「Study 源義経」(No.5) 義経=ジンギスカン説 ①
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○義経=ジンギスカン説(チンギス・ハン、成吉思汗、チンギス・カンとも)は、モンゴル帝国の創始者チンギス・ハンと源義経が同一人物であるという仮説・伝説。(本文ではジンギス・カンと統一するが、義経=としたときはジンギスカンとする)
【概要】
○文治5年閏4月30日(1189年6月15日) に奥州衣川の館で源義経は死去したとされているが、人々の生きていて欲しいという願望と、自決後の義経の首の搬送期間が不自然に長かったことなどから、実は生きて逃亡したのではないかという疑念や期待が「義経不死伝説」を産んだ。
○室町時代以降、「判官びいき」と「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びつき、「義経北行伝説」となった。江戸時代に『義経記』は元和木活字本により広く流布し、寛永年間(1624年-1643年)の流布本によって本格的に読まれるようになり、浄瑠璃、歌舞伎、狂言、読本などにもさかんに取り入れられ「義経北行伝説」はさらに、義経は自刃したとみせかけて、実は蝦夷地にわたったという伝説「源義経北行伝説」へと進化した。そして其れは様々な誤解と伝説と虚説、あるいは捏造の書物を生み出した。
○伝説となる一方、江戸時代当初は識者たちが疑念を持っており、当時でも首の搬送期間は明らかに長く江戸時代初期に編纂された「大日本史」では偽の死で北へ逃亡したのではないかと記述された。江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者の新井白石も義経の搬送された首は偽だろうと記した。なお、吾妻鏡には義経は衣川で死んだと書かれ、現代の学説はこれが元になり完全否定している。しかし義経の死に関し様々な疑問が残っているがそれには触れられていない。
○一部の識者がその死について疑念をもつ一方で一般人の捏造の書物や伝説が肥大化し、江戸時代に源義経は蝦夷のアイヌたちの棟梁に突如成り、金国の将軍に昇格し、ついには清国の祖になった。この「義経=清朝清祖説」は江戸時代から明治まで夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の中で語られていて判るように、一般民衆に長く信じられた。そしてついに明治になってチンギス・ハンとなる。
○そして小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』は戦地で実際に配られ、「満蒙は国家の生命線」と大正から昭和にかけ先の大戦中、大陸の侵略に利用された。
この説が広まった背景には義経蝦夷渡海譚が江戸時代初期の寛文年間に広まったことや、『御伽草子』の「御曹子島渡」や義経語りが蝦夷地での義経伝説として波及したこと、『判官びいき』が義経生存説の勃興に大きく影響したことなどが挙げられる。
○然し、これだけを視れば荒唐無稽かつ有り得ない虚説であるが、捏造の書物・伝説・虚説があるということと、真実として源義経がチンギス・ハンと同一人物であるかどうかは別のことである。捏造・虚説があるからといって、それが即ちこの説の否定の証拠にはならない。
○その死を疑う証拠は幾らでもあり、年代も合致し、義経が日本で動いている時にはテムジン(編注:チンギス・ハーンの本名)は大陸で行方不明になっており、義経が行方不明になってから、テムジンはハーンを大陸で宣言し、 後にチンギス・ハンになっている。文物も一致し後述するように遊牧民族、騎馬民族の集団は、世襲、序列などにこだわらず、 優秀な人材と信じた者をリーダーに選び、 場合によっては人種の違いさえも厭わないという事実がある。
○この事実はこの説を直ぐには否定できない。数百年にわたってそれを否定する知識人である歴史家と信じる者たちの対決も非常に長い歴史をもつ。東北・北海道では未だに信じている人も多い。
○ただし、チンギス・ハンは家系がはっきりしており、日本人の噂や伝説は現在の所ないことや(偽史冒険世界)、日本からモンゴル高原まで相当な距離があること、また当時金国(女真族)も強大で、大陸沿岸にのちにチンギス・ハンが倒すまで存在し、そこを通り抜けていったことができたのか、また言葉の問題、資金はどうしたのかなど問題が多すぎ、物理的、東洋史的観点からもこの説の立証は難しく、またチンギス・ハンが大量殺戮を行ったことなどからも、行動・性格が違いすぎることで、アカデミックな世界も含め様々な世界[誰?]からありえないと思われている。
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【歴史】
六回も蘇った義経
○源義経の復活劇は1924年の『成吉思汗ハ源義經也』が最初ではない。義経生存説は日本の中世史から近代において何度も世間に囁かれている。
- 正徳2年(1712年)義経は衣川で死なず、蝦夷地に脱出し義経は神として崇められつつ蝦夷のどこかで生存し子孫はアイヌの棟梁になった。
- 享保2年(1717年)義経は蝦夷に脱出したあと、当時韃靼(中国大陸地方)を支配していた金国に入り、皇帝の章宗から厚遇され子孫も栄えた。
- 天明3年(1783年)義経は蝦夷から韃靼に渡った。子孫は繁栄しやがて「清国」を建国した。
- 明治18年(1885年)義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗となった。
- 大正13年(1924年)小谷部の『成吉思汗ハ源義経也』によって義経=成吉思汗説が空前のブームになる。
○江戸時代中期の勃興から三〇〇年間囁かれ、息の長い生存説となっている。
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○源義経は兄頼朝に追われ、奥州平泉で藤原泰衡らに襲われ自害したことになっていたが、実は生きて蝦夷に落ち延びたとする噂や伝説は江戸時代初期にはあった。 寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。
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【何故この説が興ったのか】
~不可解な義経の首の搬送期間
○源義経は藤原秀衡から与えられた衣川・高舘の屋敷に住んでいたが、文治5年4月30日(5月30日)(1189年)藤原泰衡の襲撃により死去したとの記録が吾妻鏡にあり、藤原泰衡は父藤原秀衡の遺命に叛き義経を誅殺し「功績」を源頼朝に伝えるべく報告を出すが、その時期は遅く、高舘襲撃から22日も後である。高舘から回収した義経の首も鎌倉へ搬送されたが、首実検が行われるまでに43日も要している。
○これは腐敗が進み義経本人かどうか判別ができなかったに違いなかったとされ、この事実は義経が実は生きて逃げたのではないかという「義経不死伝説」を産み、後世の史家はこの死を疑い、元禄時代に編纂された『大日本史』には偽の死を隠し義経は逃亡したのではないかと記述された。
○室町・江戸時代から不審に思われており、その吾妻鑑には義経が自決せりと書かれているが、その八ヶ月後に義経が鎌倉に攻めて来るという噂で緊張したと記されている。八ヶ月も経って、死んだ人間が攻めてくるわけはなく源義経の死が武士たちに信じられていなかったのであり、反乱軍も蜂起していたが、生きていると思っていた。
○中津義彦は義経は死んだものと断定してたのなら何故反乱軍蜂起の第一報の段階から「義経と号し」と記述なかったのか疑問が残り、義経の死に大きな疑惑があったのは間違いなく奥州では義経が死んだということを誰も信じてはいなかったとしている。
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【判官びいき説】
○東国政権である鎌倉幕府を成立し、その組織の頂点にあったのが征夷大将軍となった源頼朝であり、梶原景時はその良き補佐役、そして義経に付された軍監であった。義経は頼朝の名代であり、武士でありながら、頼朝の軍律に違反し、武士の抵抗の相手で有るはずの王朝国家から官位を許可無く任じられるなどをして、頼朝から怒りを買い殺されてしまう。
○義経を英雄としてみていた庶民は、頼朝を権力者、景時を讒言者、義経を悲劇の英雄と見立てた。このような見立ての上に、反権力という立場からの共感、中傷・讒言者への憎しみ、冷酷な兄に対する健気な弟に対する同情、あるいは「滅びの美学」とも呼ぶべき独特の美意識が加わって、「判官びいき」が生まれた。王朝国家の側に立つ畿内の文化人の多くが義経びいきだったことも、こうした風潮を後押ししたものと考えられる。
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【説話による影響説】
○室町時代以降、いわゆる「判官びいき」と「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びついて「義経北行伝説」が成立し、江戸時代に『義経記』は元和木活字本により広く流布し、寛永年間(1624年-1643年)の流布本によって本格的に読まれるようになり、浄瑠璃、歌舞伎、狂言、読本などにもさかんに取り入れられていくが、こうしたなかで、「義経北行伝説」と「御曹司島渡」説話が互いに結びつき、義経は自刃したとみせかけて、実は蝦夷地にわたったという伝説(源義経北行伝説)となって成立した(金田一京助説はこれに近い)。
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以上、ネット情報「ウィキペディア」(ja.m.wikipedia.org)に依りました。
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』129巻3908号 2022.4.2/ hideki-sansho.hatenablog.com No.948
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