秀樹杉松

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メンデルスゾーン ”研究” 。交響曲3番 <スコットランド>、同4番 <イタリア> 大好き!

 

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メンデルスゾーン 交響曲3番<スコットランド>/4番<イタリア> CD

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千倉八郎著クラシック音楽ガイド』(成美堂出版)p.62

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目の手術で読書ができないので、クラシック音楽研究・鑑賞を続けています。クラシック全般が好きですが、やはり「ロマン派」が ”最高”す。ロマン派の定義は複雑なようですが、シューベルトメンデルスゾーンショパンシューマン(生年順)を含めるのに、大きな異はいないのでは?

 

ちなみに小生は、作曲家を「生年」の語呂合わせで覚えています。

「泣くな」シューベルト1797-1828)<31歳>

メンデルスゾーンの音楽は「奥床しい」(1809 -1847) <36歳>

ショパン「天才」1810 - 1829) <19歳>

シューマン「天才」(1810 -1856) <46歳>

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今回はメンデルスゾーンを取り上げますが、生年 (1809)の語呂合わせにピッタリ、メンデルスゾーンの音楽は「奥ゆかしい」ですね!

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クラシック音楽歳事記』(千倉八郎著、春秋社、2003)  p.72-73

枠組みをくずさず、優美で気品のある作品。それがメンデルスゾーンの音楽

 

 彼の音楽が極めてロマン主義的風味を感じさせるのに、その姿勢は保守的で、作品の中に自我を極端に表わさず、伝統的な枠組みをくずさず、意図するところを明確に、情緒を表現しなければならないときでも、気品をそこなわず、優美にしかも論理的で、技術的に磨き上げられた作品でなければならなかった。(千倉八郎

 

『基本音楽史(千倉八郎責任執筆、音楽之友社。1988) p.159 -160

 

メンデルスゾーンの音楽には、あきらかにロマンティシズムの傾向が見られるが、そこには古典的なイディオムがのこり、どちらかと言えば、両者の混合的な要素が強い。古典主義とするには、その旋律や和声法にあまりにもロマン性が強くロマン主義というには、音楽語法が定型的でありすぎるシューマンショパン、あるいはベルリオーズ、リストといったような強い自己主張的なロマンティシズムが見られないのも。あるいは当然であるかもしれない。

 

1829年には、それまで忘れられていたバッハの「マタイ受難曲を復活上演して、これを再認識させたり、ウェーバーの小協奏曲を紹介したりして、広い意味での啓蒙的な役割を果たしているが、この時期にはドイツ各地をはじめ、ヨーロッパ各地へ、演奏旅行を行なっている。

 

1835年には、ライプツイッヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、今日に至るまでの伝統の基礎を作り、43年には、ライプツィッヒ音楽学校を創設して楽界に貢献するなど、広範な音楽活動を行なっている。42年には、シェークスピアの「真夏の夜の夢」の付随音楽を完成し、44年には有名なヴァイオリン協奏曲、46年にはオラトリオ「エリア」と晩年の大作を作り上げている。

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クラシック音楽ガイド』(成美堂出版、2004年) p.62-63

裕福な両家の子息そのものの作風

 

順風満帆のメンデルスゾーン欠けているものがあるとすれば、苦境やどん底の絶望である。

芸術とは、名声と富を得て勝利する道でもあるのだ。自由な人間は自由に憧れない。ならばメンデルスゾーンの音楽に、自由への希求や闘争を聞き取れなくて当然だろう。

 

英才教育のおかげでコンプレックスとも無縁。家柄もよく美男子。そんな青年に憂鬱や絶望の叫びを求めるべくもない。1歳年下のショパンの憂愁、シューマンの狂気をはらんだ美をもたず古典的バランスを保ったがゆえにロマン主義者になりきれなかった理由もそこにある。(水谷

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『クラシック名曲ガイド』交響曲音楽之友社 1994)

メンデルスゾーン 交響曲第三番 <スコットランド p.177

 

1829年3月11日、ベルリンでマタイ受難曲>の歴史的復活上演を指揮した20歳の青年メンデルスゾーンは、初めてイギリスに渡り、7月にはスコットランド北部のエディンバラを訪れた。北国の夏特有の美しい自然、旧王城ホリルードの遺跡などが、インスピレーションを与え、この交響曲を完成させることになった。

 

しかしながら英国を離れてしまうと筆の進みが遅くなり、中断しては渡英といったことが繰り返された。その結果、完成までに13年もの長い年月を要することになったものの、若々しい感性と熟達した技巧が混ぜ合わされ、極めて密度の高い作品が誕生することになった。(金子建志

 

メンデルスゾーン 交響曲第四番 <イタリア> (同上書) p.179

 

実際には<スコットランド>より前に作曲された。イギリスからベルリンに戻ったメンデルスゾーンは翌1830年イタリアに赴き、ミラノ、フィレンツエ、ジェノヴァ、ローマを訪れた。モーツァルトブラームスと同様イタリア旅行によって多くのインスピレーションを与えられた

 

この作品へのイタリアへの影響は、豊かな旋律美、軽快で切れのよいリズム、簡潔な管弦楽法による明快な響き等にはっきりと現れている。ロマン派の音楽が屈折した表現を見せ始め、濃厚なドイツ的音色が主流となる中で、この曲のラテン的な響きは貴重である。メンデルスゾーンは、自ら指揮した初演の大成功にもかかわらず、楽譜に手を加え、1838年に再演した。(金子建志

 

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写真 / Atelier秀樹

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『秀樹杉松』132巻3975号 2022.8.16/ hideki-sansho.hatenablog.com #1015