

豊島園にて(2019)
今回(No.9)は、(本シリーズのハイライトと私が思う)「義経北行伝説」をと取り上げます。こんな詳しい資料に接したのは初めてです。どうぞ、ご覧ください。
なお、お読みいただいている鈴木三郎『古代みちのく101の謎』読書シリーズは、次回(No.10)限りで終了します。もちろん全部読んだのですが、ブログ<秀樹杉松>への投稿はこの辺までとすることにいたしました。


91 源義経の「北行伝説」は本当か? ー 三陸海岸に残る逃避行の痕跡
1)源義経は文治5年(1189)、藤原泰衡の兵によって討ち取られている。ところがそれは「表向きの話」で、実はひそかに衣川の館を脱出して北上山系を山伝いに北上し、津軽国を経て北海道へ逃走した後、大陸へ渡ったという説がある。
しかも、義経が通ったというルートには、ごていねいにも様々な遺品が残されており、ますます信憑性が高くなる。
2)真偽の程はさておいて、粗筋を見ておこう(佐々木勝三説郎)ー
まず、義経は衣川の館を泰衡の兵に襲われるとされる文治5年閏4月より1年も前、文治4年春、義経によく似た風貌の家臣杉目行信を身代わりにして潜行生活に入ったという。したがって、翌年、泰衡の兵に討ち取られた男は義経ではなく、身代わりの男だったということになる。
......................................................................................................


(以下、佐々木勝三説により、ルート順に記します)
.................................................................................................................................................................
① 衣川の北東にある束稲山の北東、猿沢の石清山勧興寺に「亀井六郎の笈」がる。一泊した謝礼に置いて行ったものと伝えられている。
② 猿沢から北上して岩谷堂(江刺市)の岩屋戸山多聞寺(廃寺)に宿し、「鈴木三郎の笈」を謝礼に残して去った。
③ 同勢十数人、馬数頭で岩屋堂を出て玉崎神社に参拝して「太刀」を奉納した後、あまりの難所なので馬を牧場山に放ち、徒歩で伊手村に向かい、「源休館」で休息した。
④ 南下して判官山(黒山)で野宿し、北上して赤羽根峠を松に手を掛けながら登った。そのいわれを伝える「判官手懸けの松」が最近まであった。
⑤ 汗みずくになった義経主従が細越(上郷町)のとある家で風呂をたてて貰った。以来、その家は「風呂」姓を名乗るようになった。
⑥ その後、東進して中村村の八幡姓の家に投宿し、「鉄扇」を置いて去った。八幡家が建立した判官堂には「義経の石像」が安置されている。


⑦ 更に東を指して橋野川を下り、大槌湾岸の室浜で休息。そこに「法冠神社」が建っている。その後、大槌川を遡り、休んだところに所々「法冠神社」が建てられている。
⑧ 箱石に到着するが直立した山の壁に阻まれて前進できず、引き返す途中、休息した種戸口には「弁慶の手形石」が残されている。
⑨ 関口(山田町)、館山を経て宮古に入ると判官山に留まり、黒守山大権現に籠もって蝦夷渡海を記念する大般若経を写経・奉納する。宮古を立つ時、老齢の鈴木三郎重家が残留し、横山八幡宮の祠官になった。
⑩ 二戸郡小鳥谷に至り、川底家にて栗を炊いて餓えを凌ぎ、「短刀」を置いて去った。
⑪ 久慈に入ると源頼朝配下の畠山重忠の大軍が待ち受けていたが、義経に同情的な重忠はわざと久慈の南寄りに布陣して北を空けて置いた。義経一行は闇夜に紛れて「侍浜」方面へ逃げた。
⑫ 八戸の馬淵川の南に仮館を建て、懐妊していた「北の方」を休息させた。まもなく対岸の小田に居館を営み、そちらへ引っ越したので、元の場所を「館越」という。義経は高館の東に毘沙門堂を建てた(今の小田八幡宮)。その境内に「義経社」がる。
⑬ 八戸から都母を経て青森に入り。善知鳥(うとう)大明神に参拝したのち、油川修験道で飯を炊き、「弁慶の笈」を残して去る。
⑭ 津軽半島を横断して十三湊の福島城に入り、藤原秀栄(秀衡の弟)を訪ねた。そして。竜飛岬から蝦夷地の松江に渡った。
<編注>
笈(おい)=修験者(しゅげんじゃ)や行脚僧(あんぎゃそう)などが仏具、衣類、食器などを入れて背負う、脚付きの箱。きゅう。
………………………………………


3)衣川以北の三陸沿岸地帯と津軽には、「義経北行伝説を残す場所が密集し、遺品らしきものが残されている。いったいどうして、こういう伝説が生まれ、語り継がれることになったのか。考えられるのは、『義経記』が、形式上の主役は義経になっているものの、実質的な主役が武蔵坊弁慶になっているのを見ても分かるとおり、修験者(山伏)が絡んでいることである。
4)中世の昔から熊野や羽黒、月山などを回り、修験の旅を続けていた山伏たちは、道中での一宿一飯のお礼として、歩き回ってきた各地のニュースを伝えたり、物語を聞かせることが義務になっていた。
それを集大成したのが『義経記』であるとされている。奥州における「義経北行伝説」にも、同じような由来があるのかもしれない。
5)義経は、修験者(山伏)たちを困らせながら育った暴れん坊であるが、結局のところ、修験者の世界で育っている。山伏にはならなかったが、山伏の仲間として育ったのだった。義経は、彼らの仲間であり、簡単には死んでもらいたくない英雄だったのである。
……………………………
写真:Atelier秀樹
……………………………
秀樹杉松』117巻3678号 2020.10.28/ hideki-sansho.hatenablog.com #718