秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

「Study 源義経」No.8 (完) ~ 1) 義経の影武者(杉目太郎行信)  2)「義経は北へ」(義経北行説)〜成吉思汗=義経説  3) 「腰越状」 4) 『義経記』

 

 

 「Study源義経は尽きないので、本号(No.8)で 完結 とします。

 

 ○この<完結号>では、義経の身代わりとなって死んだ影武者(杉目太郎行信)、成吉思汗=義経腰越状」『義経記を取り上げます。8号まで続いた 義経シリーズ” 、長らくのご愛読に感謝を申し上げます

 

 ○さて、義経は衣川で死んだのか、それとも生き延びて北行したのか。さらには大陸に渡って、モンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハン(ジンギスカンになったのか。

 ○「Study源義経は期待以上の勉強になりました。”やってよかった”と思います。因みに、平泉も衣川も岩手県ですが、私は岩手県出身です。

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 1)北行伝説」の始まり ~ 義経の影武者・杉目太郎行信

 

 ○義経北行伝説では、鎌倉からの圧力により、義経は泰衡から次第に疎まれるようになり、衣川の戦いの1年前に、平泉には自分の身代わりを立てて、平泉を脱出した。宮城県栗原市に残る伝説では、その時の身代わりが杉目小太郎行信だったと伝えられる。歳や背格好が義経と似ていたという。

 

 ○行信義経が平泉を落ちた後、郎党らと平泉にあり、藤原泰衡の手勢500に襲撃され自害した。義経の首級は黒塗りの櫃に収められ、43日間かけて鎌倉へ送られ、和田義盛梶原景時らによって首実験が行われ、藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られた。胴体は密かにこの地に運ばれ、判官森(はんがんもり)に埋葬された。

 

 ○判官森の頂部には、義経銅像とされる五輪塔と石碑が建っている。碑中央に「上拝源冠者義経」、左には「文治五年閏四月二十八日」、右に「大願成就」と刻まれている。

また判官森近くの津久毛橋城跡には、杉目太郎供養碑があり「源祖義経神霊身替」と刻んである。供養碑は、明治期に建てられたものだが、この地には古くから杉目太郎は義経の身代わりになって死んだと語り継がれている。

 

 ○平泉を逃れた義経主従は、北方伝説では、平泉から遠野、宮古を抜けて三陸海岸を北上し、八戸に至り、その後蝦夷地に向かったと伝えられる。北行伝説は史実ではなく、東北地方の判官びいきを背景にした創作かもしれないが、平泉から遠野、宮古三陸海岸、八戸、青森に続くルートには、モチーフとなった一定の史実があると考えている。

 

 ~ Google「みちのく歴史迷宮」mitinoku.biz より

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2) 義経北行伝説ドライブガイド義経は北へ」 〜成吉思汗=義経

 

義経ゆかりの地へ

 

義経は死せず、北へ伸びる伝説の道

 

我は故山に帰りたし—-1227年、蒙古のトルメゲイ城で成吉思汗(ジンギスカンは謎の言葉を残し息を引き取った。蒙古生まれであるはずの成吉思汗が、帰りたいと望んだ「故山」とはどこなのか。

 

<成吉思汗=義経説>

今なお囁かれるのは、ジンギスカン義経が同一人物だったとする義経北行説」。これを現代の名探偵が解明していくのが、高木彬光推理小説成吉思汗の秘密」だ。

 

義経の身を案じた藤原秀衡が、蝦夷地(北海道)への道を遺書に記していた。それは藤原氏の栄華を支えた黄金の産出地が、東北を越え北海道まで及んでいたからではなかったか。

 

だとすれば、義経の北走も、頼朝から逃れるための絶望的な敗走ではなく再起のためのチャンスと軍資金を求めての旅だったとも想像できる。しかも海を越えたシベリア地方は、さらに膨大な黄金が眠る”黄金郷だったのである。

 

まだ見ぬ未開の大地へ、胸躍らせて帆を進める義経一行。北への道しるべには、夢とロマンが満ち満ちている

 

北へ向かう義経の思いは、海を渡り遠い大地につながる

あの水戸光圀蝦夷に調査団を送った義経大陸渡航。その物語は今も高木彬光著『成吉思汗の秘密』で読むことができる。逃避行ではなく希望を胸に北へ向かい、大陸で新たな人物としてよみがえる壮大な歴史ロマン

 

岩手県北広域振興局・岩手県沿岸広域振興局 kuji-tourizm.jp

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3) 腰越状(こしごえじょう)(抄)

    源義経が兄頼朝に宛てて認めた手紙

 

 元暦2年5月24日1185年6月23日)、源義経が兄頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていた時満福寺で心情を綴ったと伝えられる手紙である。

 

<本文> 以下は『吾妻鏡』巻4からの現代訳。原文は和様漢文体。

 ○「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は(頼朝の)代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽(かいけい)の恥辱を雪ぎましたひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言(ざんげん)にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに御勘気を被り空しく血の涙にくれております

 

 ○ここに至って讒言した者の実否を正されず鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。こうして永くお顔を拝見出来ないままでは血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。

 

 ○京都の周辺で暮らす事も難しく、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われました。しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家の一族追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後は、平家を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。

 

 ○また甲冑を枕とし、弓矢をとる本意は、亡き父上の魂を鎮めるというかねてからの願いである事の他に他意はありません。そればかりか、義経五位の尉(じょう)に任ぜられたのは当家の名誉であり、希に見る重職です。これに勝る名誉はありません。全く野心が無い事を日本国中の神様に誓って、数通の起請文を書き送りましたが、なおも寛大なお許しを頂けません

 

 ○他に頼る所は無く、偏に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです便宜を図って(頼朝の)お耳に入れていただき、、、。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。

 

元暦二年五月 日 左衛門少尉源義経

進上因幡前司殿

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<解説>

 ○様式や文言など、当時の普通の披露文などとは異なっていて、義経が書いた原文ではないとされる。しかし功を誇り頼朝の仕打ちを嘆き、肉親の情に訴える様は史料である『玉葉』などに残された義経の発言と一致するものがあり、当時の切々たる義経の心情をよく表したものと言える。

 

 ○一方、近年の研究では腰越状を掲載している『吾妻鏡』の記述に多くの疑問が指摘され、義経が本当に腰越で留め置かれたのかという事実関係を含め、腰越状の真偽も問われている。

 

 ○この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、頼朝へ取り次いでもらったものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなった

尚、腰越状明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられた。

 

 ~ウィキペディア ( Wikipedia)』ja.m.wikipedia.org より

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4) 義経記(ぎけいき)

 ○『義経記』(ぎけいき)は、源義経とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語。全8巻。南北朝時代から室町時代初期に成立したと考えられている。歌舞伎人形浄瑠璃など、後世の多くの文学作品に影響を与え、今日の義経やその周辺の人物のイメージの多くは『義経記』に準拠している。

 ~『ウィキペディアWikipedia)』ja.m.wikipedia.org より

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写真:Atelier秀樹

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『秀樹杉松』129巻3911号 2022.4.5/ hideki-sansho.hatenablog.com No.951