文京区の4坂が残っていたので、今日行ってきました。ところで、今日巡った「開運坂」と「白鷺坂」はソフトで美しい坂名ですが、「付属横坂」と「七丁目坂」はズバリ即物的でわかりやすいが、なんか一つという感じですね。
付属横坂の解説に引用されている『今昔東京の坂』の、「美しく環境に恵まれている坂に,どうしてこんな不粋な坂名がついているのか」もうなづけます。
今日もそうでしたが、坂の近くには学校が多いですね。 / Atelier秀樹
①開運坂(かいうんざか)(#763)


文京区大塚5丁目と6丁目の間。護国寺の裏手に当たる住宅地の中。生長の家会館の前。近くに 豊島岡墓地,大塚先儒墓所 などがある。坂下は南西に,途中南東に曲がり,坂下は南西に向かって上り。130m。緩やか。クランク状に曲がる。
坂の中程に,文京区が設置した標識がある。
→「 開運坂 坂名の由来については よくわからないが,運を開く吉兆を意味するめでたい名をつけたものであろう。このあたりは, 富士見坂(大塚3丁目の交差点から護国寺前)の下であるところから,旧町名を大塚坂下町といった。それでこの坂の下の道を坂下通りとも呼んでいる。坂の上の南側には, 5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院(けいしょういん)の願いで建てられた護国寺がある。護国寺の東側には, 明治6年(1873)に開かれた豊島岡(としまがおか)墓地(皇族墓地)がある。豊島岡墓地の東側は, 大塚先儒(せんじゅ)墓所である。江戸時代の公明な儒学者である, 木下順庵(きのしたじゅんあん), 室鳩巣(むろきゅうそう), 尾藤二州(びとうにしゅう)や古賀精里(こがせいり)などの墓がある。
“護国寺に住みている鳩 屋根はなれ / 高く飛びおり 春日の空に” 窪田空穂 (1877~1967) 文京区教育委員会 昭和56年7月 」
かつて坂上に講道館の開運坂道場があり,海南生著「閑雲去来」(『有効の活動』対象11年3月)には「師範(嘉納治五郎)が開運坂と命名された」とある。(「ぶんきょうの坂道」より)。(標識には「坂名の由来についてはよくわからない」と書かれているが,下記文献の改訂版に由来が明記された。)
本伝寺
文京区大塚4丁目。山号は大宝山。「白鷺坂」の北。


②白鷺坂(しらさぎざか)(#764)


文京区大塚3丁目と4丁目の間。不忍通りの“千石3丁目”交差点から“大塚4丁目”交差点付近まで続く長い坂。ここの標識は 大塚小学校の塀の外側に,植え込みに埋もれるように建っている。南西に上る。390m。390m。わずかに“く”の字に曲がる。
坂下の大塚小学校前に文京区が設置した標識がある。
→「白鷺坂 このあたり一帯は,かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は,池を中心とした 伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが,「古木老樹がうっそうとしげり 白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。
この白鷺にみせられた アララギの歌人 古泉千樫は,ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって 不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため 往時をしのぶものもなく,そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが 誰いうとなく 白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
鷺の群 かずかぎりなき鷺の群/そうぜんとして寂しきものを 古泉千樫(1886-1927) 東京都文京区教育委員会 昭和63年3月」
かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であったが,明治時代ぶ荒廃して,白鷺の営巣地となったため,この名がついた。(標識より)
③付属横坂(ふぞくよこざか)(#765)


文京区大塚1丁目と2丁目の間。大塚警察署前から東に入り,ゆるくS字状に曲がりながら,筑波大付属中・高校前付近まで上る。東に向かって上る。180m。やや急坂。S字状に曲がる,美しい坂。標識なし。
美しく環境に恵まれている坂に,どうしてこんな不粋な坂名がついているのか。右にお茶の水女子大,左にこの坂名の由来と推察される筑波大(旧教育大)付属中学・高校がある。かなりの勾配だが,道幅が広いので見た目にはそれほどには感じられない。(「今昔東京の坂」より)
参考文献:「今昔東京の坂」岡崎清記 日本交通公社刊 1981
<編注>「付属横坂」は(筑波大)付属(中・高)の横の坂、ということです。最初は正直ビックリしました。
大塚小学校(左) / 筑波大付属小(右)


筑波大付属中・高
「付属横坂」の坂名は、この学校の横にあるから、と思われます。


筑波大付属中・高とお茶の水大の間が「付属横坂」です。


④七丁目坂(ななちょうめざか)(#766)




文京区関口3丁目。都道435号音羽池袋線から西の“関口三丁目公園”から獨協学園中学・高校方面に上る狭い階段坂。坂下は南西に,途中は西南西に,坂上は南に上る西北西に向って上り。75m。かなり急坂。右に2回曲がりながら上る階段坂。
標識なし。旧・音羽七丁目と八丁目の間を上る坂なのでこの坂名となった。(「ぶんきょうの坂道」による)
参考文献:「ぶんきょうの坂道」文京ふるさと歴史館 平成20(2008)年改訂版
<編注>坂名と坂解説は、
「坂学会/東京23区の坂」sakagakkai.org に依拠。
坂名の直後の(#)は『秀樹杉松』坂めぐりの通算合計坂数。写真撮影はAtelier秀樹。
『秀樹杉松』99巻2708号 2018-10-21/ hideki-sansho.hatenablog.com #348