秀樹杉松

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「Study 源義経」(No.7) ◉ 義経=ジンギスカン説 ③ 小谷部全一郎の説

 

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義経ジンギスカンは、この③でひとまず終了します。ラストの「小谷部全一郎の説」をお読みください。

今年の花見の締めくくりと思った今日は、朝からあいにくの雨です。

 

小谷部全一郎の説】

小谷部全一郎アメリカ合衆国で学んで牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミ(編注:アイヌ伝承の創造神)が実は源義経ではないかという話を聞き、義経北行説に興味をもった。

 

その後、満州モンゴルに旧日本軍の通訳官として赴任し、「成吉思汗=義経の痕跡を調べるべく、満蒙を精力的に取材する。1920年帰国。勲六等旭日章を授与されている。彼はこの調査によって、義経が平泉で自害せず、北海道、樺太にわたり、さらにモンゴルに渡ってチンギス・ハン(成吉思汗)となったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。

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【小谷部の論拠】

 

  • 奥州衣川で文治5年4月30日に討ち取られた義経の首は、事件を5月22日に報告し、6月13日に鎌倉の頼朝に届けられている。いくら中世とは言え、当時は早馬を飛ばせば平泉から鎌倉までは数日で使者は着くはずである。何故一ヶ月以上もかかったのか故意に腐らせ偽物と判別できなくするためではないか。
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  • 成吉思汗の少年時代の記録として「朽木の洞に隠れていて助かった」とあるが、兄頼朝の伝説と内容が重なる
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  • 大日本史』などでは鎌倉に届けられた首は偽首としており、蝦夷へ逃亡したと記している。
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  • 北海道と大陸の間に昔からアイヌの行き来があって、義経一行はしばらく北海道に滞在した後、アイヌの水先案内人によって大陸に渡った可能性が十分に考えられるのではないか。
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  • 成吉思汗が1206年ハーンに即位した時の「九旒の白旗」の建立は源氏の氏の長者、武家棟梁の宣言ではないか。「白旗」源氏の旗印であり、「九旒」九郎判官を意味するものではないか。

 

  • 成吉思汗紋章として笹竜胆(ささりんどう)を使用した。笹竜胆(源氏の紋章)を尊び、九の数を好むのは己の名の九郎に因んだからではないか。

 

  • 成吉思汗はニロン族、すなわち日の国よりきた人として蒙古に伝えられている。この「ニロン」とは「ニホン(日本)」のことはないか。

 

  • 成吉思汗は別名を「クロー」と称した。これは「九郎判官」ではないか。また、軍職の名は「タイショー」として現代に伝わる。蒙古の古城跡では「城主はクロー」と称していたという言い伝えがある。

 

 

  • 成吉思汗が滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があるのは、義経ゆかりの「平泉」によるのではないか。

 

  • 蒙古では現在でも「オボー祭り」が8月15日に開かれているが、義経幼年時代をすごした京都鞍馬山でも、この日、同じような祭りが見られる。

 

  • 成吉思汗はニルン族の貴族キャト氏族だが、「キャト」「キョウト」「京都」出身をあらわしているのではないか。

 

  • 国名」は「」に通じる[

 

  • 年齢もほぼ同じ義経が衣川で討たれたのが30歳で、その数年後ジンギスカンが表舞台に登場するようになった時期の年齢が30代半ばであるなら、辻褄が合うのではないか。

 

  • チンギス・ハンの前半生には空白部分が多い。
  • 両者とも背は高くなかった。酒も全然飲めなかった
  • 戦術も同じ、戦い方もそっくりであった。

 

  • 蒙古の地名や現地言語に日本内地、蝦夷との類似性がみられる(チタスルガなど)。蒙古には「源」苗字が多い

 

  • ラマ教の寺院に伝わるチンギス・ハンの肖像はどこか日本人的な顔立ちをしている。
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【蘇城スーチャン

 ○小谷部はまた、ロシアウラジオストックから120キロメートルほどのところに、蘇城スーチャン)という古城の遺跡があり、日本の武将が築いたという伝説が残っていることを記している。その武将は後に中国本土へ攻め入って、大王になったという。

 

 ○昔、日本の武将が危難を避けて本国を逃れ、この地に城を築いた。武将がここで「蘇生した」という逸話から、「蘇城」命名された。武将はこののち城を娘に任せ、自らは中国本土に攻め入って強大な王国を建てたという。

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義経の古碑】

 ○小谷部によれば、ニコラエフスクから100キロメートルの郊外に石碑があって、そこに現在は撤去されているが義経」などの漢字と、明瞭な笹竜胆の紋所が刻まれてあったといい、「双城子(ニコラエフスク)の市邑に、土俗のいわゆる義将軍の古碑と称するものあり、土人はこれを日本の武将の碑とも或は支那の将軍の碑とも傳ふ。

 

 ○居留日本人は一般にこれを義経の碑と称し、而して其の建てられたる市の公園を、我が居留民は現に之を義経公園と呼びて有名なるものなり」と述べる(『成吉思汗ハ源義經也』)。

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【笹竜胆(ささりんどう )の紋章】

 ○大正14年(1925年)2月1日付の朝日新聞で、シベリア出兵当時、ニコラエフスクの近くでタタール人の芝居を見たところ、その巻狩の場面で役者が笹竜胆の紋をつけた日本流の鎧兜であらわれたことを記している。わけを尋ねたところ、昔から伝わっているもので、誰が作ったかについてはわからないという返事だったという。

 

 ○この笹竜胆の紋章は、ナホトカ一般住居にもつけられており、これも義経ゆかりのものではないかと小谷部は説明し、清和源氏の紋章である笹竜胆をジンギスカンの軍がこれを使用した。ロシアナホトカの住居にもこの笹竜胆を使用したものがある。

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【結論】

 ○笹竜胆(ささりんどう)の紋章のみならず、それまで日本にしかなかった長弓の使用、白旗の使用など、それまで蒙古の慣習になかったものが成吉思汗によりはじまり旗印は九旒の白旗、紋章は笹竜胆など、すべて源義経の文物と一致しており、これこそ、成吉思汗が源義経にほかならない何よりの証拠であると、小谷部は結論づけている。

 

 ○『成吉思汗ハ源義経也』の主な内容であるが、清朝は源氏の末裔であるというのがよく否定論者の標的の的になるが、間宮林蔵の『窮髪紀譚』には満州人が中国の王族は日本人の末裔と沢山の人間が答えたと書かれている。

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写真:Atelier 秀樹

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『秀樹杉松』129巻3910号 2022.4.4/ hideki-sansho.hatenablog.com No.950