○東京の桜満開が続いており、今年は最高の花見ですが、微増・微減を見せているコロナがちょっと気になりますね。
さて「義経=ジンギスカン説」はあと2回で終わりますが、この号は超短く、締めくくりの次号は相当longなものになります。
○「Study源義経」シリーズは、Atelier秀樹の ”義経研究ノート” です。そのままブログ『秀樹杉松』に投稿しておりますので、歴史や義経に関心ある方は(あまり無い方も)、お読みいただければ参考になろうかと思います。義経関連のネット情報は”氾濫”していますが、その中から(私には)ベストと思われる「ウィキペディア」(ja.m.wikipedia.org)を選んでいます。
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【源義経の前半生は不明】
○義経についてよく誤解されているのは、義経の前半生は不明な事であり、牛若丸の記述などの幼少の記録は色々創作で書かれているが一次資料が存在せず皆無である。『平治物語』は創作であって義経の幼年期に詳しいが史料と呼べる物ではない。
○史学的にはっきりしているのは治承4年(1180年)10月21日、この時22歳で黄瀬川の陣中で頼朝と相曾してからである。その前までどこで何をしていたのかまったく不明の人物であった。
○この時兄弟の名乗りをし、感激の涙の再会をしながら、その後三年の間行方不明になっている。頼朝に重用されることもなく寿永2年(1183年)10月、25歳の義経が頼朝の命を受け木曽義仲追討のため鎌倉を出発し京へ向かい、ここで再び歴史に現れ、27歳まで武将の名をほしいままにし、中央までその名を知られる。
○だが、勝手に王朝国家から職務を任じられるなどして頼朝の怒りを買い不和になり、文治2年(1186年)京から偽山伏に扮し北陸路かあるいはどこかを通り、文治6年(1189年)陸奥平泉で死した21歳から30歳までのわずか9年間しか現在判っていないというのが彼の人生である(このうち3年は行方不明)。
○腰越状で通説とは違うことを云っていることなどから、一説にはこの人物は偽なのではないかというものまであり、作家・歴史研究家の高木浩明、二階堂玲太、椎野健二朗らは、奥州藤原氏が鎌倉幕府に襲われないために、偽の人物を頼朝の弟として擁立したのではないかと疑っている。勿論これは学説では肯定されていない。
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【チンギス・ハンの前半生も謎】
○チンギス・ハンについては生年や前半生が不明な点が多いことや、モンゴル民族が元来文字を持たなかったため僅かしか文献が残っておらず、口伝・口承による物しかなくよくわかっていない。青年時に約10年行方不明になっているが、この空白期間を史学者が何をしていたのか特定できず、義経がその時期日本で活躍していることなどから、この説を複雑化している。
○チンギス・ハンと名乗る前のテムジン時代に妻のボルテをメルキト族に奪われたり、テムジン本人の母ホエルンもイェスゲイによって略奪されており、遊牧民、騎馬民族は略奪婚が多かったのも事実で、本当に系譜が正しいのか文献が遺されていないのも手伝って不確定な要素が多い。杉山正明も岡田英弘もチンギス・ハンの前半生はよくわからないと述べている。
○また江上波夫の「騎馬民族国家」によれば、たとえ血縁がなくとも実力さえあれば氏・部族長らによって君主として推戴・承認を受けることができるとしているとし、日本人でもなれる可能性を示唆している。
○また、作家の中津文彦は遊牧民族、騎馬民族の集団は、世襲、序列などにこだわず、 優秀な人材と信じた者をリーダーに選び、 場合によっては人種の違いさえも厭わず、チンギス・ハンがモンゴル族の出身でなかったことも、その証左である。と「義経不死伝説」の中で書いている。
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以上の情報は、ウィキペディア(ja.m.wikipedia)に依拠しました。
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写真:Atelier秀樹
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『秀樹杉松』129巻3909号 2022.4.3/ hideki-sansho.hatenablog.com No.949