秀樹杉松

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鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(7)~  ◉孝謙天皇はアラハバキ出身の天皇だった? ◉大アテルイとは何者だったのか? ◉坂上田村麻呂が対ゲリラ専門戦闘集団を育成した?

 

 

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鈴木旭『古代みちのく101の謎』を読む(7)〜孝謙天皇、◉阿弖流爲(アテルイ、◉坂上田村麻呂、をお届けします。どうぞお読みください。

 

 

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83 孝謙天皇アラハバキ出身の天皇だった?藤原家の陰謀

 

1)『東日流外三郡誌』「十三湊東紀」に驚くべきことが記されている。大野東人(おおのあずまんど)の植民政策に反発したアラハバキ軍が多賀城に篭る征夷軍を再び三度と包囲し、さんざんに打ちのめした。戦況不利と見てとった藤原宇合大野東人は全面降伏し、「和の証として安倍一族の女王を将来、天皇にする」と約束。その結果実現したのが、後に「孝謙天皇」になる安倍内親王であるという。

 

2)聖武天皇の第二皇女であり、光明皇后を母とする孝謙天皇が、実はアラハバキ出身の天皇だったというわけである。嘘か本当かはっきりしないが、従来、孝謙天皇の名前が何故「安倍高野姫尊」と呼ばれたり、「安倍内親王」と言われるのか、全くわからなかったのであるが、それによって説明がつく。

 

3)倭国アラハバキ連合の「融和=一体化」が急速に進んだことの現れと見ることは可能である。奈良の都では随一の実力者であった藤原宇合の高度な政治判断が「融和=一体化」を象徴する大イベントを実現したのかもしれない。

 

4)アラハバキ出身の倭国天皇が出現した場合、それは“国家統合の象徴的事件”として目に映るのは当然であり、孝謙天皇は、そのシンボルとして祭り上げられることになろう。結局のところは、こうしてアラハバキ連合は倭国の体内に飲み込まれ、同質化して消え去っていくのであるが、そう簡単にいかない複雑な事情もあった。

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84 アテルイとは何者だったのか? ー 衣川エレジ

 

1)孝謙天皇(後に称徳天皇として復位)の在世中は表面化しなかったが、倭国アラハバキ軍の間に立ってショック・アブソーバー(減衰装置)となっていた彼女が亡くなると、再び伝統的な対立関係が剥き出しになり、最終的な決着を求めて苛烈な戦争が繰り返されるようになる。

 

2)戦いが泥沼化すると、征夷軍の兵士は戦意を失って逃亡し、将校らは反乱軍に兵糧や武器を売って私服を肥やす者が現れる始末で、倭国天皇光仁が退位に追い込まれている。新帝桓武天皇の直接の指揮のもとに征討作戦が繰り広げられ、紀古佐美征夷大将軍とし、前代未聞の大軍派遣が決まった。

 

3)これを待ち受ける蝦夷の側でも、北上川流域の上流、胆沢の大酋長阿弖流為アテルイを首領とする大連合を結成し、今の宮城県から岩手県に広がる広大な戦線を築き上げるのに成功。決戦の機運が高まっていく。

 

4)延暦7年(788)桓武天皇は、坂東の浮沈はこの征討一つにかかっている、将軍は責任をもって任務にはげめと勅命。翌年多賀城に集結した征討軍は、三軍に分かれて衣川に進軍。アテルイの根拠に向かった征討軍の前にアテルイ自ら300人を引き連れて迎え撃ったところ、さっさと逃げてしまった。

 

5)忿怒した桓武天皇紀古佐美を早々に処分。そこで登場するのが。とっておきの切り札、坂上田村麻呂アテルイを首領とする蝦夷連合軍は、ついに倭国律令国家)と全面衝突。その戦いは輝けるアラハバキ族の歴史にとって、最後の栄光を飾る抵抗戦となった。

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85 坂上田村麻呂が対ゲリラ専門戦闘集団を育成した?「山夷」との闘い

 

1)即位したばかりの桓武天皇は、取っておきの切り札となる坂上田村麻呂を最高司令官として抜擢。田村麻呂の家系は、代々軍事面でのエキスパートとして天皇家に仕えてきた家柄であり、殊の外期待するところが大きかった。

 

2)坂上田村麻呂は「近衛兵」の将軍であった。当年28歳の若き将軍は「按察使」に任命されると直ちに「陸奥」と「鎮守府将軍」を兼任し、ついで「征夷大将軍」となり、すべての要職を一身に集中して奥羽征討に乗り出した。だが、「数年の猶予をいただきたい」としてすぐ動かず、与えられた兵力を半分以下に削減、指揮系統を単純化する軍制改革に取り組んだ。

 

3)少数の戦闘単位からなるコンバット・チーム(戦闘団)を編成して数年間にわたって戦闘訓練を繰り返した。度重なる敗北の経験に学び、山岳地帯に誘い込まれても慌てることなく対応できる組織編成を施した。陸奥の奥深く胆沢の地に前線拠点となる城を築き、万全の態勢を整えた後、ようやく兵を動かした。

 

4)それまでの征討軍と違って、身軽な装備で行動する田村麻呂の軍勢を見たアラハバキの大酋長阿弖流爲アテルイ)と母礼(モレ)は、さすがに手を出せなかった。『続日本紀』は「夷の大墓公阿弖流爲、盤具公母礼等、種類(同類のこと)五百余人を率いて降る」と簡単に伝えている。アテルイとモレは田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、河内国の杜山(今の大阪府枚方市)で斬首されて果てている。

 

5)切り落とされたアテルイの首は、泣いて東国に向かって飛んでいったという。「野性獣心、反復定まりなし。たまたま朝威によりこの梟師(キョウシ=荒々しい蛮族の長)を得たり。たとえ申請に依るとも、奥地に放し返せば、いうところの虎を養い、災いを残す」(『日本書紀』)

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写真:Atelier秀樹

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秀樹杉松』117巻3676号 2020.10.26/ hideki-sansho.hatenablog.com #716