秀樹杉松

祖父と孫、禾と木、松と杉

リストとその音楽(No.1)

 

 

 このところ、リストの曲を聴き、あわせて”リスト研究”にも取り組んでいます。

 

神保璟一郎『クラシック音楽鑑賞事典』講談社学術文庫)より

 ○ベートーヴェンは、天才児現る、という評判に心をひかれ、

ウィーンでのリスト少年のデビューに出席し、その演奏をきいて「このトルコ人の小僧目、全く素晴らしいやつだ」と言って接吻した、という有名な話がある。

 

 ○トルコ人ベートーヴェンの間違いで、リストは正真正銘のハンガリーで、1811年10月22日、ハンガリーエステルハージ侯領ライディングで生まれた。ただし母はドイツ系であった。人々は早くから芽生え始めたリストの天才的才能に驚き、父親にすすめて、天才少年に音楽教育を受けさせた。

 

 ○1823年パリに出て音楽院に入ろうとしたが、パリ音楽院はこの異国人の入学を断ったので、仕方なくパリで別の教師についた。パリの人々は、この異国人を棄てはしなかった。まもなくリストはパリ社交界の花形となり、ヴァイオリンのパガニーニとともに、やがて、ヨーロッパ音楽界の寵児になる。

 

 ○リストの名声はますます高まり、ピアノの神様とまで称されて、人々は争ってリストの演奏に接しようと演奏会にやってきたので、各地で催されるリストの演奏会はいずれも超満員の盛況であったという。1830年、リストはショパンベルリオーズに会った。ショパンはリストによてパリの楽壇に紹介された。その作品は、リストによって多くの人々に知られたのである。

 

 ○リストはショパンのみならずワグナーも世に紹介している。ワグナーがもしリストを友とすることができなかったら、おそらく彼の芸術は永く世に知られなかったであろうし、また、彼の異形を達成できなかったであろう。ワグナーが失敗を繰り返したとき、それを慰め励ましたのはリストであり、その芸術を多くの反対を押し切って上演したのもリストであった。

 

 ○リストは若い時代、その大半を演奏旅行に過ごしたが、1847年、ワイマールの宮廷楽長に就任するとともに、作曲家であり、指揮者であるリストの時代が始まった交響詩という形式が創られ、「山岳交響曲」(1856)など12曲が発表され、「ハンガリー狂詩曲」は1851年から1854年にかけて作られた。

 

 ○その他多くのピアノ曲、協奏曲、宗教曲が晩年にわたってつくられたが、とくにピアノのための編曲は多くつくられ、その方面に偉大な功績を残している。リストは人格者であった。あの肖像から受ける感じは、理知的なあまりなんとなく冷たいもののように感じられはするが、実際のリストは全くそれと趣を異にした情の人であった。

 

 ○ショパンの曲が女性的なものとすれば、リストはあくまでも男性的である。燃えるときは焰のように燃え、静まるときは氷のように冷静であった。技巧は鋭く、その明暗は深い。ショパンの夢幻的な詩趣とくらべてまことに良い対照をなしている。

 



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<写真=Atelier 秀樹>

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140巻4128号2023.4.21

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