現在の首相の安倍晋三氏である。
④1987年7月、同氏は両親である安倍晋太郎夫婦と画家の岡本太郎氏とともに奥州安倍氏の代々を祀る青森県五所川原市の石搭山・荒覇吐神社を訪れている。安倍晋三首相は従って、荒覇吐王国を建てた安日彦、奥州安倍氏の係累である。
⑤しかし、現在の首相を見ていると、争いを好まなかった古代東北の王国の建国者の子孫とはとても思えない。
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◉<参考資料3 >
古沢 襄 (kajika.net)
①安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。山口県と岩手県が、どう結びつくのか、晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。
②それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。
③そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪。宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、とあった。平成十一年の記述である。
④安倍貞任は猪突猛進型の武将だったが、宗任は知略に優れた名将といわれた。安倍一族を滅ぼした源頼義・義家親子は、宗任の武略を惜しみ、死一等を減じて朝廷から貰い受けている。そして頼義の領地・伊予国に連れてきた。配流とは名ばかりで、間もなく松浦の領地を与えた。
⑤さて安倍家が松浦姓を名乗らずに安倍の本姓を名乗ってきたのは何故であろうか。安倍家は山口県大津郡油谷町の名門で、晋太郎の父親は安倍寛、戦前の衆院議員である。晋太郎は自らを安倍宗任の末裔といったが、その根拠はいわなかった。
⑥私は宗任の長男が祖となった松浦党の系譜ではなく、水軍の根拠地・大嶋に残った三男の末裔でないかと思っている。それなら安倍の本姓を名乗ってきたことの説明がつく。安倍家には、その言い伝えが残ったのであろう。
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写真:Atelier秀樹
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秀樹杉松』117巻36777号 2020.10.27/ hideki-sansho.hatenablog.com #717